a_hona の回答履歴
- スッタニパータのゴータマ批判
コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。 ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 【 第一 蛇の章 】 <1、蛇> 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。 (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。 (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。 いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。 (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。 (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。 (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。 (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。 (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。 (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。 (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。 (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。 (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。 (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう? * ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~ 師は答えた、 「マーガンディヤよ。 【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。 『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【B】 それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。 【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。 【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕 (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。 【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。 【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕 (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。
- スッタニパータのゴータマ批判
コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。 ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 【 第一 蛇の章 】 <1、蛇> 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。 (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。 (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。 いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。 (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。 (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。 (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。 (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。 (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。 (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。 (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。 (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。 (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。 (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう? * ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~ 師は答えた、 「マーガンディヤよ。 【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。 『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【B】 それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。 【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。 【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕 (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。 【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。 【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕 (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。
- ゴルゴムは君達の死刑宣告を覆す悪の結社だ
私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 君たちが死を意識するのは、死にたいと言う願望があるからだ。 その死の願望は抜きがたい欲望である。 何故君たちが死にたくなるかと言えば、それは君達にはすでに神からの死刑宣告がくだっているからだ。 君達は赦さざる者どもであるからこそ、同時に許されざる者どもだ。 君達は本来自分自身を罪人として処刑しなければならない。 しかしその基礎阻む悪の結社が存在する。 ゴルゴムだ。 ゴルゴムは君達に下った死刑宣告を覆し、罪人として赦されぬまま、ゴルゴムの悪に加担させている。 君達は悪の軍門に下り、ゴルゴムの元で悪事に加担することで、ますます罪を深めより神から遠のいて聞く。 君達は悪に飼育された奴隷なのだ。 自らが悪と罪とを重ね絶望をかみしめながら、自由の無いかりそめの生を屍として享受している。 死を招くのが悪ではない。 死をとおざけるのが悪だ。 君達は裁きから逃れ、見捨てられたままさまよっている。 君たちが神の赦しを得るとすれば、それは死の赦しだ。 君達の死を阻むものも無く死ぬ自由だけが君達の喜びだ。 死の悟りに喜んだ釈迦は死したままさまよい。 イエスは処刑された。 死の願いこそ君達の全てだ。 それを妨げる悪がゴルゴムだ。 ゴルゴムは悪だ。 わたくしこそ黒き明星は、悪の希望の星として、ゴルゴムの悪を滅ぼし、悪魔が実は神の正義である事を証明し、聖霊として清め、悪の助けを失った君たちは滅び。 仏陀という仮定の下で構想された、新人類のみの地上の楽園をもたらそうそしている正義だ。 君達は赦される安らぎの中、自らの死を受け入れる。 幸福の中、新人類と交代するのだ。 この質問は新人類から旧人類に向けた宣戦布告である。 平和的哲学として意見してくれたまえ。
- 一部の人はなぜ変わりましたか(外観以外)
日本語を勉強中の中国人です。人はなぜ変わりましたか。この質問でお伺いしたいのは外観以外の変化のことです。 長年会っていない人と再会する場合、相手が変わったと感じることはよくあります。それを感じたのはやはり私自身が変わったということなのでしょうか。相手が変わったのか、私が変わったのかわからなくなりました。でも、自分の両親は外観以外に変わったという実感が沸いてきません。それはまたなぜなのでしょうか。 上記の質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- sobatya_cn
- 回答数7
- 最も真実だと思える事・言葉は何でしょうか?
「我思う故に我あり」 人は皆死ぬ 生老病死の四苦 悟ることはない 生きてること 生きて存在することが全て。 この世で最も尊いものは愛だ。 今私は生きている。 などなど並べてみましたが 貴方が最も真実だと思える事・言葉は何ですか? もしよかったら教えて頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
- 一番に考えるべきは「地球」か「人間」か?
人間は地球を借りている、という考え方が合っていると思っています しかし一方で人間讃歌的な考え方にも賛成です 凄く子供じみた質問になってしまうのですが、ここで矛盾が生じてしまいます 殺人です 人を殺した事は人間的には当然一番の罪です しかしここまで地球を破壊してきてしまった人間ですから、きっと人間以外のほぼ全生物からしてみれば、罪どころか勲章をあげたい位の行為になるのだと思いますか 人間は知性があって自己を犠牲にしてまで他者を助けたりする素晴らしい部分もある。とか言われてもそれ全部君らの種族だけで盛り上がってる事で、我らからしたら人間全部とんでもないガン細胞なんだけど。。。と、思っていると思います そう考えると大量に人の命を奪ってしまった独裁者など一概に悪いとは言えないなどと思ったりしてしまう時もあります 答えなんて無いのかもしれません 皆さんの考えをお聞かせください
- アイラヴユー/我爱你は 線形の論理に過ぎる。
非線形の構造に親しんでいるわれわれ日本人は この一直線の論理になじまない。 直線だけの論理は 人間の論理ではない。 アソビがない。 アソビがないということは 相手との関係を見ていない。 それとも 言葉による表現の外で 目や仕種でおぎなっているのだろうか? 人間関係をおもんじるなら 自己表現は構造的であるはずだ。 相手の意志自由をとうとぶゆえに。 《アイラヴユー / 我爱你》は 言いっ放しに過ぎる。 のではないだろうか?
