a_hona の回答履歴

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  • 死んでいい人間はいない

    死んでいい人間はいないっていいますけど 死んでも困らない人間はいますよね? 例えば私が死んでも貴方は困らないはずです 一切の関わりも何もない存在でいないのと一緒だから では、その死んでも困らない人間が死んではいけない 貴方の立場から考えた理由は何でしょうか? っていう問いにはどう答えればいいですか?

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 年老いた両親と精神疾患者の結婚

    考えた末の質問です。 私には精神疾患が有ります。手帳所持者です。薬を服用しています。ですが、セールスの電話の対応(居留守)や家族への電話の取り次ぎ、玄関での荷物の受け取りやセールス対応、テレビの録画等は出来ます。相手からすれば、私に精神疾患があることが分からないくらいです。近所の方も私は身体の調子が悪いとは思っていても、精神疾患が有ることは知りません。でも、私はいつ失神するか分かりません。事実、ずっと調子が良かったのに、先日突然失神して、救急車で病院に行ったくらいです。それでも普段はなんともないのです。 私には年老いた両親がいます。両親を安心させたいといつも思っています。【早く結婚して孫の顔を見せたい】と、良く耳にします。が、私は【自分が健康でいることが心配を掛けない、両親に対する一番の親孝行】だと思っています。だからといって結婚には対しては強い憧れが有ります。【結婚して両親を安心させたい】とも思っています。こんな自分を受け入れて下さる方もいると、思っています。 結婚したい 年齢的に子供は諦めてはいますが、正直申しますと欲しいとも思っています。ただ、私が結婚すると年老いた両親に何かあった時どうなるかという思いも有ります。 今、私には結婚を約束した方はいません。お付き合いしている方どころか、好きな方もいない状態です。 仕事をしておらず、家にいます。ですから今のままでは出逢いはありません。でも、逆に結婚を諦めるなら、最高のタイミングだとも思っています。 精神疾患者でも結婚は出来るとは思っています。でも、年老いた両親は私が子供の頃から私優先の生活をしてくれたのに、私が結婚して家を出ることは、まるで両親を見捨てる気がしています。 両親は私には結婚を望んでおらず、老後の面倒を期待している感じです。無職の弟がいますが当てにはしていない感じです。嫁いだ姉がいますが、相手は長男で金銭的な援助しか望めません。また、姉も弟も私は結婚しないと思っています。私は一体どうしたら良いのでしょうか? 後、始めての質問なので、ベストアンサーはどのくらいの期間、どのくらいの回答を頂いたらするものでしょうか?

    • itnsi
    • 回答数6
  • 苦しいです…

    高校二年生男です。 名声がほしい。 くだらない理由で入った強豪弓道部 そんな俺は最高の環境、最高の同級生、最高の後輩がいた。 全国大会にもいって入賞もしたし、12月には彼女もできた。 幸せすぎたんだな… 彼女には 昔好きだった人の事を思い出してしまう、 とふられて 自分は彼女を本気で愛していたので先日 俺が君のことを好きでい続けるのを許してください と意味不明な事を言ったら 私はこれから先あなたの事は尊敬できる先輩としかみれないと思います って言われた。涙出んかったけど涙出た 来週ある大会は課題未提出で俺だけが出場できない 今日は2年になって以来始めて部活をサボった 苦しくて苦しくて… 食べ物が喉を通りません、二度吐いてしまいました こんな苦しみ味わったことない 死ぬ勇気なんてないし 何も 何もわかりません… 何を欲して質問してるかさえも分からないです… 皆さんの客観的な意見が欲しいです 苦しさから開放されたいです、学校も多分明日は休みます 苦しくなくなるためにはどうすれば、どう考えればいいですか

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 貴方の心の宝はなんですか?

    あなたが心の宝にして 大事に思っているものはないですか? 人でも、思想でも、思い出でも、夢でも、趣味でも、習慣でもなんでも構いません 僕は哲学でしたが 自分の哲学に限界を感じました。 今は職場の人を宝と思っています。家族がいないもので(^^ゞ 皆さんは何を心の宝だと感じてますか?

  • コトバは 虚構ではないのか?

     コトバは 何らかの実質的なものか?  もしくは実質のあるものを指し示す場合には 虚構ではないか?  つまり《意味内容》と コトバ(音声・文字)とは 一対一に対応しているのだろうか?  コトバは シルシであるのではないか?  方便であり 補助線であり 虚構として用いるものではないか?  虚構が――小説作品と同じように―― 一編の真実を表わすことは もちろんある。つまり 補助線であるのではないか。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 仏教の如来について

    宗教についての質問ですがカテゴリがないのでこちらで質問させて頂きます 仏教において菩薩が修行して解脱し如来になりますが 阿弥陀如来や薬師如来、大日如来などの大乗仏教の如来たちも 元は人間で菩薩を経て如来になったのでしょうか? クグッても人間のときのエピソードなどが出てこないんです

    • tbx
    • 回答数7
  • コトバは 虚構ではないのか?

