a_hona の回答履歴
- 音楽とは 郷愁である。
音楽とは 郷愁である。(今道友信) こう言えば 分かりやすいのでしょうか? つまり われに還ること あるいは わたしがわたしであることの固有の時を垣間見させるしらべだと言えるかと思って来ましたが ふるさとと言うと 分かりやすい。 ふるさとに帰ろうかなといったおもむきなりと。 あるいは人によっては いくつかの故郷があるかも知れない。或る程度稀有な経験をして第二・第三の故郷も出来ているかも知れない。 あるいは その帰郷の旅をオデュッセウスよろしくいくつかの回り道を通らねばならないかたちで その曲が現わしつつ調子を奏でているのかも知れない。 こう捉えると 曲に標題があろうとなかろうと いづれもともに普遍的な感覚を醸し出していると見ることも出来る。 ちょっとまとめすぎなんですかねぇ。 そう思うと 現代音楽には この郷愁が皆無ですよね? お考えになるところを述べてください。
- アホvs哲学者
愚か者にとっては屁でもないのです。......恥だの、不名誉だの、侮辱だの、悪口だのといつたものは、それを感じる人間にだけ痛みをもたらすもので、感じない者にとっては不幸でもなんでもないのですから。......でも、どうやら哲学者のお歴々が異を唱える声が聞こえるようです。痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである、とおっしゃっているようですね。とんでもない、それが人間であるってことですよ。 (エラスムス『痴愚神礼賛』31,32 沓掛良彦訳 中公文庫82ページ) *** *** *** *** *** 痴愚の女神が、アホの効能について語つてゐる文章です。 アホと哲学者は、どちらが幸福ですか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#214841
- 回答数20
- 誰か「存在」を定義して頂けませんか?
哲学ではよく使われる「存在」という言葉 しかしその定義 意味解釈は人それぞれ違うようです 存在とは何の事を言うのですが 私は 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・性質 と定義しました。 存在を定義するには何を単位?基準に存在とするかが問題だと思うのですが 実存主義でも唯物論でも何を持って存在とするかが違ってきます 例えば酸素分子は存在するのか?鎌やスコップは存在するか?動物は、人間は存在するか? 精神は存在するのか?宇宙は存在するのか? 存在はどう定義すればいいでしょうか?私の定義は間違っているでしょうか? エネルギー・物質の個性を単位にしたのですが。よろしくお願いします。
- 誰か「存在」を定義して頂けませんか?
哲学ではよく使われる「存在」という言葉 しかしその定義 意味解釈は人それぞれ違うようです 存在とは何の事を言うのですが 私は 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・性質 と定義しました。 存在を定義するには何を単位?基準に存在とするかが問題だと思うのですが 実存主義でも唯物論でも何を持って存在とするかが違ってきます 例えば酸素分子は存在するのか?鎌やスコップは存在するか?動物は、人間は存在するか? 精神は存在するのか?宇宙は存在するのか? 存在はどう定義すればいいでしょうか?私の定義は間違っているでしょうか? エネルギー・物質の個性を単位にしたのですが。よろしくお願いします。
- 誰か「存在」を定義して頂けませんか?
哲学ではよく使われる「存在」という言葉 しかしその定義 意味解釈は人それぞれ違うようです 存在とは何の事を言うのですが 私は 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・性質 と定義しました。 存在を定義するには何を単位?基準に存在とするかが問題だと思うのですが 実存主義でも唯物論でも何を持って存在とするかが違ってきます 例えば酸素分子は存在するのか?鎌やスコップは存在するか?動物は、人間は存在するか? 精神は存在するのか?宇宙は存在するのか? 存在はどう定義すればいいでしょうか?私の定義は間違っているでしょうか? エネルギー・物質の個性を単位にしたのですが。よろしくお願いします。
- 脳を持った体と脳由来の精神で人間?
