NemurinekoNya の回答履歴

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  • 実検!

    こんばんは。 私は常々評価しない、お笑いタレントの番組における、 「決り文句」ですが。 ゲストが「コレは絶対的に苦手だから食べれない」というのを、当てる、 というのですね。 ・・・贅沢でしょうか?

    • kurinal
    • 回答数1
  • もっと高く

      アルケーの神は申された。 ここにいるあなたがた皆に言っておきます。 あなたがたは漬かりたければ漬かっているがよい。 しかし真に満たされたければ目覚めなければならない。 漬かることを止め、目覚めたければもっと高くありなさい。 次元を上げなければならない。 もっと高く、もっと高く。 Higher And Higher https://www.youtube.com/watch?v=3fZBaPS_XvQ これしかないよね。  

  • ここはただのQ&Aサイトですか?

    ここは暇つぶしサイトではないんですか? yahoo知恵袋の方いいような 利点(知恵袋) 荒らしができる SNSとして使える 知恵コインをためて自慢できる 悪口かいてもけされないばわいが多い idを大量に作れる idが止まっても新しいの作ったらおk等

  • 可愛いって言われて困ります。

    女子高校生です。 私は友達や先輩や彼氏に「かわいい」とよく言われます。 でも、私は自分のことがかわいいと思えません。スタイルもよくないし、部活をしているので肌の色もけっこう焼けてます。 それに、「~ちゃん女子力あるね」なんて言われるんですけど自分からしたら女子力なんてあまり気をつけてませんし、お化粧もしないので無い方だと思います。 私が思っている自分と、 周りが思っている自分が違いすぎて… かわいいとゆわれたらすごく嬉しい気持ちになるんですけど正直、反応に困ります。 こんなこ質問をしても 本当の答えは分からないと思うけど私と同じような方やどおしてかわいいとゆわれるのか少しでも意見がある方、どのようなことでもいいので教えて下さい、

  • 円環状線電荷分布の問題をガウス則を用いて解きたい

    次のような円環状線電荷分布のつくる電場を求める問題をガウス則を用いて解こうと思った場合には具体的にどのようにすればよいでしょうか? (問) xy平面上の半径aの円環に線密度λで電荷が一様に分布している場合のz軸上の電場を求めよ この手の対称性の良くないモデルにおいて電場を求めるにはガウス則は適しておらず、クーロン則と重ね合わせの理を用いて解くべきであるというのは承知した上での質問です。 また、この問以外の対称性の良くないモデルにガウス則を適用するための汎用的な手法があればご教示願います。

  • エホバの証人の教理、疑問点

    エホバの証人の教理の疑問点について教えてください。 ※批判するのが目的ではありません。 ※この質問はエホバの証人数名に聞いたことがありますが、明確に答えてもらえなかったので、ここで質問します。 ※聖書のその他の良い点に目を向け話をそらすのではなく、この質問に対する直球な回答お願いします。 【質問:何故神はみ使いや人間を創造した際予知能力を使わなかったんですか?使えばこの世の惨劇を生まずに済んだのではないでしょうか?】 聖書によると、最初の人間、アダムとエバをサタンがそそのかし結果悪が蔓延したわけですが(具体的な蔓延していく経緯についてはここでは省略します)・・・ 予知能力があるはずの神は何故後にサタンになるみ使いを創造したのですか? 全能の神ならば、「このみ使いは将来悪の道に走りサタンとなるな!」と、創造する前からわかるはずです。 また、同じように後に反逆するアダムとエバを創造したのも疑問です。 予知能力があれば当然、後に起こるであろうリスクを予知するべきではありませんか? 予知能力がない人間ですら何かを設計する時はできる限りリスクについて考えます。 この質問の回答として、それは神の信頼の表れである、と言われたことがありますが、 エデンの園(?)に善悪の知識の実という食べることを禁じる木の実があったという事実は反逆の可能性を前提としていて、完全には信頼していませんよね? また、そもそも自由意志を設けられ、選択の自由がある時点で、悪を行う(悪を選択)可能性があるわけでして、それを認知していないわけがありませんよね? それとも、神は反逆の可能性を理解しながら、創造したのでしょうか? そうなると悪の根源はある意味、神にあるような気がしてきます。

