a_hona の回答履歴

全978件中241~260件表示
  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 若者の哲学離れは良い事なのか?否か?

    最近の若者は思想がないようです。 哲学とか言うとなんか気持ちの悪い話の様に思う人が多いようです 我々の頃は倫理社会という教科で哲学の話も勉強しましたが 今は現代社会にほんの一部紹介されてる程度で 根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。 情報だけは溢れるように在る様で PCどころかタブレットやスマホで 色んな情報が手に入ります。 このような状態では 政治がまた戦争もやると言えば それに反論する思想はないかもしれません。 公明党まで自民党の路線に反対できません。 もう哲学は不要なのでしょうか? 理想などいらないのでしょうか?

  • 信じるとはどうゆことですか?

    宗教を信じている人との対話で「あなたは自然科学を信仰しているのではないか」と言われたことがあります。つまり、信仰の対象が、宗教か科学かの違いであって信仰しているのは同じではないかと。人間はどうやっても信じることなしに生きることはできないのだと。 「信仰しているのは同じで、ただ信仰の対象が違うだけだ」と言われると、私はなんか違う気がします。 自分のよく知らない分野では、よく確認せずに「専門家が言うことなんだからそうなんだろう」と思っていることもある。 しかし、その内容が間違いであると判明すれば自分の認識を訂正します。 自分では根拠の確かさに応じて信じていると思っています。 その態度を神の存在についてあてはめて「では神様の存在についてどんな根拠がありますか?」と聞くと「根拠があるから信じるというのは信じることではなくて取引だ」と言われます。 >「信じるに値うものを得て、その代償として信じる」と言う取引なんです。(michael-mさんの言葉) ある時は、対象が違うだけで信仰しているのは同じと言われ、ある時はそれは信じているのではなく取引に過ぎないと言われます。 そこで質問です。 (1)宗教を信じている場合と、自然科学を信じている場合の「信じている」は同じだと思いますか? (2)内容の真偽を値踏みして信じるか信じないかその程度を決めるという態度は信じるとは言えませんか?

    • stmim
    • 回答数11
  • 若者の哲学離れは良い事なのか?否か?

    最近の若者は思想がないようです。 哲学とか言うとなんか気持ちの悪い話の様に思う人が多いようです 我々の頃は倫理社会という教科で哲学の話も勉強しましたが 今は現代社会にほんの一部紹介されてる程度で 根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。 情報だけは溢れるように在る様で PCどころかタブレットやスマホで 色んな情報が手に入ります。 このような状態では 政治がまた戦争もやると言えば それに反論する思想はないかもしれません。 公明党まで自民党の路線に反対できません。 もう哲学は不要なのでしょうか? 理想などいらないのでしょうか?

  • 道徳、倫理を勉強する意義

    利益追求的な空気の中で、哲学、倫理、道徳を勉強する意義って何だと思いますか? 確かに道徳や倫理って、利益にはなりませんけど、モラルの崩壊ってその集団にマイナスにはなるのだと思います。 また、日本の道徳などあるとは思いますけど。どの程度意識すべきでしょう? 何を勉強すべきでしょうか?仏教や倫理学、哲学など。 組織の現物的な利益と道徳、倫理の喪失した組織の回復の意義とどう考えるべきなんでしょうか?

    • noname#209756
    • 回答数13
  • 命と精神 この盟友はどういう環境がベスト?

    命と精神は基本的には別ものと思います。 勿論多く影響し合いますが 言ってみれば命には水が必要 精神には言葉が必要 どの様な環境が、どの様な世界、社会がこの両方にとって必要か? 競争やせめぎ合い 極端には戦争は? 環境破壊 自然へ帰れ(ルソー)理想と快楽 楽しみ。 真理の希求や愛の結晶(結婚して子供が出来て家庭を作る) 人口密度(地球の理想人口は何人?) 温暖化(どのくらいで止める必要がある?) 世界の理想状態と未来など どの様な未来が理想か その為には今何をどうすべきか?? 無理は承知で端的に分かり易く書いて下さい。 当方病人にて長文は苦痛ですので 何卒宜しくお願いします。 部分的で構いませんので。m(_ _)m