人間とは何か?と問えば 私は 人間とは精神であると考えています。 常識では人間とは体を持って心(精神)を持つもの と考えるかもしれませんが 体は猿でも持っています。猿なら色んな種類がありますし 交配不能なものもあるのでは? 人間とはその動物の猿の事ではありません。 経済社会、特に資本主義では猿山のような上下関係がありますが その様なものが人間ではありません、人間性ではありません 人間性とは猿の様にではなく 言葉を持ち、智慧を持ち、文化文明に浴して 己の理性と良心と感性で言動するものです。ユーモアやアイロニーを持ち 笑って握手して平和を望むものです。 人間性が戦争を望んだら 人間はおしまいです。 人間とはなんだと思いますか?異論・反論オブジェクション!?
- 脳を持った体と脳由来の精神で人間?
人間とは何か?と問えば 私は 人間とは精神であると考えています。 常識では人間とは体を持って心(精神)を持つもの と考えるかもしれませんが 体は猿でも持っています。猿なら色んな種類がありますし 交配不能なものもあるのでは? 人間とはその動物の猿の事ではありません。 経済社会、特に資本主義では猿山のような上下関係がありますが その様なものが人間ではありません、人間性ではありません 人間性とは猿の様にではなく 言葉を持ち、智慧を持ち、文化文明に浴して 己の理性と良心と感性で言動するものです。ユーモアやアイロニーを持ち 笑って握手して平和を望むものです。 人間性が戦争を望んだら 人間はおしまいです。 人間とはなんだと思いますか?異論・反論オブジェクション!?
- 精神も性質も目に見えず、情報を持ったものです?
精神も性質もセイシ まで一緒です。ひょっとして語源も? 僕が考えられる範囲で精神の存在を説明するとすれば 脳の脳内伝達物質やニューロンの電気伝達や、ホルモンゃ脳波や・・・ そう言った物質的、エネルギー的現象の「性質面」 その様な現象によって目に見えない性質の反応が複雑かつ組織的に起こり 我々の知る自我、我、意識、心、精神を実現していると考えます(後は言葉の問題) 異論のある方は持論を御提示下さい よろしくお願いします。 精神は何ものであるか?です。
- 人生は矛盾だらけ!
私の質問をご覧くださりありがとうございます。 タイトルの通り、人生は矛盾だらけだなと最近強く意識しています。例えば… ・勤勉でないと失敗する可能性が高いけれど、人間には怠け者の側面がある ・人を信じすぎると痛い目を見るけど、疑いすぎるのもよくない ・社交辞令は円滑な人間関係の為に大事だけど、本音を全く言わない人は信用されない ・他者と何かを共有する事からコミュニケーションが生まれるが、他人に合わせてばかりで自分のオリジナリティを発揮できないと人生がつまらない こういった矛盾に対し、適度なバランスで生活できる人が「器用な人」なのだと思います。哲学的に言えばアウフヘーベンって言うんですかね。 私と似た事を日頃考えてる方はいらっしゃるでしょうか? またはそうでない方も、何でもいいので、書き残していってくれると嬉しいです! それでは失礼します。
- 今、哲学は何をなすべきか?
この現代のこの今 哲学に出来る事はないでしょうか? 道徳・モラル提示?思想・宗教提示?科学検証? 今価値観がバラバラで多様化だから良いと言う面と バラバラで分かり合えない面と在る様に思います。 いま哲学に何ができるか 再度質問したいと思います。 長文御免 哲学する人の責任でお願いします。
- 精神は性質で出来ている か?
私は色々考えた挙句 精神は脳の物質反応による性質のハタラキによって出来ていると考えます。 それ以外に説明がつきません そうだと言う方 そうじゃないと言う方の精神の存在の説明をお願いします。 性質というのは物質にもあり、生命・生物にもあり 人間にもあるものです。 性質とはその存在が持つ力 によるハタラキ そしてそのシルシでもあると思います。 これは結構大きな問題です。精神とは何か? 性質で出来ているか? [勿論環境(文明文化とか)や食物なども精神には関わってきます]
- 存続? 存在とどういう関係? アイデンティティ?
存在と存続はどういう関係でしょうか? 存続するものはある様に思われますが しかし全く同じ状態じゃない アイデンティティという言葉で説明できるのでしょうか? 物質にしても、生物にしても、人間にしても 存続していると言いますが 存続って どう説明すればいいのでしょうか? 存在の実現と存続の実現は違う原理がるでしょうか?
- 存続? 存在とどういう関係? アイデンティティ?
