NemurinekoNya の回答履歴
- 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか
1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。 趣旨説明を述べます。 2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。 3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。 4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか? 5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。 6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか? 7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? 8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。 9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。 10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。 12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。 13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。 14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。 15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。 16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。 17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか? 18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。 19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。 20. という憶測としての発見を得ました。 いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。 21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか? 22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。 余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。
- わびさびは日本人しか理解出来ないですか?
そもそも日本文化は中国文化の本質をパクっていると思うのです。 例えば白磁などは究極の美でまさにわびさびであると私は思うのですが、白磁の起源はやはり中国です。 そういった物を作り出した中国人がわびさびを理解出来ないって事があるのでしょうか? 最近、日本の茶道も高麗から伝わったなんていう映画も出てきましたね。西洋人はともかく、韓国人や中国人にわびさびは理解出来ないのですか?
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- rakurakutokeru
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- 何と言う《神は死んだ》のか?
主題は ふたつです。 神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか? ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か? まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。 ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~ ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。 寒くなってきてはいないか? これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか? 昼前から行燈を灯す必要はないのか? 神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか? 神が腐る臭いがまだしてこないのか? ――神々といえども腐るのだ。 神は死んだ! 死んでしまい 蘇ることはない! しかも 我々が殺したのだ! 殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。 (『喜ばしき知識』125番) 大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。 しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。 実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。 《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。 ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。 ・・・ 再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み pp.149-151 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。 そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。 と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。 三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。 つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。 いったいニーチェとは何だったのか? レクイエムを書いてやってください。
- それでもあなたは ニーチェ党か。
▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~ ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。 そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。 ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。 ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。 弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。 ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。 たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。 しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。 (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 ) ~~~~~~~~~ ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか? (あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 (い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。 ☆ ご見解をどうぞ! 何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・ さもなければ キ印であるとしか考えられません。
- 臓器くじ・改