     コトバは 何らかの実質的なものか?  もしくは実質のあるものを指し示す場合には 虚構ではないか?  つまり《意味内容》と コトバ(音声・文字)とは 一対一に対応しているのだろうか?  コトバは シルシであるのではないか?  方便であり 補助線であり 虚構として用いるものではないか?  虚構が――小説作品と同じように―― 一編の真実を表わすことは もちろんある。つまり 補助線であるのではないか。

  • コトバは 虚構ではないのか?

     コトバは 何らかの実質的なものか?  もしくは実質のあるものを指し示す場合には 虚構ではないか?  つまり《意味内容》と コトバ(音声・文字)とは 一対一に対応しているのだろうか?  コトバは シルシであるのではないか?  方便であり 補助線であり 虚構として用いるものではないか?  虚構が――小説作品と同じように―― 一編の真実を表わすことは もちろんある。つまり 補助線であるのではないか。

  • 生涯未婚の人はどうしているのですか?

    男性の生涯未婚率は今や20%ほどで、今後35%にもなると言われていますね これから未婚でいる事は普通になって恥ずべきことじゃないのではと思います なぜ今までそう思ってたのか不思議なぐらいだ 今は仕事よりも嫁さんを見つける方が難しいと聞きます さらに自分は工業科の大学生なので、女性と知り合う機会が皆無ですし仕事も工業に携わりたいので今後もないでしょう あともてたことがありません 親はよくお前に子どもができたら~とか言うのですが、何人かの女知り合いも子どもいらんて言っていましたし、結婚って苦労してまでする必要ないんだなと思うようになりました しかし街でカップルを見るとちょっと、あ いいなと思ってしまいます 実際結婚して子供ができるってそんなにいいことなのでしょうか 未婚が増えていけば趣味仲間も増えて孤独ではありませんね 結婚して子どもに使う費用に比べればAVや風俗で十分です あと不安と言えば、家事、事故病気になったとき、老後 です これからは独身の人向けのお手頃で、手軽に世話をしてくれるビジネスが出てくるのでしょうか? 例えば訪問で身の回りの家事をしてくれて、老後も介護施設が充実して死ぬ時も安心といったようなことや独身向けの保険 万が一のためにお金を貯める必要があります それは努力して貯めるしかないです 未婚の方、生きがいと不安はありますか? 独身でよかったこともあれば教えてください

  • コトバは 虚構ではないのか?

     コトバは 何らかの実質的なものか?  もしくは実質のあるものを指し示す場合には 虚構ではないか?  つまり《意味内容》と コトバ(音声・文字)とは 一対一に対応しているのだろうか?  コトバは シルシであるのではないか?  方便であり 補助線であり 虚構として用いるものではないか?  虚構が――小説作品と同じように―― 一編の真実を表わすことは もちろんある。つまり 補助線であるのではないか。

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • どうしたら空回りしませんか

    顔と名前が一致しなくて 話がうまく伝えれなく、説明も下手で 仕事も人並みに出来ないし ある程度仲良くなると、人見知りみたいに話ができなくて 空気がうまく読めなくて、気遣い出来る人がうらやましい 好きな人には、がっついてしまって、最後は最悪なフェールドアウト 好かれると駄目で逃げてしまって 周りからは天然と言われて 友達と話しても下に見られ 意見をしても流されて、いじられる対象にされやすくて 争いたくなくて笑って過ごして 引きこもりたくなくても、人を誘う勇気も出なくて やりたいことがあっても、皆は苦手で、結局一人でやるしかなくて 中途半端に生きてきました。 今まで逃げてきたつけでしょうか。空回りしてばかりです。 心が空しい気持ちです。

  • 生涯未婚の人はどうしているのですか?

    男性の生涯未婚率は今や20%ほどで、今後35%にもなると言われていますね これから未婚でいる事は普通になって恥ずべきことじゃないのではと思います なぜ今までそう思ってたのか不思議なぐらいだ 今は仕事よりも嫁さんを見つける方が難しいと聞きます さらに自分は工業科の大学生なので、女性と知り合う機会が皆無ですし仕事も工業に携わりたいので今後もないでしょう あともてたことがありません 親はよくお前に子どもができたら~とか言うのですが、何人かの女知り合いも子どもいらんて言っていましたし、結婚って苦労してまでする必要ないんだなと思うようになりました しかし街でカップルを見るとちょっと、あ いいなと思ってしまいます 実際結婚して子供ができるってそんなにいいことなのでしょうか 未婚が増えていけば趣味仲間も増えて孤独ではありませんね 結婚して子どもに使う費用に比べればAVや風俗で十分です あと不安と言えば、家事、事故病気になったとき、老後 です これからは独身の人向けのお手頃で、手軽に世話をしてくれるビジネスが出てくるのでしょうか? 例えば訪問で身の回りの家事をしてくれて、老後も介護施設が充実して死ぬ時も安心といったようなことや独身向けの保険 万が一のためにお金を貯める必要があります それは努力して貯めるしかないです 未婚の方、生きがいと不安はありますか? 独身でよかったこともあれば教えてください

  • なぜ皆さんいきているのですか?

