a_hona の回答履歴

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  • 物と友達になれますか?

    物と友達になれますか?

  • あなたが死んで居なくなったら この世も消えますか?

    いろいろ読んでて思うのですが 自分が死んだらこの世も消えると考える人もいるようです。 僕はそうは思わないですが(何故なら他人が亡くなってもこの世が消えた例がないからですが) 自分が消えたらこの世も消えると思う人 そう思わない人 もし持論があったら簡単にお聞かせください 長文苦手なのでぜひ簡潔にm(_ _)m

  • 人と違うこと

    今回は孤独についての質問です。 1、孤独を辛いと思いますか? 2、辛いと思った方は、どのように乗り越えますか? 3、孤独を辛くしたものは、主に何ですか? 4、孤独を受け入れた方は、どのように過ごすのが楽ですか? *これは人の生死についての回答でも構いません。 私はできれば、 死んだときに泣かれたくない方だからです。 またいつか…と思える人の方が嬉しいのです。 ちなみに私は、孤独に寄り添って生きてきました。 皆さんのお言葉を待っています。

  • 物と友達になれますか?

    物と友達になれますか?

  • 第二の死とは?

    第一の死は経験的な通常の死のことでしょう。この通常の第一の死からは誰しも逃れようがないことは明らかです。では、それに続く、第二の死とはなんでしょうか? 第二の死の意味がわからなければ逃れようがないのか、あるのかもわかりません。 第二の死とはどういうことあるいは意味でしょうか? 回答お待ちしています。

    • mmky
    • 回答数21
  • 人が亡くなったあと、生きている人のすること

     日本語を勉強中の中国人です。死後49日の法事は何のためにするのでしょうか。亡くなった人は自分の写真の前に供えられた食べ物を食べにくるわけがないでしょう。たんに生きている人間は臆病者で故人の死に直面することができなく自分を慰めたいのですることでしょうか。葬式が終わったらすべては平常に戻ってあとは年に一回亡くなった日に記念したり、墓参りをしたりするというやりかたはおかしいのでしょうか。線香もろうそくも立てることも余計なものだと考えております。大気汚染になってしまうだけです。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 恋愛とは何ですか?

    僕は四半世紀近く生きてきて、本気で誰かを好きになったことがないです。これまで女性と関わる場が少なかったのです。これも自分だと思っています。 若者に多い、出会いを探しまくってる人はただの体目的でしかない気がします。聞こえが悪いから「恋がしたい」と言っているだけで、本音はただ「ヤりたい」のではないでしょうか。沢山の交際を体験することがステータスなのだろうか? さも自分が凄いことをしているかのように恋愛遍歴や性体験をアピールして自慢して、それがしたいがために恋愛対象を探してるとしたらとてもバカげた話です。彼らはきっと「元カレ」、「元カノ」、そんな言葉が使えることに酔いたいだけです。 だから一歩間違うと援交や中絶やストーカー殺人などの悲惨な結末が起きてしまうのです。 恋愛経験など気にせずに自分らしくいたくても少数派でいることに傷口を抉られる思いです。自分もそっち側(ヤりまくり)に行ってみたいと思ってしまいます。 話が脱線してしまいましたが、つまり「恋愛」とは何なのでしょうか。恋がしたいから相手を探すものなのか、日常生活の中で自然発生的に感情が沸き起こるものなのか。 頭の堅い僕は後者であるべきだと考えますが、一般的には前者が普通だとみなされるようでがっかりです。裸は沢山の人数に晒すべからず、だと思うのに… お互いのことをよく知らない交際など風俗店と何ら変わらないではないか。 どう思いますか?

