a_hona の回答履歴
- あやまつなら われあり。わたしは存在である。
――われがあるだって? そんなものはあるもんか。あんたは そういう言葉の遊びで騙されている。まぼろしを見ているだけだ。目を覚ませ。 と言われて反論するには: もし わたしは欺かれているとしよう。そうしたら その欺かれていると気づいたわたしは 存在している。 われに還っている。 なぜなら 存在していないなら 欺かれないのだから。 また わたしは欺かれることを欲していない。 このように宣言するわたしは たとえ誰かに具体的なものごとで欺かれていたとしても けっきょく 存在としては何ものによっても欺かれない。 欺かれ得ない。 あやまつなら(欺かれるなら) われあり。 ( Si fallor, sum. ≒ If I err, I am. ) わたしは 存在である。 思考と想像のつばさを思いっきり伸ばしてみて思い浮かぶあなたご自身の見解をどうぞ。
- あやまつなら われあり。わたしは存在である。
――われがあるだって? そんなものはあるもんか。あんたは そういう言葉の遊びで騙されている。まぼろしを見ているだけだ。目を覚ませ。 と言われて反論するには: もし わたしは欺かれているとしよう。そうしたら その欺かれていると気づいたわたしは 存在している。 われに還っている。 なぜなら 存在していないなら 欺かれないのだから。 また わたしは欺かれることを欲していない。 このように宣言するわたしは たとえ誰かに具体的なものごとで欺かれていたとしても けっきょく 存在としては何ものによっても欺かれない。 欺かれ得ない。 あやまつなら(欺かれるなら) われあり。 ( Si fallor, sum. ≒ If I err, I am. ) わたしは 存在である。 思考と想像のつばさを思いっきり伸ばしてみて思い浮かぶあなたご自身の見解をどうぞ。
- あやまつなら われあり。わたしは存在である。
――われがあるだって? そんなものはあるもんか。あんたは そういう言葉の遊びで騙されている。まぼろしを見ているだけだ。目を覚ませ。 と言われて反論するには: もし わたしは欺かれているとしよう。そうしたら その欺かれていると気づいたわたしは 存在している。 われに還っている。 なぜなら 存在していないなら 欺かれないのだから。 また わたしは欺かれることを欲していない。 このように宣言するわたしは たとえ誰かに具体的なものごとで欺かれていたとしても けっきょく 存在としては何ものによっても欺かれない。 欺かれ得ない。 あやまつなら(欺かれるなら) われあり。 ( Si fallor, sum. ≒ If I err, I am. ) わたしは 存在である。 思考と想像のつばさを思いっきり伸ばしてみて思い浮かぶあなたご自身の見解をどうぞ。
- 生命が尊いのではなく、精神が尊いのでは?
この考えは昔から人々の間にありましたが 生命は尊いと言いながら 牛や豚や鶏など 生命を殺して食べてるではないか 害虫や害獣は駆除しているではないか 森や草原を開拓して生き物の住処を奪っているではないか と思います。 その理由を私は 人間に於いても生命は精神の器として尊いのであって 精神がなくて生きているだけでは尊いとは言えない 植物人間になったら家族は悲嘆に暮れる。 むしろ生命が尊いのではなく精神が尊いのだと考えるべきではないか? 私の思うに人間とはその体よりも精神のことを人間というのではないか? その点仏教などの宗教の教えも少しおかしいのではないか? と言う事です。 どうでしょうか?現実問題。
- 生命が尊いのではなく、精神が尊いのでは?
この考えは昔から人々の間にありましたが 生命は尊いと言いながら 牛や豚や鶏など 生命を殺して食べてるではないか 害虫や害獣は駆除しているではないか 森や草原を開拓して生き物の住処を奪っているではないか と思います。 その理由を私は 人間に於いても生命は精神の器として尊いのであって 精神がなくて生きているだけでは尊いとは言えない 植物人間になったら家族は悲嘆に暮れる。 むしろ生命が尊いのではなく精神が尊いのだと考えるべきではないか? 私の思うに人間とはその体よりも精神のことを人間というのではないか? その点仏教などの宗教の教えも少しおかしいのではないか? と言う事です。 どうでしょうか?現実問題。
- 真理はあるか?分かれば我々は幸せになるか?
私は真理はあると思って求めていますが。 本当に真理は在るのでしょうか? 在るとすればそれを理解すれば我々は幸せになれるでしょうか? 幸せというか 僕的には目的を実現することができるかどうかですが 宇宙も滅びるとすれば それも無理ですねえ。 真理を知って我々は滅びて雲散霧消するのでしょうか? それとも真理と言えるものは 本当はないのでしょうか? ご意見をお聞かせください。
- 霊って、現代の言葉で説明するとどうなるのでしょう?
霊って宗教とかスピリチュアルではよく聞きますが科学や哲学ではあまり聞かないようですねえ 「霊」を哲学や科学の言葉で言い換えるとどうなるのでしょうか? 精神って霊の一種でしょうか?(生霊)「魂」もついでにどう言い換えられるでしょうか? 性質と同じ質だと思ってはいますが どうでしょう?貴方の語感、認識ではどうでしょう? 教えて下さい。お願いします。
- ヒラメキとは 天使のことかなぁ。
この質問は 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html の余滴です。 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。 どうでしょう?