    30代男性です。 最近死にたいとは思わなくても生きていたいと思わなくなりました。 つかれているのでしょうか? 仕事も上手くいかない、人にも好かれない、何のとりえもない、目的意識もない、 このまま倒れて死んでもいいではないかと思うようになりました。 自分を変えようと思ってもなかなかかえられず、人との揉め事は日常茶飯事(仕事のやり方の対立などで上司にはむかってしまう)、もっとおとなしく、上手くやればいいのにと思う。 自分はなぜこの仕事をしていて、これからどうなりたいのかビジョンがまったくない 落ちこぼれているという感覚です。 他の人みたいに、楽しく生きたいとおもうのに、笑ったりしたいと思うのに、その気力がない。 悲しいです。 自分におそらく思いを寄せてくれているだろう女性はいます、私も想いがありますが、その相手からは、必ず生きるという気力がある人が好きといわれています。普通の人なら軽く越せるバーが今の私にはとても高く見えます。 仕事もある、しがみつくべき会社も世間的には立派でお金には贅沢しなければ困らない、これだけでも充分生きていく価値がる人生だとは思います。最低の人生ではないのになぜ生きる気力がないのでしょうか。。。 仲良くしてくれる友達もいる、大学のOB/OG方、先輩との関係も良好、なのになぜこんなに人生楽しくなく生きていくのでしょうか? きっと普通の人にはある何かが自分にはかけているから上手くいかないのではないかと思いはじめました。自分は欠陥人間なのだと。 皆さんはなぜいきているのでしょうか? 教えてください。宜しくお願いします。

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • 無の世界についての問答

      問う人: 人は死んだらどーなる。 「人の道」:人は死んだら消滅し無になる。 問う人: 無の世界に光は有るのか。 「人の道」: 無の世界に光は無い。なぜなら無の世界にはそもそも目ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に音は有るのか。 「人の道」: 無の世界に音は無い。なぜなら無の世界にはそもそも耳ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に匂いや香りは有るのか。 「人の道」: 無の世界に匂いや香りは無い。なぜなら無の世界にはそもそも鼻ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に味は有るのか。 「人の道」: 無の世界に味は無い。なぜなら無の世界にはそもそも口ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に風は有るのか。 「人の道」: 無の世界に風は無い。なぜなら無の世界にはそもそも肌ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に熱い寒いは有るのか。 「人の道」: 無の世界に熱い寒いは無い。なぜなら無の世界にはそもそも神経ってゆーものが無いからである。 問う人: 無の世界に喜びや悲しみは有るのか。 「人の道」: 無の世界に喜びや悲しみは無い。なぜなら無の世界にはそもそも心ってゆーものが無いからである。 問う人: では無の世界には何が有る。 「人の道」: 無の世界には何もない。なぜなら無の世界はただの無の世界だからである。どーじゃ、これで無が何かよー分かったろう。 問う人: はい、よー分かりました。 「人の道」: 人が死んだらどーなるかも分かったか。 問う人: はい、よー分かりました。人は死んだら消滅し無になる。 「人の道」: 何か不満はあるか。 問う人: いや、何も不満はありません。人は死んだら消滅し無になる。これで上等である。 「人の道」: 皆にも訊いてみー。 「問う人」: 人は死んだら消滅し無になるゆーこと、皆も分かったか?  

  • 《宇宙》が そんなに日本人は好きですかねぇ。

     ここで言う《宇宙》とは けっきょくあたまの中の観念としてだという含みで言っています。  ゴータマ・マジックとさえ言うべきブディズムの・その中身がワケの分からない《さとり》にからんで言い出されるばあいの宇宙です。  さとりと言えば 慈悲あるいは無私 こういった観念もが連想されるようです。  これを宇宙の中のわれという存在として思ったりするのでしょうか。  どうもすでにあたまの中に こういったさとり関係の観念が すでに回路ないし水路をつくりまたほかの人たちとのあいだにもあたかもそういった観念の運河をも築いている。――このようにさえ感じられます。  印象をもとにした話でありますが 日本人は《宇宙》が好きですよね?  なぜなのでしょう? ゴータマ・マジックという因縁のほかに何かありましょうか?