a_hona の回答履歴
- 成仏とは何か
坊主がお経をあげるのは死にゆく者を成仏させるためであるという。 では成仏とは何か。 それは仏教の教えなのか。 仏教は成仏できる者とできない者がいると教えているのか。 仏教には人を成仏させるためにお経をあげるなり、何がしかの儀式が必要であるとの教えがあるのか。 また戒名がない場合、戒名料が少ない場合は成仏できないって坊主が説くのも仏教の教えか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- utayomi_2011
- 回答数12
- 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか
ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。 なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。 ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。 もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。 利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。 神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?
- 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか
ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。 なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。 ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。 もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。 利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。 神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?
- 一番美少女だと思うキャラクター
皆さんが思う一番美少女だと思うキャラクターを教えて下さい。 性格は含めず、見た目のみで判断した上でどの作品のどの女の子が一番かわいいと思いますか? 個人的な主観で結構です。 ※アンケートの形になってしまいますが、アンケートカテゴリーと見ている方が違うので、こちらのカテゴリーで質問を致しました。
- ベストアンサー
- アニメ・声優
- akubisinan
- 回答数16
- 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか
ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。 なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。 ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。 もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。 利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。 神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?
- 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか
ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。 なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。 ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。 もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。 利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。 神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。 ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか? つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。 これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。 足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。 《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。 これを問います。
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。 ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか? つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。 これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。 足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。 《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。 これを問います。
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。 ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか? つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。 これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。 足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。 《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。 これを問います。
- 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか
ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。 なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。 ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。 もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。 利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。 神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。 ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか? つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。 これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。 足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。 《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。 これを問います。
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。 ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか? つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。 これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。 足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。 《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。 これを問います。
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。 ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか? つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。 これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。 足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。 《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。 これを問います。
- ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。 ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか? つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。 これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。 足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。 《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。 これを問います。
- 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか
ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。 なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。 ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。 もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。 利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。 神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?
- お釈迦様はどうしてすべてを捨てられたのか?
お釈迦様ってすごいですよね。 富を捨てて家を出て、苦行もして悟りを開いて。 どうやってそんな勇気をもてたのでしょうか? なんかものすごい使命感でもあったのかなぁ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#194508
- 回答数13
- 捨ててこそ、無の境地である。
ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓ 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。 http://okwave.jp/qa/q8527407.html 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。 自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。 さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。
- 般若心経は間違い?
スマナサーラさんの『般若心経は間違い?』という本を読みました。 彼が言うには、「色即是空、空即是色」という部分で、空は色の上位概念であり色即是空は正しいが、空即是色は正しくないというのです。例えば、「みかんは果物です。」は正しいけど、「果物はみかんです」は正しくないのと同じだと。もし、「色即是空、空即是色」が成り立つなら空=色となり、わざわざ別の単語を使う意味がないではないかと。 この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。 皆さんはどう思われますか? それから、この本とははなれますが、こんな説があります。サンスクリット語で書かれたこの経典の世界最古のものは7世紀の法隆寺のものです。カナダ人の学者が、この経典は中国人が作った偽経をあとの時代になってサンスクリット語に逆翻訳したものではないかと言っています。