- 霊って、現代の言葉で説明するとどうなるのでしょう?
霊って宗教とかスピリチュアルではよく聞きますが科学や哲学ではあまり聞かないようですねえ 「霊」を哲学や科学の言葉で言い換えるとどうなるのでしょうか? 精神って霊の一種でしょうか?(生霊)「魂」もついでにどう言い換えられるでしょうか? 性質と同じ質だと思ってはいますが どうでしょう?貴方の語感、認識ではどうでしょう? 教えて下さい。お願いします。
- ヒラメキとは 天使のことかなぁ。
この質問は 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html の余滴です。 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。 どうでしょう?
- ヒラメキとは 天使のことかなぁ。
この質問は 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html の余滴です。 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。 どうでしょう?
- ヒラメキとは 天使のことかなぁ。
この質問は 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html の余滴です。 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。 どうでしょう?
- 信仰とは?
私はクリスチャンではないのですが 高校の時に四福音書を読みました 日本ギデオン協会?が新約聖書を高校で配ったからです。 しかしイエスの復活が信じられなかったので他は黙示録とか創世記とかを読みました しかし此処に至り 読めるうちに使徒行伝も読んでみようと思って読んでいますが メシアでもないのに奇跡が続出 死人は蘇り 病気は治り こりゃなんだと思いました。 しかしクリスチャンはこの信じ難き事を信じるほどの信仰を持たねばなりません 私も解釈改憲じゃないですが こういう意味だろうかああ言う事だろうかと 首を捻り捻り読んでいますが、どうにも信仰がないため分かりません。 世界には数億のいや十数億のクリスチャンがいるでしょうけど その人たちはこれを信じているのでしょうか? バスが土砂に埋まったとき 遭難や地震(阪神淡路、東日本等)後藤さん湯川さんの時も 及ばずながら祈りましたが 祈りは一度も通じません 私だけが祈ったのでしょうか? 多くのクリスチャンも祈ったはずです。しかし結果は何時も祈り虚しく・・・ そしてたまに祈りと現実が一致したら「奇跡的に」「奇跡だ」と言って喜びます。 果たしてこの様な信仰 クリスチャンに限らず 神頼みの信仰は何のためにあるのか? それは己の心を強く持ついために在るのではないでしょうか? しかしその反面 祈るばかりで現実に出来ることを諦めて 今は皆で祈りましょう と 言うこともよくあります。 これは思考停止にもつながります。行動しながら祈るのが一番なのです 「天(神)は自らを助くるものを助く」と言います ところがその結果 突出したのがアメリカです。USAです。 それはクリスチャンが投票してるとはとても思えないような軍事力と資本主義 格差社会と大国のエゴ そして権利の主張と裁判の数です。 他にも宗教は仏教系、神道系、イスラム系、新興宗教も日本でも見られますが 信仰とは一体何でしょうか?死人が蘇ると信じる事?祈るより他無い時に頼るもの? 皆で一つの教えを信じて仲間になること? しかし宗教内部でもそうそう仲が良いばかりではありません。 かと言ってマルクスのように信仰を否定すると 信仰と共に在った道徳・倫理や教えまで 一緒にかなぐり捨ててしまいます。 その結果が粛清だったりしますし。 一体現代、現在に生きる我々は 何を信じるべきでしょうか? 科学? 人間? 愛? お金? 神? 家族? 自分の心?・・・ 人は全く何も信じないでは行動できません。足元に大地があるだろうと信じて 足場が壊れないことを信じて歩き、生きているのです。 哲学として皆さんが考えた結果 これは信じられるというものはなんですか 信仰の対象とできるのはなんでしょう? 皆さんの日頃思うところを教えていただけると有難いです。 我々は何を信じればいいのでしょう? コギトでもイデアでも 真心でも愛でも 言葉でも理性でも何でも来いです。 どうか教えて頂きたいm(_ _)m
- 安らかに、、、、、
なるべく穏やかに死にたいのですが、その為の宗教、生き方、考え方などを教えていただけないでしょうか? 私は、67歳、男です。 特に今、病気を持っているわけではありません。 よろしくお願いいたします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- acrosstakashima
- 回答数8
- コインキデンチア・オッポシトールム
・ coincidentia oppositorum ・ coincidence( unity ) of opposites ・ 対立物の一致(合一・統一) これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。 この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。 中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。 ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~ ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。 ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。 ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。 ただし ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。 ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。 ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは ▲ 無限の中では ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。 * たとえば (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。 といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。 (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。 と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。 * あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?) これは 一般に (γ‐1) 矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。 とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか? またもしその (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。 といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。 * この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで (δ) 絶対矛盾的自己同一 という表現として打ち出されたそうです。 このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。 (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。 とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。
- コインキデンチア・オッポシトールム
・ coincidentia oppositorum ・ coincidence( unity ) of opposites ・ 対立物の一致(合一・統一) これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。 この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。 中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。 ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~ ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。 ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。 ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。 ただし ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。 ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。 ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。 ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。 ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは ▲ 無限の中では ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。 * たとえば (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。 といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。 (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。 と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。 * あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?) これは 一般に (γ‐1) 矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。 とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか? またもしその (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。 といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。 * この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで (δ) 絶対矛盾的自己同一 という表現として打ち出されたそうです。 このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。 (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。 とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。