a_hona の回答履歴

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  • 般若心経と南無妙法蓮華経

      教えて下さい。 どちらがより仏教的と言えますか。 どちらがより仏の教えに近いと言えますか。  

  • 般若心経と南無妙法蓮華経

      教えて下さい。 どちらがより仏教的と言えますか。 どちらがより仏の教えに近いと言えますか。  

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

  • 歴史上最も真理に近い思想を語った哲学者は誰か?

    ソクラテス プラトン アリストテレス、 孔子 老荘 釈迦 デカルト ヘーゲル カント 、イエス アウグスティヌス トマス・アクィナス キルケゴール ニーチェ サルトル、フロイト デューイ ラッセル 哲学者数多いる中で 最も当たり前の真理・真実に迫り、語った哲学者は誰でしょう 勿論私の知らない哲学者でも構いません あなたの一押しは誰でしょうか? 私は長文が苦手なため 簡潔にご紹介ください。どうかよろしくお願いします。

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

  • 螺旋階段

    哲学は螺旋階段のようにどこまでも内容は深くどこまでも学び続けられる素晴らしい学問でその哲学カテゴリーには回答の達人ををたくさんみてきました。(私はたくさんの質問をいままでしてきたので)学びの連続ですありがとうございます。 物凄い長文を書く人で一瞬読む気がなくなるけどとりあえず読んでみるとでだしが変わっていてそして巧みな文章で文章の中に読む人の心をどんどん感情移入させていき心を文章の中に閉じ込める人 物凄い知識が豊富に知っていてそして合理的かつ道徳的な核心をついた回答をしてくれる人 あちらこちらで仙人みたいな面白い回答をして少し有名な人 面白い人がたくさんですね。ここで質問ですがどうやったらそんなふうな面白い人になれますか?

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

  • 資本主義の中でニート以外に《自律》しうるか? 

     勤労の権利と義務をうたうのは 社会の中で仕事をするよろこびをとうとぶ精神から来ているはずです。  ところが 権利も義務も何も 市場経済のもとでは あたかも人間もみながその存在(労働力の持ち主)じたいをも商品として売って生きて行くことを余儀なくされています。  人間を顧慮するよりも 価格という交通信号に従って利益が得られるところへと水は流れて行きます。  失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。  この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?

  • 「差別」について。

    「差別」について思うことを教えてください。 私は 「軽蔑を伴った不当な区別」だと思っています。

  • 資本主義の中でニート以外に《自律》しうるか? 

     勤労の権利と義務をうたうのは 社会の中で仕事をするよろこびをとうとぶ精神から来ているはずです。  ところが 権利も義務も何も 市場経済のもとでは あたかも人間もみながその存在(労働力の持ち主)じたいをも商品として売って生きて行くことを余儀なくされています。  人間を顧慮するよりも 価格という交通信号に従って利益が得られるところへと水は流れて行きます。  失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。  この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?

  • 《あまえ》は ゴミクズでしかないか?

     アマエについて 再度問います。  まづ同じく再度 土井健郎:『《甘え》の構造』に拠って用語や議論〔の背景・土壌〕を確認します。  (あ) 親子だけは無条件に他人ではない。  (い) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。  (う) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。  (え) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずると見立てた場合だと考えられる。  (お) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明している。   ( a ) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。   ( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。   ( c ) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。    (か) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。  (き) つぎは さらにアマエの有効かどうかを判定するための資料になるかと思われる説明文です。(第二章 《甘え》の世界)     親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく そ    の関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対    して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。     親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ     疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも     ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という    場合は このような友人関係を指すのである。     要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき    れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。    それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最    も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。    (く) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエであると見ることができるか?  (け) もしそうなら そのアマエをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのまじわり(交通)の 好悪・愛憎をないまぜにした共生の関係――が はぐくまれ得るか?  (こ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?  (さ) あり得るという志向性が 有効なアマエではないか?  (し) われわれは このアマエを棄てて来てしまったのではないか?  (す) ほかの世界では どうか?

  • 精神(自我)とは科学的には何でしょう?

    私は精神は物質やエネルギーで言う性質で出来ていると思うのですが なぜそう思うのかというと 宇宙、地球の色々な物質やエネルギーに関わるものを探しても 我思うう故に我在り と言う様な自我を持った精神を実現するものが性質という言葉で表されるもの以外に見当たらないのです。 そして精神は性質で出来ていると考えると色んな事が上手く説明できます。 例えば脳の脳内物質や脳波、ホルモンなど その様なものが反応して精神が働くとしたら それらの性質が働き合って 合成されたり発散したり 性質はそれらの物質などに必ず在りますから、 それらの働きで精神が実現するとしたら、精神の質は性質しかないと思えるのです。 如何でしょうか? 前回は霊が科学的に何か質問してよくわかりませんでしたが 精神はどでしょう? 皆さんのご意見をお伺いしたい者です。よろしくお願いします。

  • 《あまえ》は ゴミクズでしかないか?

