a_hona の回答履歴
- 人の死について
いきなりですが、人の死が怖いんです。 理由は現在、看護大学に通っており、病院実習へ行ったりします。そのときに、前日まで元気だった患者さんが次の日に亡くなってしまったんです。そのすぐ後に知人が亡くなりました。目の前で人の死を見て怖いと思ってしまい、講義で死についてやる度に嫌な気持ちになってしまうのです。今までは死について深く考えることも、怖いと思うこともなかったんです。こんな私でも、救命に進みたい夢があり救命は病棟よりも多くの死を目の前にすると分かっていても、救命に進む夢は変わらないんです。自分の中で気持ちが矛盾していて悩んでいます。慣れるしかないのでしょうか?あるいは考えないようにするしかないのでしょうか? 説明に意味が分からなかったりする点があるかと思いますがアドバイスなどを頂けたら嬉しいです。 向いてない、辞めろ等の意見は避けてほしいです。
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- noname#202498
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- どう思いますか? 自己(私)の感情と地震の相関
どう思いますか? 自由な憶測で構いませんので、回答頂けると嬉しい。 「自己(私)の感情」と「大きめの地震」の相関関係について。 実は、大真面目な話なのですが、私が本気で感情的に高揚する(圧迫感&抵抗感へのポジティブ的な私の抵抗感=反発)と、必ず大きな地震が起きるのです。例えば、昨日の四国方面の震度6の地震も、ピタリとタイミングが合い、私は怖いのです。他人を、ひょっとして、私が、殺している可能性があるからです。いったい私の上記の妄言的な、深刻な話を、「宇宙は自己の相対として派生している」という物理的事実からすると、何らかの相関関係が、プレートの歪みに何らかの影響が加わっている可能性がある。 自由な推測でよいので、Answers を待っております。 (マジなので、シャレにならんのです・・・)
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- ふじ-さん おたま-さん
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- 貧しい国の子供達の心や命が踏みにじられていいのか?
現代資本主義社会の中では お金がなければコンビニも何もくれません 貧しい国の子供を搾取してバナナ等を安く仕入れて 子供たちは成長出来ずに 学校も行けず 実際に死んでいくアフリカの子供たちも沢山います。 日本人はその様な国の上に立って豊かな暮らしをしています その様な貧しい子供たちには人権はないのでしょうか? 死んでも仕方ない人間なのでしょうか? 子供たちの命より武器を作るほうが大事なのでしょうか?
- 仕事・恋愛・結婚と哲学・思想・信条 選ぶならどっち
誰だって大概の人は何でも夢が叶えばいいと思うと思いますが 実際には何かを捨てて何かを取るという場合が多いのではないでしょうか 自由を捨てて結婚を選ぶとか 伴侶を捨てて自由(離婚)を選ぶとか 夢を捨てて仕事を選ぶとか 仕事を捨てて夢に賭けるとか。 皆さんご自分なりの体験、現状がおありでしょうけど 皆さんの人生体験で 振り返って 仕事・恋愛・結婚という普通のコースを選ぶべきだったか 哲学・思想・信条をとことん明らかにすべきだったか どっちかしか選べないとしたら どっちを選びますか?
- 宇宙的な視野の解消法
子供の頃に、研究者だった父から宇宙について毎晩話し聞かされたせいか、 とても宇宙が好きです。(哲学も好きです) 「宇宙の広大さ」 「無数の星々」 「永久の時の流れ」 にいつも心が奪われていて、大人になった今も 「ちっぽけな人間」 「限りある命」 「地球」 に興味が持てません。 物事を宇宙的なスケールや哲学的な見方で捉えてしまい、 現実的な考え方や常識的なものをひどく嫌ってしまったり、 身の回りのささいなことを、どうでも良い事と思ってしまいます。 人のうわさ話やスポーツや娯楽などのいわゆる「世俗的な」物事 に興味を持っている人と完璧に付き合えなくなってしまいました。 このような考え方を直す方法はあるのでしょうか。
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- noname#192116
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- ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。
ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。 / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。 《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。 《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。 そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。 ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。 / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。 nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる) naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く) naga-i 長い (障害なく延びた状態にある) さらに語例を伸ばします。 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。 nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態) nago-mu 和む (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求) nega-u 願う (障害の消滅を希求) * どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。 つまり nagi 和ぎ nago-ya-ka 和やか nago-mu 和む これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。 * おぎなうべき議論の一端として: 音素・・・・=・・・・意義素 _______________ / n / = 同定相・否定相 / g / = 反出相;反定相・疑問相・変化相 といった仮説を前提としています。 いま / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相) といった複合によって / nVgV /なる音韻(シニフィアン) =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ) といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html
- 若い人達は愛と倫理を上手く身に付けてるでしょうか?
