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  • 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

     【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

     【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

     【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 論理的って

    よく議論なんかで論理的じゃないとか、矛盾してるだとか 殺し文句のように使われてます 知的な人の嗜みでもあるかのように「論理的」であることに執拗になってます 議論にしろ、知的な人にしろ、学問にしろ、なぜ論理的であることにこだわるのですか? また、論理的であるとして、それがどのような価値を持つのでしょうか? 回答よろしくお願いします

  • 「死」について。

    「死」について思うことを教えてください。 私は 「夢を見ない永遠の眠りである」と思っています。

  • 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

     【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

  • ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

  • ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか

     ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。  なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。  ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。  もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。  利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。  神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?  

  • ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。

  • 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか

     ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。  なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。  ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。  もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。  利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。  神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?  

  • 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか

     ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。  なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。  ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。  もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。  利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。  神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?  

  • 神には 人とのマジワリをつうじて出会うのではないか

     ひとつに 《犀の角のごとく 独りあゆめ》を否定する命題です。  なぜなら ひとは身内とともにいても そしてましてや群衆の中にあっては すでに独りであると知っているから。  ならば そのマジワリについてこそ探究して行くべきである。  もうひとつに 《欲望や私的な利害にとらわれるな》という命題から自由にならねばならないと見るためです。  利害関係のただ中にいてこそ――つまりやはり相手とのマジワリにおいてこそ――そしてシガラミをわざわざかぶる必要はないけれど これを避けずに向き合ってこそ 前へすすむことが出来る。みづからの心が なお 開かれて行く。  神とは――それぞれおのれの神とは―― その道で出会う。のではないか?  

  • あなたが一番好きな人は誰ですか?

    倫理と言うものがあったとしても 好き嫌いはあると思います 自分の一番好きな人というのは 倫理の中でも一番大切な人なのでは? 僕だったら結婚してないんで初恋の彼女?かな その人の為だったら死んでもいいと思います。 あなたが一番好きな人は誰ですか?師匠?配偶者?子供?親? よかったら、それを教えてください。