a_hona の回答履歴

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  • 大人とは何ですか?

    大人とは何ですか? 物事についてよく考えていないのにわかったように話す 洞察力が優れていると思い込んでいる 偉ぶった人間になる(年下というだけで未熟だと考えて見下す)。よくわかっていないのに人の粗探しや批判をする 人をいじめる技術・追い込める技術が身に付く 自分が正しいと思い込む 魚を与えるだけで魚の捕り方を教えない、背中で語るものだと考えている(実際は背を向けて逃げているだけ) これが大人ですか?だとしたら人をいじめる力と偉そうにする力を幼い頃から身に付けておけばよかったです。(私の父親です) あなたの思う大人とは?(´・ω・`)低俗なのが大人で、高尚になりたかったら宗教施設とかそういう所で働けってことですか? 質問兼悲鳴でした。(´・ω・`)

    • augmydt
    • 回答数15
  • 今年56歳を迎えました。新しい目標を求めて!!

    56歳 男性  仕事も それなりに 結果を作ってきたつもりだ、 収入も そこそこ あり、貯金も そこそこある、 借金や 賭け事 など  金銭的なトラブルもなかった、 家族も出来て 子供も 自立に向けて がんばってる、 夫婦 まあまあ なんとかやってこれた、 地域のことも いくつかの役もらって やりくりしてる、 最近 体力は衰えたが 無理をしないでおこう、という気になってきた、 両親も 年を重ねているが 健在だ、 若いときは 旅行が好きで いろいろなところに行ったりした、 でも、何か 満たしてない、、 なにかしたい、 残りの人生で何ができるのか、  時間がないと考えると ほんとに 余り時間がない、あせる、 自分を奮起させるような 目標を持ちたい、    ・・・・何か お話をください。       よろしくお願いします。 、

  • これ以上卑屈になりたくないです

    はじめて質問させて頂きます。 20代の会社員(女)です。 私が働いている職場の後輩の女の子がいるのですが その子は容姿が飛び抜けて綺麗で可愛く、性格も サッパリしていて明るくて良い子です。 よく,その子と一緒にいることが多いのですが(会社の休憩時間など) やっぱり完璧な後輩と一緒にいるとちょっと卑屈になってしまう時が有ります。 職場の年齢の近い男女グループで遊びに行こうという話が出ると その後輩の女の子は「○○さん(質問者)が行くなら自分も行く。行かないなら自分も行かない。」という言い方を毎回のようにします。 (私が行かないとグループに女の子1人になってしまう為) そうなると、グループの男の人達は「○○(質問者)!!行こう!お願い!」と私に言う流れになってしまいます。 正直、「あー。可愛い子を呼びたいが為に自分に来て欲しいのかー。」という卑屈な気持ちが出てきてしまいます。 そして、自分が行かないと後輩が楽しい出来事に参加できないし他のメンバーも後輩が来なくて ガッカリしてしまう!という変なプレッシャーを感じて、どうしたら良いのか分からなくなります。 (他の予定が入りそうで、行くと即答できない時など) こんな自分が本当に嫌です。 社会人にもなってこんなことで悩んでいる自分も嫌です。 (ただ、その周囲の男の人たちも自分が身内の死で落ち込んでいる時に心配して長文のLineをくれたりしたので私を心底どうでもいいと思っているわけではなさそうなのです。) 人は卑屈になると顔も卑屈な顔になってしまうと聞きました。 それを聞いてから、私は自分なりに常に笑顔でいたり面白いことがあったら笑ったり 愚痴を言わないようにしたり悪口を言わないように心がけていますが、元々が あまり前向きな性格ではない為、たまに物凄く疲れて悲しくなったり 酷い時は生きているのが嫌だなあと思ってしまうことがあります。 その後輩の子以外にも可愛い女の子は沢山います。見るたびに自分と比較してまいます。 何とかして自分の良いところをみつけようと思って紙に書いてみても 「こういうことじゃないんだよな」と思ってしまいます。 そしてまた卑屈になって、それが顔や性格に出て、どんどん「綺麗な自分」から遠ざかって行ってしまうの繰り返しです。 自分には4年近く付き合っている彼氏や、大事な友達がいるにも関わらず 「自分なんか必要ないんだ」という思いが常に頭にある気がします。 すごく自分勝手で失礼なことだと思います。 他人から認めてもらいたい!とかちやほやされたい!とか必要とされたい!とか 「他人から必要とされない自分=価値がない」という考えを消したいです。 どうしたら消せるのでしょうか。 どうすれば前向きに生きていけるでしょうか。 何かアドバイスを頂けたら嬉しいです。 厳しいご意見でも、頂けたら嬉しいです。