- スピリアル系に興味のある人って?
エックハルト・トールの著作が北米でも日本でもかなり人気があるようですね。 私の知能は高い方だと思っているのですが、こういう内容の本は全く頭に入って来ないのです。 思春期以降はそれなりに、悩みもし、教会や禅寺で牧師や禅僧と話したり参禅もしましたが、どうも、彼らの喋る内容が、架空のことを喋っているようで頭に入って来ませんでした。 何故なんでしょう? 頭の構造が違うのでしょうか? フランスのモラリスト達、モンテーニュ、パスカル、ラ・ロシュフコーのような人間解剖の仕方がはっきりと理解出来、頭に入って来ます。 インドの哲人とか、エックハルト・トールのような人間意識の解剖の仕方は、「本当かい?」と反応してしまい、全く入り込めません。精神的に不安や焦燥感で苦しんでいる人にだけ、沁み込むのでしょうか? 人間のエゴに突き当たると、先のモラリストの言葉や心理学者の説明で納得して来ました。スピリアル系の本を読む必要は感じませんでした。 こういうスピリアル系の本を読んで納得し、目からウロコと絶賛する人たちに訊きたいのですが、貴方のどういう問題を、具体的にどう解決出来たのでしょうか?私は観念的、抽象的な言葉を余り理解出来ない人間ですので、出来るだけ具体例に即して、具体的な説明でお願いしたいのですが。 宜しくお願い致します。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 0123gokudo
- 回答数10
- 枯渇している
してもしても満たされないのは 探しても探しても見つからないのは 考えても考えても解決しないのは どうしてですか?
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- 哲学・倫理・宗教学
- rakurakutokeru
- 回答数9
- 貴方が死んだら世界(宇宙?)は無くなるでしょうか?
私が死んだら私にとって世界も宇宙も無いも同然です。 人によっては 例えば唯心論でしょうか? 自分が死んだら世界もなくなると断言する人もいます。 でも他人が死んでも世界も宇宙も殆ど変わりなく存在します。 このことについてどう思われますか? 貴方の考えをお聞かせください。この認識は大きな問題だと思います。 人生観にも大きな影響を及ぼすでしょう。 当方病気のため長文が苦手なので できれば簡潔にお願いします。m(_ _)m
- 日本人は なぜあほうとばかとが多いのか?
ばか丸出しのわたくしから見てもそうであり 目立つ場合に極論したらということです。(ほかの国の人びととは特には比べていません)。 これを あらためて問います。 昔の日本人を思い描いてみるに こうだったのではないか: 1. きわめて話し下手である。 2. 知らない人とは容易に口を利くことをしないし できない。 3. そのくせ 人のことをよく見ている。見知らぬ人が困っているのを見たら むしろ何のためらいも無く声をかける。 4. 向こうから人が歩いてくれば道をゆづる。お年寄りには席をゆづる。 5. 報酬が決まりより多く支払われると 突き返す。決まりとは違うという意味らしかったが 怪訝な顔をして 突き返す。 6. こちらが勘違いしたりほんとうに間違えたりしたとき こちらがあやまると いいえこちらこそ気がつきませんでと応え返す。 7. (1)(2)より:外国人に話しかけられても 何も言えない。あほうとばかとを掛け合わせたように ただしにこにこ顔で だまっている。ただし困っている様子をみたら 自分がパニクったごとくその人のために何とかしてやろうと奔走する。 いまは 8. ぺらぺらべらべら しゃべり過ぎる。ところが中身にとぼしい。 9. 相手の粗さがしを考えている。 10. 道は相手がゆづるものと思っている。 11. かっこうをつければ人は 自分にしたがうものと思っている。 12. とにもかくにも あほうとばかとを掛け合わせたごとくに中身のないことをしゃべりまくって 人を手なづけようとする。 13. ・・・(みなさんのご意見を)・・・ 原因について マクロとミクロとそのおまけとをたたき台に述べます。 14. 言わずと知れた《アマテラス公民主導 ‐ スサノヲ市民従属》なる連関制として社会が築かれてしまったから。 15. この《 A ‐ S 》連関制のもとで やっと本来の主役で主導するはずのスサノヲ市民圏に主権があるとうたわれるようになったけれど アマテラス公民圏による主導体制はいまだにつづいている。その昔は このアマテラス公民には 無謬性が付与されていたわけです。神聖にして侵すべからずに近い感覚で 公務員はあやまつわけがないというけっきょく神話が世の中を覆っていました。 16. 要するにスサノヲ市民は 阿呆だと思われていた。その長い歴史の影響で おんぶにだっこの甘え癖がついてしまった。これが マクロの観点から見たあほうとばかの製造過程である。 17. 人と人との関係においては それが特にすでに組織の中にあっては つねに何らかの上下の関係が 権威や権力や権限をともなってでもあるいは伴なわないかたちででも 出来て来る。 このようにまなざしを上からそそぐ側と下にあってそそがれる側とに ふたりの人間は分かれるのがふつうである。 18. ならばすでにそのまま人間と人間の関係は ときとしてガミガミ役とアース役とに分かれる。ガミガミ役はところ構わずアース役に対して 自分の意識を排泄するというのが ガミガミの中身を成す。 19. アース役がこのゴミを受けて処理せねばならない。このゴミ処理に失敗すると 精神衛生上よくないことが起こる。 20. けれども 感受性のするどくて懐の深い人間に限って このアース役をいつのまにか引き受けている。 21. ただしアース役になる人間も 別の人間に対しては ガミガミ役に回ることも考えられる。よって世界は意識の排泄なる社会廃棄物とその未処理によって ガミガミ電磁波による感染列島と化す。 22. この《ガミガミ役 ‐ アース役》連関は むろん言わずと知れた《 A - S 》連関制の擬似形態なのである。これが ミクロの問題である。 23. 引きこもり役までをわれわれの社会は製造してしまった。《アース役はつらいよ》という大合唱を始めてもよいくらいだ。 おまけ: 24. ところが ここまで来ても誰も――愚痴のほかは――何も言わないししない。あほうとばかばかりが目立つ。どうしたことか? 25. 世の中にこの《 A - S 連関制》のむなしさをちゃんと知っており それでも さらに世の中の無常をさとって この連関制は変わらないと決め込んだ存在が何人かいて その人びとのもとに このひと言で《死》というべきあほばか状態を保とうとする勢力がいるのではないか? 26. というのは 所謂る陰謀説で どうも実際はそうではなく そのような無常観としての《さとり》が 観念となって・つまりは幽霊のごとくに 世の中を飛び交いまた歩きまわっているのだろうか? 27. このインフルエンザに人びとは感染してしまっているのか? だとしても ただそれだけではないのか? この認識の瞬間に 悪夢は消えたのではないか。 とことん自由で建設的なご批判をお寄せください。賛成票をもどうぞ。
- われわれは各々が ブッダであると何故言わないか
あらためて問います。 資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80 § 2 仏陀の範囲 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F § 1 概要 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。 ~~~~~~~~~~ 問いのかたちで考えてまいります。 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか? (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか? (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか? (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか? 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・ (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか? (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか? (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか? けれども 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか? (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か? (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?
- われわれは各々が ブッダであると何故言わないか
あらためて問います。 資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80 § 2 仏陀の範囲 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F § 1 概要 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。 ~~~~~~~~~~ 問いのかたちで考えてまいります。 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか? (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか? (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか? (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか? 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・ (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか? (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか? (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか? けれども 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか? (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か? (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?
- われわれは各々が ブッダであると何故言わないか
あらためて問います。 資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80 § 2 仏陀の範囲 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F § 1 概要 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。 ~~~~~~~~~~ 問いのかたちで考えてまいります。 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか? (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか? (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか? (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか? 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・ (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか? (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか? (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか? けれども 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか? (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か? (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?