  • 仏教

    仏教はややこしいですね。簡単に教えてください。 •仏陀とゴータマシッダールタは一緒ですよね。違うケースはどういう時なんですか。 •阿羅漢と坊さんはどう違うんですか。 •菩薩は日本にいますか。 •釈迦は一族の名称だって見たんですけどってことは何人もいたってことですか。 •仏教の経典が何万もあるのは釈迦が人の数だけ教えを説いたからというのは本当ですか。 •八大地獄ってのは地獄道に含まれていて、人間道で悪行をした人が地獄道のうちの8段階に分別されるって理解でいいですか。 •人間道に比べて地獄道の期間が桁違いに長いのは何故ですか。

    • noname#211291
    • 回答数6
  • 人類はどうしてこんなに抜きん出ているのだろう。

    人類は火を扱い、言葉を使い、この文明を作った。この先、何処まで文明が進歩するのか空恐ろしい。他の霊長類とは雲泥の差です。進化とは言え、どうしてこんなに抜きん出ているのだろう。その必然性が分らない。分らないので神が人間を創ったなどと言う。

  • ニーチェ教批判

     《君主道徳(貴族道徳)と奴隷道徳》の問題を取り上げます。  ▼ (ヰキぺ:君主-奴隷道徳) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E4%B8%BB-%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E9%81%93%E5%BE%B3  最も基本的な道徳形態は「君主道徳(貴族道徳)」と「奴隷道徳」の二種類がある。  君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。  君主道徳の主な特徴は自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。  ある人の道徳がどの道徳になるのかはその人の身分と地位で決まるのではなく、その人が行動する時の気持ちで決まる。  ある独裁者の道徳は奴隷道徳である可能性もある。なぜなら、その独裁者は恨みと報復によって行動しているかもしれないからである。  ニーチェは君主道徳を勧めると同時に奴隷道徳の中の精神力を学ぶ価値もあると主張した。  ニーチェの「道徳」は普段われわれの言う道徳と違い、全く新しい世界観であり、独特の文化である。すべての規則、慣例はこの二種類の道徳の闘争で作られた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 対立する二項を提示するかたちは 分かりやすいようで あやまって大事な要素をそぎ落としてしまうことも出て来るかと思います。その視点からの批判です。  1. 《自己否定》するのは あんがい――考えてみれば――自己肯定を目指してのことであり得ます。  2. あるいはつまり 初めに自己をとうとぶゆえに あやまちうる自己について否定するかたちから入ることがあり得ます。  3. わたしがわたしであるという自己到来は 自己肯定ですが それがつねに《傲慢》であるとは限りません。  4. 《主動》というのは 自然本性をとうとぶ自己肯定としての自己了解のあとに 行動を起こす場合の問題だと思います。 自己肯定と主動とは それらを捉える段階が違うはずです。(基本としてはです。行動するときの主動についても自己肯定をする場合はありますが)。  5. 《主動も従属動》も 《謙遜も傲慢》も《慈悲も冷酷》も 基本は《われに還る》問題にあると見られます。相手との関係におけるこちらの振る舞いとして。  6. 傲慢は われを見失っている場合があるので特殊かも知れませんが 冷酷は相手との関係で 互いにわれがわれであるために 情況判断をも交えて必然的に取る態度であり得るように考えられまいか。  7. 人が人とマジハリを持つとき その眼差しが相手を見下ろす場合があります。社会的なチカラ関係において この・上からのマナザシを受け留めなければならないという判断を持つとき けれどもそこには《反抗か従属か》の二者択一があるのではなく そうではなく《ゆづる または ゆづりあひ》という道もあります。  8. ゆづりあひの道には 《恨みと報復》は出て来ません。  9. われがわれであるための《精神力》は 君主か奴隷かの双対における選択には関係しません。  10. ゆづりあえず こちらだけがゆづった場合にも 相手に対して このあほんだら よく目を明けて情況を見てみておのれの心をも知り しっかりと精神のチカラを保ったらどうなんだと心内を無言で伝えてやればよいはずです。時を俟てばよいはずです。  よってこの《君主道徳と奴隷道徳なる最も基本的な道徳形態》について 何の意味も無い。と考えますが いかがでしょう。

  • なぜ戦争を止めようと言う発想にならないのか?