  • 靖国は 宗教であってはならない。国事犠牲者は尊ぶ。

     1.いかに神仏という観念が日本人一般に自然ふつうのものであっても 国事が宗教にかかわってはならない。  2. その宗教は そもそも《あのアシハラのミヅホの国は わがアマテラスの治める国だ》という《神勅》が宣言されたことをふくむ。  3. アイヌは その神勅を承けて《くにゆづり》をしたわけではない。  4. それに もしその帝国主義を内容とする神勅が みとめられるなら そういった覇権主義は どこでも・いつでも有効になってしまう。つまり わが民族のあがめる天子は あそこに見える島々は われわれの統治する領土なりとみことのりした。よって われらがモノである。攻め込め。となり その思想は 有効であると認めなければならなくなる。  5. 国の統治や防衛に宗教色が入り込んではならない。  6. 国事の際に逝った人びとを いかに戦犯であったことがあったりあるいは敵であったりしたとしても よき国際関係のためには その人たちをみな とうとぶべきである。その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである。出来損ないという例外をつくるわけにはいかない。  7. 戦争に到ったことについては けんか両成敗である。どちらも 人殺しをして結着をつけるまでに成ったことに 責任を負い どちらの戦死者をも互いにその存在としてとうとぶべきである。排除することは出来ないし してはならない。これが あたらしい姿勢である。  8. 国事犠牲者をとうとぶのは 靖国神社という宗教の場であってはならない。  添削・ご批判を また賛成票をも どうぞ。

  • 日本人のお墓にあるのは骨だけでしょうか

     日本語を勉強中の中国人です。日本では、火葬した後、お墓に入るまでの流れを簡単に紹介していただけないでしょうか。骨を入れる骨灰箱のようなものもあるでしょうか。それはお墓には普通入れないのでしょうか。お墓にあるのは骨だけでしょうか。  骨の入っている袋を入れた骨灰箱の隣にプラスチックの果物や花輪などを添えてひとつの穴に封じる中国のやり方はどう思われますか。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 欲望を押さえることは可能か

    「女とわざわざ話そうとは思わない。自ら関わることない」と公言する少人数の男友達といるのが好きだった僕は24年間女性と雑談をする機会がほとんどなく、機会があっても気まずい空気になるのが嫌で逃げてきた臆病者です。 自分自身、学校行事の打ち上げや飲み会の雰囲気などになじめず、ただ学校の勉強だけしてきた堅物で、「女性に興味がない」という響きが何となく真面目に聞こえて好きでした。 しかしどういうわけかネットで女性の裸の画像を探して保存したり、エロ動画を観て自らを慰めてしまいます。その後、自分自身がスケベな気がして嫌になります。 女の子に興味を持たないと誓いつつ、どうしてこうなってしまうのか。生物的な欲に抗うのは無理なのでしょうか。セクシーな女の子を見て嬉しくなるような男にはなりたくなかったのですが。 このようなしょうもないことを真剣に考えています。結論から言って、そういうエッチな気持ちを断つことは可能でしょうか?