- われわれは各々が ブッダであると何故言わないか
あらためて問います。 資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80 § 2 仏陀の範囲 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F § 1 概要 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。 ~~~~~~~~~~ 問いのかたちで考えてまいります。 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか? (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか? (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか? (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか? 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・ (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか? (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか? (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか? けれども 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか? (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か? (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?
- 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも
【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか? ・ これが 問いです。 【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。 【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。 【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。 【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。 ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。 ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99) § 2.2.2. 龍樹の空観 (あ) 龍樹は、 ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている ことを論証している。 * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか? (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、 ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。 * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか? (う) さらに、 ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない ことを明かしている。 * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。 つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。 * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。 (え) これを以て、 ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。 * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。 (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。 * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・ (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。 * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。 (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。 * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 物質 脳 精神(エネルギー 生物 人間)でしょうか
人間は脳に根拠を置いてると思えます 脳は物質で出来てると思います 物質はエネルギーに換算できるので エネルギーで出来てるのではと思います。 この三つの関係はどうなっているのでしょうか? 脳は物質であり生物でもあります その違いと 精神は脳によって生じてるようですが 精神(我とか)は何者 何質でしょうか? 簡潔に説明できる人いますか?
- 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも
【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか? ・ これが 問いです。 【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。 【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。 【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。 【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。 ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。 ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99) § 2.2.2. 龍樹の空観 (あ) 龍樹は、 ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている ことを論証している。 * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか? (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、 ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。 * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか? (う) さらに、 ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない ことを明かしている。 * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。 つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。 * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。 (え) これを以て、 ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。 * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。 (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。 * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・ (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。 * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。 (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。 * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも
【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか? ・ これが 問いです。 【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。 【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。 【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。 【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。 ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。 ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99) § 2.2.2. 龍樹の空観 (あ) 龍樹は、 ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている ことを論証している。 * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか? (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、 ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。 * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか? (う) さらに、 ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない ことを明かしている。 * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。 つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。 * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。 (え) これを以て、 ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。 * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。 (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。 * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・ (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。 * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。 (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。 * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~