    イスラム国の支配している地域からして、イラクが半分ですから。 戦争を終わらせるためには まずアメリカが空爆を止めて 交渉のパイプを作り はっきり言えば アメリカがイラク人10~50万人を 殺した事を正式に謝罪し、大量破壊兵器はなかったことを認め、賠償するしかありません。 もちろん賠償しきれるはずがありません。死んだ人間は生き返ってこないのですから。 一人1億円としても10万人で10兆円です。 イラクの調査では50万人ですから50兆円 アメリカが出すでしょうか?出しません けして出さないでしょう。 少なくとも10万人以上の「誤爆」を謝罪しなければなりません。 そしてイスラム国が話し合いに応じたら 後藤さんは帰ってくるかもしれません 子供が考えれがこうなるはずです。 なぜこうならないのでしょうか?なんで空爆しながら非難して 卑劣なテロだ 断じて許せないと言えるのでしょうか?不思議でたまりません。

  • コーヒーのおいしさ

    教えてください!

    • ext1219
    • 回答数9
  • なぜ戦争を止めようと言う発想にならないのか?

    イスラム国の支配している地域からして、イラクが半分ですから。 戦争を終わらせるためには まずアメリカが空爆を止めて 交渉のパイプを作り はっきり言えば アメリカがイラク人10~50万人を 殺した事を正式に謝罪し、大量破壊兵器はなかったことを認め、賠償するしかありません。 もちろん賠償しきれるはずがありません。死んだ人間は生き返ってこないのですから。 一人1億円としても10万人で10兆円です。 イラクの調査では50万人ですから50兆円 アメリカが出すでしょうか?出しません けして出さないでしょう。 少なくとも10万人以上の「誤爆」を謝罪しなければなりません。 そしてイスラム国が話し合いに応じたら 後藤さんは帰ってくるかもしれません 子供が考えれがこうなるはずです。 なぜこうならないのでしょうか?なんで空爆しながら非難して 卑劣なテロだ 断じて許せないと言えるのでしょうか?不思議でたまりません。

  • イスラムは人間ではなく一種のアニマルである

      本日はっきりしたこと。 どうやらイスラムってのは人間ではなく、一種のアニマルに近いのではないかってこと。 何故なら彼らイスラムには人が人としてもつべき人間性とか倫理観のようなものが全く欠如しているからである。 人を平気で騙すし、平気で殺す。 イスラムは人間ではなく一種のアニマルである。 むしろこのように考えたほうが彼らが引き起こす現実問題に影響されることなく正しく対処できるのではないか。 いずれにせよ日本はイスラムに対する考え方を根本的に変えたほうがよいと思うがどうか。  

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • なぜ空爆をやめないのか?

    卑劣なテロには屈しないと言いながら 安倍首相もオバマ大統領も空爆を止めようとは言いません 後藤さんのイスラム国入の一つの理由は空爆で市民が被害を受けてないか それを伝えたいと言う事もあったと思います。 腐ったミカンの方程式ではありませんが イスラム国を叩き潰して解決したと パワー・イズ・ライトを主張するなら、戦後レジームからの脱却はどういう事でしょうか? イスラム国への空爆は太平洋戦争時の日本への絨毯爆撃と原爆と同じ様です。 日本はここでどう主張するべきなのでしょうか? アメリカの空爆を止めさせると言う選択肢はないのでしょうか? テロが起きるにはそれなりの不条理があったのではないでしょうか? 空爆で皆殺しにするのが民主主義なのでしょうか?? 本当にこの世の中はパワー・イズ・ライトなのでしょうか? アメリカ国内でも人種差別が問題になっています。 米英が正しいのでしょうか?アメリカに敵対する国の国民がゴミのように犠牲になって良いのでしょうか? 端的にお願いします。私は病弱で長文は読めませんのでm(_ _)m

  • なぜ空爆をやめないのか?

    卑劣なテロには屈しないと言いながら 安倍首相もオバマ大統領も空爆を止めようとは言いません 後藤さんのイスラム国入の一つの理由は空爆で市民が被害を受けてないか それを伝えたいと言う事もあったと思います。 腐ったミカンの方程式ではありませんが イスラム国を叩き潰して解決したと パワー・イズ・ライトを主張するなら、戦後レジームからの脱却はどういう事でしょうか? イスラム国への空爆は太平洋戦争時の日本への絨毯爆撃と原爆と同じ様です。 日本はここでどう主張するべきなのでしょうか? アメリカの空爆を止めさせると言う選択肢はないのでしょうか? テロが起きるにはそれなりの不条理があったのではないでしょうか? 空爆で皆殺しにするのが民主主義なのでしょうか?? 本当にこの世の中はパワー・イズ・ライトなのでしょうか? アメリカ国内でも人種差別が問題になっています。 米英が正しいのでしょうか?アメリカに敵対する国の国民がゴミのように犠牲になって良いのでしょうか? 端的にお願いします。私は病弱で長文は読めませんのでm(_ _)m

  • なぜ空爆をやめないのか?