  • 神のめぐみが 何ものにも先立つということ

     を問います。  △ (詩編/ 59編 15-16節) ~~~~~~  15: 夕べになると彼らは戻って来て    犬のようにほえ、町を巡ります。  16: 彼らは餌食を求めてさまよい    食べ飽きるまでは眠ろうとしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という世の中にあって    《神のめぐみが 何ものにも先立つということ》  がいちばん大事である。と考えます。すなわち:  △ (詩編/ 59編 11-12節) ~~~~~~~~~  11: 神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。    わたしを陥れようとする者を    神はわたしに支配させてくださいます。  12: 彼らを殺してしまわないでください    御力が彼らを動揺させ屈服させることを    わたしの民が忘れることのないように。    わたしたちの盾、主よ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  言ってみれば 《何もしないたたかい》。  人間の知恵や知識 判断力や意志 度胸や度量や境地その他その他よりも何よりも それが何であるかナゾであるめぐみ(只・無料)が先に来るという議論です。  世界の理論として これしかないという見方です。これを問います。どうでしょう?  意味が分かりにくいときには ツッコミを入れてください。

  • 神のめぐみが 何ものにも先立つということ

     を問います。  △ (詩編/ 59編 15-16節) ~~~~~~  15: 夕べになると彼らは戻って来て    犬のようにほえ、町を巡ります。  16: 彼らは餌食を求めてさまよい    食べ飽きるまでは眠ろうとしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という世の中にあって    《神のめぐみが 何ものにも先立つということ》  がいちばん大事である。と考えます。すなわち:  △ (詩編/ 59編 11-12節) ~~~~~~~~~  11: 神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。    わたしを陥れようとする者を    神はわたしに支配させてくださいます。  12: 彼らを殺してしまわないでください    御力が彼らを動揺させ屈服させることを    わたしの民が忘れることのないように。    わたしたちの盾、主よ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  言ってみれば 《何もしないたたかい》。  人間の知恵や知識 判断力や意志 度胸や度量や境地その他その他よりも何よりも それが何であるかナゾであるめぐみ(只・無料)が先に来るという議論です。  世界の理論として これしかないという見方です。これを問います。どうでしょう?  意味が分かりにくいときには ツッコミを入れてください。

  • 神のめぐみが 何ものにも先立つということ

     を問います。  △ (詩編/ 59編 15-16節) ~~~~~~  15: 夕べになると彼らは戻って来て    犬のようにほえ、町を巡ります。  16: 彼らは餌食を求めてさまよい    食べ飽きるまでは眠ろうとしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という世の中にあって    《神のめぐみが 何ものにも先立つということ》  がいちばん大事である。と考えます。すなわち:  △ (詩編/ 59編 11-12節) ~~~~~~~~~  11: 神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。    わたしを陥れようとする者を    神はわたしに支配させてくださいます。  12: 彼らを殺してしまわないでください    御力が彼らを動揺させ屈服させることを    わたしの民が忘れることのないように。    わたしたちの盾、主よ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  言ってみれば 《何もしないたたかい》。  人間の知恵や知識 判断力や意志 度胸や度量や境地その他その他よりも何よりも それが何であるかナゾであるめぐみ(只・無料)が先に来るという議論です。  世界の理論として これしかないという見方です。これを問います。どうでしょう?  意味が分かりにくいときには ツッコミを入れてください。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 神様は存在しますか?

    まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。

    • stmim
    • 回答数29
  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 楽していきたい

    馬鹿な質問ですが、楽していきたいです。 誰にも怒られず、見下されず、馬鹿にされることもなく、劣等感や無能感にさいなまれることもなく、明るく前向きに生きたいです。 今の私は、みんなに馬鹿にされ、見下され、組織に役に立つこともなく、どうしようもないやつ、能力の低いやつと思われています。組織にいらないと思われています。 この状態から脱し、楽していきたいです。もう疲れました。 将来の不安におびえることもなく、毎日人の目を気にすることもなく、そのように生きるには引きこもるしかないのでしょうか。

  • 今までの生き方すべてが間違っていたとしたら

    よろしくお願いします。 30代の男性です。 今までのいき方すべてが間違っていたと気づきました。 社会で何の役にも立っていません。 勉強がすべてだと思い込み、親の体罰もあり、友人関係をすべて切り捨て 勉強だけしていた中学・高校、身分不相応の難関大学に一浪して入り、周りのレベルの高さに ついていけず、落ちこぼれた大学時代。 就職したけど、人間関係やらスキルのなさから転職を繰り返した20代。 気づけば30代で何の強みも専門性も持たない役に立たない社会のゴミになっていました。 もっと人間関係を大事にすればよかったとか、もっとあきらめずに仕事を頑張ればよかったとか 色々思い浮かびます。 会社でいきなりSQLをやれといわれて、大学時代にプログラムを勉強してこなかったことを後悔したり、先回りして勉強しておけばよかったのにそれすらできていないです。 もうだめでしょうか?今までの生き方、学び方が間違っていたとしたらどうしますか? アドバイスください。 よろしくお願いします。

  • 頭がいいと勘違いされる

    質問です。 私はよく、頭がいいと勘違いされます。 私自身、最終学歴は高校ですし、決して頭がいいわけではありません。育ちも一般家庭よりは下です。趣味は読書と映画鑑賞くらいで、それも普通の人と変わらない範囲の趣味だと思っています。 ですが、知り合った方やお客様からは、「頭いいでしょう」「賢そう」「育ちが良さそう」等と言われます。実際はそんなことないのに、それらを言われるのがとても苦痛です。そう言われると、賢そうに振る舞わなければいけないのかと悩みます。本だって人並みの知識しかないのに、オタク並みに知識があると思われ、よく「○○って本知ってますよね?あれ面白いですか?」等、マニアックな本についての話題を出されて困ります。 あと「難しい言葉を使う」ともよく言われます。国語の成績は良かったですが、普段の会話ではみんなが分かる言葉を選んでいただけに、ショックでした。簡単な言葉と難しい言葉の区別もつきません。 自分なりに考えた結果、「浮世離れしている」と言われたことも何回もあったので、浮世離れしている=世間に馴染めていないことを遠回しに言った結果が「頭よさそう」になったのかなと思いました。 皆さんの周りには、頭が良さそうな人またはそう見える人はいますか? そういう方々は、どうしてそう見られるのでしょうか? 頭が良さそうだとか賢そうに見られたくないので、そう見えるポイント等を教えていただけると非常に助かります。

  • 何で人は人を傷つけるのですか?

    何で人は人を傷つけるのですか?

  • 伸び伸び

    自分を伸び伸びさせる事といったら何ですか? 仕事や学校だと気を使ったり、頭を使ったり、感情を抑えたりしていると思います。 ストレス発散というのではなく、こっちが本当の自分だな~って戻れる事をおしえてください