     アマエについて 再度問います。  まづ同じく再度 土井健郎:『《甘え》の構造』に拠って用語や議論〔の背景・土壌〕を確認します。  (あ) 親子だけは無条件に他人ではない。  (い) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。  (う) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。  (え) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずると見立てた場合だと考えられる。  (お) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明している。   ( a ) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。   ( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。   ( c ) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。    (か) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。  (き) つぎは さらにアマエの有効かどうかを判定するための資料になるかと思われる説明文です。(第二章 《甘え》の世界)     親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく そ    の関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対    して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。     親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ     疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも     ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という    場合は このような友人関係を指すのである。     要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき    れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。    それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最    も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。    (く) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエであると見ることができるか?  (け) もしそうなら そのアマエをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのまじわり(交通)の 好悪・愛憎をないまぜにした共生の関係――が はぐくまれ得るか?  (こ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?  (さ) あり得るという志向性が 有効なアマエではないか?  (し) われわれは このアマエを棄てて来てしまったのではないか?  (す) ほかの世界では どうか?

  • 《あまえ》は ゴミクズでしかないか?

     アマエについて 再度問います。  まづ同じく再度 土井健郎:『《甘え》の構造』に拠って用語や議論〔の背景・土壌〕を確認します。  (あ) 親子だけは無条件に他人ではない。  (い) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。  (う) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。  (え) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずると見立てた場合だと考えられる。  (お) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明している。   ( a ) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。   ( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。   ( c ) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。    (か) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。  (き) つぎは さらにアマエの有効かどうかを判定するための資料になるかと思われる説明文です。(第二章 《甘え》の世界)     親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく そ    の関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対    して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。     親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ     疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも     ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という    場合は このような友人関係を指すのである。     要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき    れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。    それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最    も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。    (く) たとえば 《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは アマエであると見ることができるか?  (け) もしそうなら そのアマエをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのまじわり(交通)の 好悪・愛憎をないまぜにした共生の関係――が はぐくまれ得るか?  (こ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?  (さ) あり得るという志向性が 有効なアマエではないか?  (し) われわれは このアマエを棄てて来てしまったのではないか?  (す) ほかの世界では どうか?

  • 資本主義の中でニート以外に《自律》しうるか? 

     勤労の権利と義務をうたうのは 社会の中で仕事をするよろこびをとうとぶ精神から来ているはずです。  ところが 権利も義務も何も 市場経済のもとでは あたかも人間もみながその存在(労働力の持ち主)じたいをも商品として売って生きて行くことを余儀なくされています。  人間を顧慮するよりも 価格という交通信号に従って利益が得られるところへと水は流れて行きます。  失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。  この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?

  • 手にしたものでは

    まだ、足りなくて

    • kurinal
    • 回答数2
  • 精神の充足というより 存在の自覚的確立ではないか

     《精神の充足》というとき たしかに あのときの試練を乗り越えたその充足の度合いのほうが大きかったというように 比べることが出来るかも知れない。ゆえにそれは 量であるという見方が出されうる。  けれども それでは 単なる程度問題であると言われても仕方がない。  問題は 存在の自覚的確立にあるのではないか?  《わたしがわたしである》ことである。  《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》である。  わたしは あやまちうる人間であって あやまつなら わたしに立ち帰ること である。  わたしが 一なら わが人生の実存は:   1 = 1 であり あやまつとき   ( -1 )  x ( -1 )= 1  としてのように われに還る。かくしてこの自己還帰を繰り返しつつ   ( 1 = 1 ) x 1 x 1 x ・・・ x 1= 1^n = 1  という姿を採るのが わたしの存在の動態である。のではないか。  さらに ここからは 根拠のない理論です。文学的な表現で表わすのみの主題(命題)です。  けっきょくわが存在の実存過程は その内なる領域においてユラギとして成っているらしい外なるこの身と心との存在 この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態になること ここに人生のおもしろさ・たのしさがあるのではないか?  人びとのよろこびとともに この世のいやというほどの悲惨な出来事をも このわが存在の内におさめている姿 おさめつつ一緒に――克服して――生きていく姿。これではないか?