存在と存続はどういう関係でしょうか? 存続するものはある様に思われますが しかし全く同じ状態じゃない アイデンティティという言葉で説明できるのでしょうか? 物質にしても、生物にしても、人間にしても 存続していると言いますが 存続って どう説明すればいいのでしょうか? 存在の実現と存続の実現は違う原理がるでしょうか?
- 復習するは我にあり?
中高の整備委員、美化委員からは 人は無責任に見えても 色々と事情があるのだと言う事が分かった。 哲学をして世の中の問題を解決しようと強く思った。 大学に入ってみると 教育大なのに受験に疲れて元気なく、また採用試験に有利と言って 校内暴力に対して少林寺拳法をやってるのを見た。何か違うと思った。 大学をやめて野に下り ドロップアウトして最底辺の生活をした。力が抜けていった 最底辺は楽だが 充実しない。バイトをしながら考えに考えた。 仕事に就いた 労働をした。考える事もあまり出来なくなった。 東京に出た 情報量が多かった。色んなものを見たが病気になってしまった 障害者になった 今まで出来た事が出来なくなった。 就職した 弱者の立場が分かった。 仕事をしながら考えた 存在性思想に辿り着いた。 家庭教師をした 出来ない子の悩みや喜びが分かった。 存在性思想を宣伝した 分かってくれる人は僅かだた。 時間ばかりが過ぎた だんだん空しくなってきた。流された。 今 存在性のことを書いたが やはり反応は少ない このまま私は消えていくのだろうか?残念だ。 私はどうすればいいのでしょうか? (1)このまま消えていく (2)哲学をやめて楽しむ (3)哲学を頑張って乗り越える (4)哲学をやめて苦しむ (5)早く天国社に行く。 さあどれでしょうか?
- 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか
たたき台をしるしますので お考えを述べてください。 【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24) (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。 (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。 【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17) (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。 (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。 (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。 (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。 ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~ 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに しるしを付けられた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (7) のちに: ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。 ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが: ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする ☆ とも言っている。 (8) イエスの出たあとでは こう言う。: ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~ 17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』 と主は言われる」(申命記32:35) と書いてあります。 20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (箴言25:21-22) 21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19) (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。 (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。 【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.) (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。 (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。 (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。 【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6) (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。 (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~ 2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 文字は殺しますが、霊は生かします。 7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§6】 イエスの後の現代 (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。 (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。
- 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか
たたき台をしるしますので お考えを述べてください。 【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24) (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。 (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。 【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17) (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。 (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。 (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。 (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。 ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~ 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに しるしを付けられた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (7) のちに: ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。 ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが: ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする ☆ とも言っている。 (8) イエスの出たあとでは こう言う。: ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~ 17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』 と主は言われる」(申命記32:35) と書いてあります。 20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (箴言25:21-22) 21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19) (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。 (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。 【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.) (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。 (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。 (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。 【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6) (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。 (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~ 2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 文字は殺しますが、霊は生かします。 7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§6】 イエスの後の現代 (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。 (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。
- 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか
たたき台をしるしますので お考えを述べてください。 【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24) (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。 (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。 【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17) (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。 (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。 (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。 (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。 ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~ 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに しるしを付けられた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (7) のちに: ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。 ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが: ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする ☆ とも言っている。 (8) イエスの出たあとでは こう言う。: ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~ 17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』 と主は言われる」(申命記32:35) と書いてあります。 20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (箴言25:21-22) 21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19) (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。 (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。 【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.) (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。 (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。 (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。 【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6) (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。 (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~ 2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 文字は殺しますが、霊は生かします。 7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§6】 イエスの後の現代 (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。 (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。
- 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか
たたき台をしるしますので お考えを述べてください。 【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24) (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。 (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。 【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17) (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。 (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。 (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。 (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。 ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~ 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに しるしを付けられた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (7) のちに: ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。 ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが: ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする ☆ とも言っている。 (8) イエスの出たあとでは こう言う。: ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~ 17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』 と主は言われる」(申命記32:35) と書いてあります。 20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (箴言25:21-22) 21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19) (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。 (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。 【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.) (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。 (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。 (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。 【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6) (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。 (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~ 2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 文字は殺しますが、霊は生かします。 7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§6】 イエスの後の現代 (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。 (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。