    • J-009
    • 回答数3
  • 神と信仰者は一対一で向き合わねばならない

      神と信仰者は一対一で向き合うものであり、およそ信仰にあっては神の代理も信仰者の代理人もあってはならないのである。 神と信仰者の間には如何なる仲介者も必要ない。 だから預言者も、祈祷師も、天使も、教会も、牧師も必要ないのである。 唯一信仰者本人だけが神と一対一で向き合うのである。 そうでなければ信仰として成り立たないのではないか。  

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • OKWaveの質問の補足について

    OKWaveの質問を投稿した後に回答してくれた方へ補足するところがありますよね?あれは補足したら相手も追記できるようになってるんでしょうか?回答してくださったユーザーに補足をしたんですが返信が来ていないです… また補足の隣にお礼するところがありますがこれは補足と何が違うんでしょうか?どういう時に使うべきですか? 今まで知恵袋を使用していたのでOKWaveの機能があまり良くわからないです。詳しい方教えてくだされば幸いです。よろしくお願いします。

    • noname#262896
    • 回答数9
  • OKWaveの質問の補足について

    OKWaveの質問を投稿した後に回答してくれた方へ補足するところがありますよね?あれは補足したら相手も追記できるようになってるんでしょうか?回答してくださったユーザーに補足をしたんですが返信が来ていないです… また補足の隣にお礼するところがありますがこれは補足と何が違うんでしょうか?どういう時に使うべきですか? 今まで知恵袋を使用していたのでOKWaveの機能があまり良くわからないです。詳しい方教えてくだされば幸いです。よろしくお願いします。

    • noname#262896
    • 回答数9
  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • スピノザが、神を愛するという時、何をいっているか?

    スピノザが、「神を愛する」という表現を使いますが、身近な例でいうと、どういった感じのことを言っているのでしょうか? キリスト教徒やユダヤ教徒が、他者(二人称)なる人格神を愛するのとは違うでしょうし・・ 自分自身の神性の認識といった一人称的なことなのでしょうか?・・

  • カールシュミットの政治的なものの概念

    カールシュミットはナチスと組んだ点で良いイメージはないのですが、政治的なものの概念について大学で学んで、おもしろいなと思いました。経済は損得、道徳は善悪、というように分けられることに納得したからです。ここで政治は友と敵にわけられるとしていますが、この考えがナチスと結びついてしまったのでしょうか? 政治を敵と友に分けたことでシュミットはなにを示したかったのですか?

    • noname#203495
    • 回答数1
  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 日本にお礼する文化が無いこととチップ文化の関連性

    たとえば郵便局まで道案内してあげたり店員でもないのにコンビニの機械の操作を教えたりしてやったのに缶ジュースの一本すらおごらずありがとうございます一言で済まそうとするのは日本に限定された話じゃなくて世界標準なんでしょうか。 日本人に、人に何かしてもらったときお礼する文化が根付いていないのは、チップの文化がなく導入にも否定的な人が多いことと関連性がありますか。

    • noname#198358
    • 回答数3
  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 1人の人の道が30人の漬かった人達を覚まさせる

      一人の劣悪な教師が30人のクラスを完璧にシラケさせることは簡単である。 また一人の悪ガキが30人のクラスを完全な学級崩壊に導くことは容易いそーである。 では一人の人の道が30人の漬かった人達を覚まさせることは可能か。    

  • ブータンの公用語「ゾンケ語」で“田舎”は何と?

    ブータンの公用語「ゾンケ語」で“田舎”は何といいますか? よろしくお願いします。

    • daaaago
    • 回答数4
  • 良いこだわりと悪いこだわりって

    職人技で細部までこだわるというのは、製品において完璧なものかと思います。 反面、持論にこだわる場合って、いうまでも過去をひきずっている感じもします。 良いこだわりと悪いこだわりってそれぞれ何でしょうか?

    • noname#209756
    • 回答数10