    卑劣なテロには屈しないと言いながら 安倍首相もオバマ大統領も空爆を止めようとは言いません 後藤さんのイスラム国入の一つの理由は空爆で市民が被害を受けてないか それを伝えたいと言う事もあったと思います。 腐ったミカンの方程式ではありませんが イスラム国を叩き潰して解決したと パワー・イズ・ライトを主張するなら、戦後レジームからの脱却はどういう事でしょうか? イスラム国への空爆は太平洋戦争時の日本への絨毯爆撃と原爆と同じ様です。 日本はここでどう主張するべきなのでしょうか? アメリカの空爆を止めさせると言う選択肢はないのでしょうか? テロが起きるにはそれなりの不条理があったのではないでしょうか? 空爆で皆殺しにするのが民主主義なのでしょうか?? 本当にこの世の中はパワー・イズ・ライトなのでしょうか? アメリカ国内でも人種差別が問題になっています。 米英が正しいのでしょうか?アメリカに敵対する国の国民がゴミのように犠牲になって良いのでしょうか? 端的にお願いします。私は病弱で長文は読めませんのでm(_ _)m

  • 音楽って何のためにあるの?

     っていう問いは成り立ちますか?  わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  音楽についての哲学ってありますか?

  • 人生がつまらない

    現在22歳の男です。 人生が本当につまらないです。 生きていても嫌なことしかおきません。 幸せなときもありますが、すぐにその幸せ以上の不幸がおとずれます。 最近も彼女といろいろ大きな問題がおきて別れてしまいました。 今まで付き合った中で一番幸せを感じることができた人でしたが、すぐにどん底に落とされた感じです。 仕事も一生懸命にこなしても楽しくないし、結果を残しても評価もされず。 こんな人生なら本当にやめてしまいたいです。 幸せをいたずらに与えられて、すぐにその幸せを奪われてしまう。 本当に生きていたくない人生です。 友だちも多くない方で、その数少ない友だちと遊んでも正直そんなにたのしくありません。 新しく友だちを作ってもみんな薄っぺらい付き合いという感じで、楽しくないです。 頑張って楽しいようにしようとしても疲れてしまって、結局楽しめません。 もうこんな人生やめてしまいたいです。 できることなら生きたくても生きられない人たちにこの命をあげたいです。 僕が生きているよりもそのほうがずっといいです。 このつまらない人生がまだ何十年も続くと思うと辛いです。 どうしたら幸せを得ることができるでしょうか?

  • 生きているのが辛い

    精神病を患ってから、仕事に就けなくなり、もう何年か経ちます。 生きている価値がないとも思い毎日死にたい思いで生きている感覚がありません。 できるならば死にたい。家族にも迷惑がられて います。迷惑とも言われました。友人や恋人もいません。 元気で仕事をしていた頃もあったのですが、様々な事が重なり頭なり精神がコントロールできなくなり壊れてしまいました。 実家に戻り、もう一度やり直したいと思う気持ちが強く治療を受けていたのですが、帰れる日がいつになるのかわかりません。 壊れてしまったのには自分が避けられなかった不器用さもあっただろうし、家族が原因な部分も多少なりとも関係はしています。 もう諦めてしまった方が良いのでしょうか。 毎日が苦しいです。 自分が特別だと思うなよ等的な言葉を兄や男性に言われた事が何度かあります。 そんな事は生まれた時から1ミリも思った事もなく、むしろ、今、仕事もできず、社会にとって何て生きている価値のない人間なんだと毎日何年と思い過ごしています。 そんな風にみえるのでしょうか。 生活も住む所も客観的に見ても最低限の暮らしをしています。 経済的にもそれが限界な為。 自分が働くない為、仕方のない事なのですが。 そんな風に言われてしまう意味がよくわからず苦しいです。