臓器くじについて下の意見について考察し、意見や反論をお願いします。 ※臓器くじについて 臓器くじ - Wikipediaより引用 ―――――― 内容[編集] 「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。 1.公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。 2.その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。 臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。 ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。 くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。 議論[編集] 事故にあって死ぬことよりも積極的に殺すことのほうが罪が重い。 反論:臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しにするのと同じことであって、移植しようがしまいが殺すことに変わりないのではないか。 臓器が必要な人をそのまま死なせることは消極的に殺すことであり、健康な人から臓器をとるのは積極的に殺すことであり、その意味は当然異なる。 反論:過程がどうであれ、最終的に多数の命を救う事に比べれば、一人の犠牲に対する意味の違いなどは大きく取り上げることではないのではないか。 いつ臓器を奪われるか分からない状況に怯えることになる。 反論:多数の人から無作為に選ばれるならば病気や事故に遭って死ぬ確率がごくわずかに増えるのと同じことであり、それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないか。 生死は天命によるものであって人が誰が死ぬべきかを決めるものではない。 反論:臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることではないか。 こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう人々が競って不健康になろうとするというモラル・ハザードが起きるのではないか。 反論:不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れるのではないか。 臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。 反論:緊急避難の考え方を社会全体に適用できないか。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになるのではないか。 臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。 反論:思考実験の内容として「死人の臓器や人工臓器では代替できない」とある。 社会全体としては、臓器移植が必要な重病人数人の生存よりも、健康な人間一人の生存のほうが有益なのではないか。 反論:健康な人間一人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。 臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。 反論:臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得る。 ―――――― 私はこの社会制度に反対である。何故ならはこれよりも総体的に優れた社会制度が容易に想到できるからである。 想到される社会制度の一つを述べる。この社会制度を臓器くじ改と仮称する。 「臓器くじ改」は以下のような社会制度を指す。 1.臓器移植が必要な人のうち希望者がくじを引く。くじは1~(参加者-●くじ)の数字くじと●くじからなる。 2.●くじに当たった人を殺す。そして臓器移植に耐えうる臓器を全て取り出し必要な参加者に配る。これは数字が若い方が優先される。 この社会制度は「臓器くじ」の仮定に則ったものであり、「臓器くじ改」の仮定も「臓器くじ」に倣う。 臓器くじを知ってから2秒で思いついた頓知ですか、何故これに類する議論がなされていないのか不思議でなりません。よろしくお願いします。
- 臓器くじ・改
臓器くじについて下の意見について考察し、意見や反論をお願いします。 ※臓器くじについて 臓器くじ - Wikipediaより引用 ―――――― 内容[編集] 「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。 1.公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。 2.その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。 臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。 ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。 くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。 議論[編集] 事故にあって死ぬことよりも積極的に殺すことのほうが罪が重い。 反論:臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しにするのと同じことであって、移植しようがしまいが殺すことに変わりないのではないか。 臓器が必要な人をそのまま死なせることは消極的に殺すことであり、健康な人から臓器をとるのは積極的に殺すことであり、その意味は当然異なる。 反論:過程がどうであれ、最終的に多数の命を救う事に比べれば、一人の犠牲に対する意味の違いなどは大きく取り上げることではないのではないか。 いつ臓器を奪われるか分からない状況に怯えることになる。 反論:多数の人から無作為に選ばれるならば病気や事故に遭って死ぬ確率がごくわずかに増えるのと同じことであり、それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないか。 生死は天命によるものであって人が誰が死ぬべきかを決めるものではない。 反論:臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることではないか。 こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう人々が競って不健康になろうとするというモラル・ハザードが起きるのではないか。 反論:不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れるのではないか。 臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。 反論:緊急避難の考え方を社会全体に適用できないか。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになるのではないか。 臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。 反論:思考実験の内容として「死人の臓器や人工臓器では代替できない」とある。 社会全体としては、臓器移植が必要な重病人数人の生存よりも、健康な人間一人の生存のほうが有益なのではないか。 反論:健康な人間一人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。 臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。 反論:臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得る。 ―――――― 私はこの社会制度に反対である。何故ならはこれよりも総体的に優れた社会制度が容易に想到できるからである。 想到される社会制度の一つを述べる。この社会制度を臓器くじ改と仮称する。 「臓器くじ改」は以下のような社会制度を指す。 1.臓器移植が必要な人のうち希望者がくじを引く。くじは1~(参加者-●くじ)の数字くじと●くじからなる。 2.●くじに当たった人を殺す。そして臓器移植に耐えうる臓器を全て取り出し必要な参加者に配る。これは数字が若い方が優先される。 この社会制度は「臓器くじ」の仮定に則ったものであり、「臓器くじ改」の仮定も「臓器くじ」に倣う。 臓器くじを知ってから2秒で思いついた頓知ですか、何故これに類する議論がなされていないのか不思議でなりません。よろしくお願いします。
- 色即是空空即是色、この世の全ては無であり空である
このように申したところ、この世は空であるが無ではないという者が現れました。 では訊ねたい。 無と空の違いが何か説明できる人がいましたら分かるように説明して頂きたい。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数27
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このように申したところ、この世は空であるが無ではないという者が現れました。 では訊ねたい。 無と空の違いが何か説明できる人がいましたら分かるように説明して頂きたい。
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- 臓器くじ・改
臓器くじについて下の意見について考察し、意見や反論をお願いします。 ※臓器くじについて 臓器くじ - Wikipediaより引用 ―――――― 内容[編集] 「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。 1.公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。 2.その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。 臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。 ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。 くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。 議論[編集] 事故にあって死ぬことよりも積極的に殺すことのほうが罪が重い。 反論:臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しにするのと同じことであって、移植しようがしまいが殺すことに変わりないのではないか。 臓器が必要な人をそのまま死なせることは消極的に殺すことであり、健康な人から臓器をとるのは積極的に殺すことであり、その意味は当然異なる。 反論:過程がどうであれ、最終的に多数の命を救う事に比べれば、一人の犠牲に対する意味の違いなどは大きく取り上げることではないのではないか。 いつ臓器を奪われるか分からない状況に怯えることになる。 反論:多数の人から無作為に選ばれるならば病気や事故に遭って死ぬ確率がごくわずかに増えるのと同じことであり、それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないか。 