いま倫理と言ったらどうの様なものが基礎になっているのでしょう? 正義という言葉も使われなくなってきました 宗教や常識で判断するだけでは 何を信じて頑張っているのでしょうか? 生存競争のようなものでしょうか? AKB48がいいのでしょうか? 愛にしても、草食系男子はどの様な愛を持っているのでしょうか? 生き辛い時代に 若者達は引き籠もりやフリーターやブラック企業など に苦しんでいるのではないでしょうか? 今何が私達に出来るでしょうか?
- 神は幻想・幻影なのか?
神は幻想・幻影である。 ふっと疑問に思ったのですが、 「神は幻想・幻影である」は(論理的に)意味のある文なのでしょうか? これは、いわゆる《嘘つきのパラドクス》と呼ばれるもので、 「眠り猫は嘘つきである」 や 「眠り猫はいつも嘘をついている」 と同様に、 論理的に意味がない(真偽が定まらない、恒偽でも恒真命題ではないetc)、無内容な文、命題───真偽不定だから命題ではないか───、主張なのでは? 皆さんのご意見、お考えをお聞かせください。 わたしの質問ですから、 例によりまして、 この質問の内容に何かしら関係のある回答でしたら、どのような内容でも大歓迎です。 「眠り猫は嘘つきである。その通り!!」でも構いません(ニコニコ)。 自由に、気楽なご意見、お考えを教えてください(ペコリ)!! ご参考までに、 自己言及のパラドクス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%A8%80%E5%8F%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
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- NemurinekoNya
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- 恋愛をしたがる理由とは?
僕は24年間女友達すらいたことがないです。基本的に話しかけられることはなく、吃音で弱々しく挙動不審な自分をよく分かっていて、気味悪がられるのがオチなので自ら話しかけることはありませんでした。 世間に溢れる恋愛相談を見ていると、傷ついたり、友情にヒビが入ったり、人生がおかしくなったりすることがあるのに、それでも世の中の人々が異性を追い求めるのはなぜなのでしょうか? 学生時代の僕の友人は揃って恋愛している自分が想像できない、興味がない、わざわざする意味が分からないと言ってたので、これが普通だと思っていたのですが、違ったようです。 女性と仲良くしてみたい気持ちはありますが、アダルトチルドレンなフリーターでこれといった魅力もない自分では不可能だと悟っています。今は無理だとしても、仕事が決まれば少しは自信もつくのでしょうか。
- 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。
たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。 信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。 (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。 このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。 つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。 (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。 神および信仰は 人間の経験世界を超えている。 この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか? 内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。 神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。 これが 神である。これが 良心・信教の自由である。 無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。 まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。
- 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。
たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。 信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。 (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。 このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。 つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。 (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。 神および信仰は 人間の経験世界を超えている。 この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか? 内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。 神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。 これが 神である。これが 良心・信教の自由である。 無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。 まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。
- 死んだ目の治し方を教えて下さい
私は3年程前から『死んだ目をしている』『死んだ魚の目みたい』と言われるようになりました。 これは決して自慢ではないのですが、私は周りの人より容姿が整っていていわゆる美人という分類をされてきました。 この容姿のせいで子供の頃からロリコンの標的になり、ストーキングに会い、レイプに会い、親族から襲われ、おかしな噂を流され、高嶺の花と分類され友人も少なく散々な目に合ってきました。もちろん理解してくれて仲良くしてくれる友人も少なからず出きましたが、 今でもストーカーがついています。 嫌でも私の連絡先を探し出し連絡を取ろうとしてる人、私の私生活を付回す人の二人です。 現在15歳の高校1年生なのですがなぜ私がこのような目に合わなければいけないのかわかりません。 出来ることなら平凡な女の子に産まれたかったです。 話が少しズレてしまいましたが、この日々が続き気がついたら目が死んでしまい全く生気が感じられなくなってしまいました。 趣味は外に出ると85%の確率で声をかけられるので家で漫画、アニメ鑑賞をすることです。 下手な文章でごめんなさい。文になると真実味がなくて信じられないかもしれませんが全部本当です。 そんなこんなで学校に行く時以外ずっと家に引きこもってます。 それでたまに鏡を見る度、生き生きしていた目がどんどん死んでいって蝋人形のようになっていくのに悲しみを覚えるようになりました。 元気で明るかった昔に戻りたいです。 どうしたら子供の頃のような輝く目に戻ることができますか?? よろしかったらアドバイスお願いします。
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- その他(恋愛・人生相談)
- ilian3513
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- 非社会性パーソナリティ障害?