  • 自分が嫌いすぎる

    私は自分が大嫌いです。容姿はもちろん、性格も嫌いです。かなりのネガティブ。すぐに同情してしまう。人からどう思われるかがすごく気になる。曲がったことが嫌いです。自分で言うのは変ですが、まじめだと思います。だからか私がした行動や、発言に対して以前兄に、偽善者だと言われました。冗談ぽくでしたがそれから私は自分は偽善者なのかと悩むようになりました。自分ではそんなつもりはないけれど、旗から見たらいいこぶってる。偽善者と思われているのかもしれません。友達との会話の中で偽善者とか悲劇のヒロインって本当嫌い。と、いう友達の言葉が私に言っているのかな?と思ってしまいました。そして最近は気をつけているので友達にマイナスな発言はひかえていますが、昔はよく、辛いことがあるとSNS等で自分が辛いこと、悩んでることを書いていました。自分だけが辛いと思ってる悲劇のヒロイン気取りだったのかもしれません。ただ、悩んでるから人に聞いてほしい。1人で抱えるのが辛い。話して楽になりたいっていう気持ちがありました。でもそれは自分だけが楽になりたいからで回りからしたら、また言ってるって思われてたのではないか。って今思っています。そしてそれに対してみんなそうだよ、辛いのはあなただけじゃないよって言われるのがすごく嫌です。確かに辛いのは自分だけではないし、もっと辛い人はたくさんいるのはわかります。ただ、例えば顔にコンプレックスがあり悩みを告白して、私だって自分の顔嫌いだよって言われても、あなたはかわいいじゃない、私に比べたら悩む必要ないと自分と比べてしまい、でも。だって。と悲観的になってしまいます。結局自分は相談したいけど、否定されたくないっていうわがままな人間なんだと思います。本当にこんな性格が嫌で嫌で。変わりたい気持ちは本当にあるし、変わろうと思うのですがずっとこうやって生きてきたので、なかなか気持ちが差切り替われません。だったら相談なんかしてどうしたいの?と思うかもしれませんが、本当に変わりたいです。ポジティブになりたいです。なにかいいアドバイスを下さい。

    • noname#206383
    • 回答数8
  • 中庸は正しいのか?

    色んな宗教や思想で中庸が重んじられ「大きな喜びはよくない」というようなことがよく言われます。 しかし、成功した人間はリスクを踏んだ人間だけです。 目先の小さいリスクを避けて巨大な墓穴を掘っていることはよくある話です。 安定志向の人間は墜ちやすいということが人生の中では多々見られるんですが、本当に中庸というのは正しいのでしょうか?

    • kotiya
    • 回答数10
  • 真実の愛と真理の探究が結婚したら理想は実現するか?

    それでいいのだ。 また愛と誠ではありませんが 真実の愛って何でしょうねえ 曇りない愛でしょうか? 真理を探求すれば 真理は人を活かしてくれるでしょうか? その二つが揃えば 真実の家庭に真理の人が生まれるのでしょうか? イエス・キリストと言う人はその様な予言から生まれたのでしょうか? 私は足を洗う価値もありませんが そのような人が生まれたら 救世主 が 現れるのでしょうか? まあ二,三十人いても構わないのですが そのような人たちが出て イスラム対西欧という対立が回避できないものでしょうか? その様な者だと名乗りを上げた人は 大概が怪しいことばかりやっています 誰か知りませんか そういう人? できれば端的にお願いします。どうかよろしくお願いします。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 愛と真理 忘れられてない?

    昔 愛と誠 と言う漫画がありましたが。読みたかったなあ 家は漫画禁止みたいな感じだったから 歯医者で少し読んだだけ 知を愛する と言えば哲学ですが、真理を愛し求める事って 忘れられてないでしょうか? 今の若い人はパソコンは得意でも 仁とか、隣人愛とか、真実の愛とか、誠とか、正義とか 分からなくなってるんじゃないでしょうか?倫理的なことですが真理も含めて 情報や知識だけでなく、愛や真実を大切にすることは時代遅れなのでしょうか? 道徳がモラルになり モラルが品格になり 何だかよくわからなくなり 芸者遊びがノーパンしゃぶしゃぶになり 今はもうその手の雑誌がコンビニでも売られています 中一時代とか高三コースとかその年なりの読み物もなくなり ネットには情報が氾濫しています。 我々の倫理は基本に帰るべきでしょうか?それとも何か新しい倫理が有るでしょうか? それとも これでいいのだ でしょうか? 今の子供達も良いとこは在ると思うのですが ラインやメールに明け暮れて 自分の心の世界に秘めた想いが有るのかなとか 思春期がないのかな?とか思います。 哲学・倫理とか言ったらWhat is it?「なにそれ?」です。 これを価値観が多様化したからで片付けて良いのでしょうか? 子供達に睡眠障害が広がってるとクローズアップ現代で言っています。