生死は天命によるものであって人が誰が死ぬべきかを決めるものではない。 反論:臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることではないか。 こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう人々が競って不健康になろうとするというモラル・ハザードが起きるのではないか。 反論:不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れるのではないか。 臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。 反論:緊急避難の考え方を社会全体に適用できないか。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになるのではないか。 臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。 反論:思考実験の内容として「死人の臓器や人工臓器では代替できない」とある。 社会全体としては、臓器移植が必要な重病人数人の生存よりも、健康な人間一人の生存のほうが有益なのではないか。 反論:健康な人間一人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。 臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。 反論:臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得る。 ―――――― 私はこの社会制度に反対である。何故ならはこれよりも総体的に優れた社会制度が容易に想到できるからである。 想到される社会制度の一つを述べる。この社会制度を臓器くじ改と仮称する。 「臓器くじ改」は以下のような社会制度を指す。 1.臓器移植が必要な人のうち希望者がくじを引く。くじは1~(参加者-●くじ)の数字くじと●くじからなる。 2.●くじに当たった人を殺す。そして臓器移植に耐えうる臓器を全て取り出し必要な参加者に配る。これは数字が若い方が優先される。 この社会制度は「臓器くじ」の仮定に則ったものであり、「臓器くじ改」の仮定も「臓器くじ」に倣う。 臓器くじを知ってから2秒で思いついた頓知ですか、何故これに類する議論がなされていないのか不思議でなりません。よろしくお願いします。
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このように申したところ、この世は空であるが無ではないという者が現れました。 では訊ねたい。 無と空の違いが何か説明できる人がいましたら分かるように説明して頂きたい。
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- 固定されたデカルト座標での運動方程式
質量mをもつ質点の、時刻tにおける位置ベクトルをr↑(t)とする。 運動方程式は、ベクトル形式でm(d^2r↑(t)/dt^2)=F↑(r↑(t),t)と表せる。 x軸、y軸方向それぞれの単位ベクトルをex↑,ey↑とする。 時刻tにおける質点のデカルト座標をx(t),y(t)とする。 r↑(t)をx(t),y(t)で表せ。 r↑=xex↑+yey↑ ここからどうすればよいのですか? 詳しい解説お願いします。
- 納得の行くことを言われたら 心苦しいのだろうか
説得力のある話を聞いたとき どういう反応を採るか? 1. あぁ わが無知は恥ぢなり。と言って まなびに励む。 2. こりゃあ いいことを聞いた。只で聞けたよ。もうけものだ。 3. こいつ うまいことを言いやがって。どこかにインチキがあるんぢゃないか? 4. こんなに納得させられるとは いやはや 困ったなぁ。どこかで粗を見つけてやろう。 5. 正解なんか 聞きたくない。のらりくらりと互いの話しが出来ればよいものを こんなにストレートでど真ん中に投げて来やがって。このアンポンタン目。 6. ・・・(ご自由にどうぞ)。
- 臓器くじ・改
臓器くじについて下の意見について考察し、意見や反論をお願いします。 ※臓器くじについて 臓器くじ - Wikipediaより引用 ―――――― 内容[編集] 「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。 1.公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。 2.その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。 臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。 ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。 くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。 移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。 人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。 議論[編集] 事故にあって死ぬことよりも積極的に殺すことのほうが罪が重い。 反論:臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しにするのと同じことであって、移植しようがしまいが殺すことに変わりないのではないか。 臓器が必要な人をそのまま死なせることは消極的に殺すことであり、健康な人から臓器をとるのは積極的に殺すことであり、その意味は当然異なる。 反論:過程がどうであれ、最終的に多数の命を救う事に比べれば、一人の犠牲に対する意味の違いなどは大きく取り上げることではないのではないか。 いつ臓器を奪われるか分からない状況に怯えることになる。 反論:多数の人から無作為に選ばれるならば病気や事故に遭って死ぬ確率がごくわずかに増えるのと同じことであり、それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないか。 生死は天命によるものであって人が誰が死ぬべきかを決めるものではない。 反論:臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることではないか。 こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう人々が競って不健康になろうとするというモラル・ハザードが起きるのではないか。 反論:不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れるのではないか。 臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。 反論:緊急避難の考え方を社会全体に適用できないか。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになるのではないか。 臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。 反論:思考実験の内容として「死人の臓器や人工臓器では代替できない」とある。 社会全体としては、臓器移植が必要な重病人数人の生存よりも、健康な人間一人の生存のほうが有益なのではないか。 反論:健康な人間一人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。 臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。 反論:臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得る。 ―――――― 私はこの社会制度に反対である。何故ならはこれよりも総体的に優れた社会制度が容易に想到できるからである。 想到される社会制度の一つを述べる。この社会制度を臓器くじ改と仮称する。 「臓器くじ改」は以下のような社会制度を指す。 1.臓器移植が必要な人のうち希望者がくじを引く。くじは1~(参加者-●くじ)の数字くじと●くじからなる。 2.●くじに当たった人を殺す。そして臓器移植に耐えうる臓器を全て取り出し必要な参加者に配る。これは数字が若い方が優先される。 この社会制度は「臓器くじ」の仮定に則ったものであり、「臓器くじ改」の仮定も「臓器くじ」に倣う。 臓器くじを知ってから2秒で思いついた頓知ですか、何故これに類する議論がなされていないのか不思議でなりません。よろしくお願いします。
- 物理基礎の力学的エネルギーの問題
バネ定数kのバネの上端を固定し、下端に質量mのおもりを取り付けると、バネは伸びて釣り合った。この点Aとする。重力加速度の大きさをgとし、バネは鉛直方向にのみ運動するとする。 点Aでのバネの伸びa(m)を求めよ。 という問題だったのですが、できてなかったです 何が間違っているのか教えて下さい>< 勝手に自分で点Aを基準水平面として、自然の長さの時の力学的エネルギーは-mga(弾性の位置エネルギーはない) 点Aの時の力学的エネルギーは1/2ka^2(点Aが基準水平面なので重力の位置エネルギーはない) 力学的エネルギーは一定なので、 -mga=1/2ka^2 -2mg=ka (-2kg)/k=a と考えたんですが 答えはa=(mg)/kでした・・・ 自分で基準水平面をつけた所が悪かったのでしょうか? ___ | | |自然の長さ |___ ❘ ❘ a(m) ❘___ ❏A点
- 物理教えてください
わかるところだけでもいいので教えてください http://www.fastpic.jp/images.php?file=7983892268.png
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- 物理学
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