私には同じ会社の付き合って1年の彼女がいます。 彼女は価値観が違いながらも一年間共に過ごしてきました。 その価値観の違いでよく彼女とはもめてしまいます。 それは異性との交流です。 彼女は会社の飲み会で肩に手を回される、手を繋がれるのをあまり拒みません。 なぜか聞いてみると「自分からしたわけではないし向こうがしてきたから。」と言い、 なるべく断って欲しいと話すと「うまく断れない」と話します。 そんな隙のある彼女で先日飲み会で職場の飲み会で胸を触られるといったセクハラを受けました。 その男性とも同じ職場なので私とその男性はそれ以来関係が良好が保てなくなりました。 私としては物凄く辛かったです。 それを彼女が知り、私に「私はそんなに気にしてないし、向こうも酔ってたし。なんでそんなに怒るの?」と話します。 もちろん男が悪いのですが、常習的な人だったにも関わらず、呼ばれたからと言って隣の席に座り予期した通りの事が起こってしまうのは彼女にも非があると思います。 結局女性の先輩が上に報告し、その男は自主退職致しました。奥さんも同じ職場にいましたが、奥さんには事の真相を明かさない形でやめました。結果的には奥さんにも迷惑がかかってしまい、あの男がいなければ、と、彼女が席に呼ばれた時にしっかり断っていればとつい両面から考えてしまいます。 話し合おうとしましたが、中々理解せず、怒り出してしまいます。 それ以外にも ・合コンに行き、男性に家の前まで送ってもらう ・自分に気のありそうな異性に2人きりで食事に誘われて行きたいと話す ・よりを戻したがってる元彼と2人で飲みに行く ・別に気になる男性がいると話す。結局一番はトピ主だと思い、浮気はしていないと話をするが、具体的な関係を話したがらなく真相は不明である。今でもその人とは連絡している様子。 ・浮気をしてもいいかと度々聞く。浮気してもうまくいっているカップルはいるんだから本当に好きなら一度くらいしてもいいじゃないかという。 といった彼氏が困りそうなことを度々してきます。彼女的には男性と一緒に食事に行こうが体を触られようがそれは自分の問題なんだからあまり介入するなという感じです。 しかしそれは結果的に彼氏である私は困るし、職場の環境にも影響しております。 彼女は少しおかしいのではと調べてましたら非社会性パーソナリティ障害というのを知りました。 単なるわがままかとも考えられますが、嘘をついたり、断らなく衝動的に行動したり、自分の行動が相手を困らせていることを顧みたりしないことや僕が困っているのを少し楽しんでいる様子だったり、断れないからしょうがない、自分は悪くないといった正当化するような発言も多くあるためパーソナリティ障害に当てはまるような気も致します。 他の方のご意見頂戴できればと考えております。 また今後彼女とはどう接すればよいか考えております。 宜しくお願い致します。
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- 304201
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- 雑念と罪悪感
僕は大学既卒3年目に突入する24歳のフリーターで、就活とバイトを行う日々です。 今まで女友達や彼女がいたことがなくて、自分の現状を考えると仕方がないことだと諦めています。 職場で知り合って結婚した両親は「ナンパはいけないことで、遊びの男女交際はダメだ」という考えを持っています。 僕もそう思っているのですが、女友達が欲しくてたまらいときがあります。しかし日常生活で同年代の女性との関わりがないのでどうしようもないです。SNSで女性とのやりとりがあるぐらいです。 吃音で弱々しい点をバカにされて仲間外れにされた経験から人付き合いが怖くて、学生時代は常に少数の友達と行動していて交遊範囲が狭かったことを悔やんでます。恋人と楽しい生活を送っている人々を見ると惨めな気分になります。 女友達が欲しくてSNSで女性のメル友を探してしまうことがあって、僕は悪い奴だなぁと思います。そんなだらしないことをしている場合ではないのに。 一旦雑念を捨てて就活だけに専念するにはどうすればいいのでしょうか?
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- ilikerock
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- 「寂しいのが当たり前」
「寂しくないのが当たり前」って思ってるから寂しいですよね 「寂しいのが当たり前」って思ってれば寂しくなくなりますか?
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- QKHWGTWLVKGQO
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- 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。
たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。 信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。 (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。 このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。 つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。 (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。 神および信仰は 人間の経験世界を超えている。 この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか? 内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。 神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。 これが 神である。これが 良心・信教の自由である。 無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。 まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。
- 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。
たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。 信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。 (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。 このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。 つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。 (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。 神および信仰は 人間の経験世界を超えている。 この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか? 内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。 神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。 これが 神である。これが 良心・信教の自由である。 無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。 まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。
- フロムの「愛するということ」
最近恋愛で悩んでいたのでエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読みました。私はこの本に書かれていることにとても賛成です。 しかし、フロムは愛について なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全面的に自分を委ねることである と述べていますが、これは「恋は盲目」といったようなことに繋がる気がします。(フロムの本を読むと一人の人を好きで居続ける事が偉いように感じます)ここはフロムが述べているように、成熟した人間になればいいということでしょうか。 私は最近告白して振られたのですが、告白した後もわたしが相手をまだ好きでいる価値があるかと悩んでしまいます。 フロムのこの本を読んだ方でもそうでない方も解釈や意見があればお訊きしたいです。