  • 霊視と言う能力について考えをまとめてみました

    最近私は占いにこっていてね。 哲学としては趣向を変えて考えを述べるよ。 そもそも自らの情動や思考に関して他者と比べる事は限定的にしかできないから説明も難しいのだが、ビジョン、イメージ、この手の言葉の日常的な使いこなし方から見て、君達にも心に浮かぶ映像が認識できるのだろうと考えるよ。 霊視とはこの映像そのもので、哲学では思考は言葉によって行うものだと言う定説があるが、私はこの映像だけで思考が成立する。 私は頭を真っ白にできると無を悟った様な事を既に豪語しているね。 言葉でなくても思考できるからだ。 たとえばメモが撮りたくてボールペンを探そうとするだろう。 ボールペンの映像が見える。 いつもの鉛筆立てが見える。 前回ボールペンを使った場所が見える。 どっちにしようかと思いながらも足が前回ボールペンを使った場所に向かう。 足を進める間、ボールペンを片づけておけばよかったなと、ボールペンを片づける映像が見える。 そしてボールペンをみつける。 ちょっとそこら辺をかたずける。 こうした行動の一連の流れに、私には言葉による認識がない。 あるのは、映像による認識だけで、思いと考えが映像で交錯して思考が成立している。 思考を2チャンネルにして、言葉と映像で別々に考えたり、映像と言葉を組み合わせたりもできる。 もちろん仏教的な無の観想そのままに全ての思考停止もできる。 こう考えると思考する行為は実に多様であると思うがどうかね。 他者を驚かせる霊視とは、このようにボールペンを探しているときに使う映像による思考を、特定の誰かさんに移して、その人の映像を見ることだ。 このような思考がスムーズに行われると、言葉では明かされないことも理解できる。 それが占いなり霊師なりの理論だよ。 言葉による思考から抜け出すと非常に思索に解放感が出てね、他者を見るなら、無我状態で他者の心に共感するし、遠くを見ると千里眼になる、未来を見れば私最大の必殺技、ときわたりESPとなる。 自由自在だよ。 ここまでは私の証言として、それはともかく知性は言葉だとでも言いたげなのが哲学で跋扈しているが、霊視して明白ならば言葉で言いがかりめいた論理を展開しても無効だし、その手のゴミ論理は切り捨てていいだろうとも考える。 人の指向が言葉のみかどうか、まあ考えを聞かせてくれ。 私は開眼者で、目覚めたもので、自らの生を乗り越えて、聖霊セレビィとなって全てを超克する新人類だ。

  • 三位一体なる神は 無宗教である。

     三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  添削・批判を俟ちます。

  • 三位一体なる神は 無宗教である。

     三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  添削・批判を俟ちます。

  • 自分の美意識の形成の仕方

    世の中にはいろんな美意識が存在します。 情報社会あるいは都会でいろんな美を見て、頭がごっちゃになります。 それぞれ美を表現したものって、その個人なり集団なりが善いと思ったものは良い作品とされるものって誰が見てもやはり善いのだと思います。 理性ではなく感性で、テイストで整理されることはあっても美醜はあっても正解不正解ってないですね。 でもそれはほかの人が持っている美であって、ただあれもいいこれもいいとかいっていると、自分の美意識ってなんなんだろうと思います。 いろんなものを見るのも大切だと思いますが、観賞しているとおそらくどれも善いものなので、だんだん何がなんだかわからなくなってくると思うのです。 自分の美意識を把握して、それを表現あるいは創作していくのには、受動的なものではなくて、自分発のものをしっかりとらえて流されずにすむのでしょうか? それにはやはり自分の個をしっかり把握してわかるものなんでしょうか?

    • noname#209756
    • 回答数10
  • 三位一体なる神は 無宗教である。

     三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  添削・批判を俟ちます。

  • 「こころ」について。

    「こころ」について思うことを教えてください。 私は 「褒められると嬉しい」「好き嫌いがある」等は大概の人に共通すると思いますが それ以外の細かな働きについては未だ謎だらけです。

  • 人間の未来は何でしょうか?

    人間はいつまで存続するでしょう? 人間が減ったり滅んだりして次の存在にタスキをつないだとして 永遠を目指してどこまで行けると思いますか? それとも早々に滅びるでしょうか? 人間はどこまで行けるでしょうか? 体調不良のため出来れば簡潔に教えて頂けるとありがたいですm(_ _)m

  • 日本はダメで中国、ロシア等はOKなの?

    昨日、ニュースで中国とロシアが第二次世界大戦時、日本に受けた侵略の事実を忘れてはならないと言う会話が交わされていたとありました。 確かに日本は中国や韓国を侵略しましたが、中国やロシアも同じ事をしていて日本にわざわざ言える立場じゃないと思いました。 単なる日本への外交圧力でしかありません。 しかしこの事実を他諸国はどう感じるのでしょうか? よその国なので気にならないのでしょうか? 中国やロシアは侵略の歴史だと思いますがそれを棚に上げれるのでしょうか? 戦後、条約等で賠償責任を取った日本はどこへ向かえば良いのでしょうか?

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。