JidousyaGaisya の回答履歴
- 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?
まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。 ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか? この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。 と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。 * さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。 まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。 たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。 ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか? たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。 つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか? いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。 もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。 ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。 もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか? 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。 これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。 という憶測としての発見をきょう得ました。 ご教示ください。 * おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか? 余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。 ご教示を願います。
- 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?
哲学として定義してくださいませんか? 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
- ActiveX とか インターネットオプション
オンラインゲームをしようと、最近多い公式HPからスタートするゲームなのですが。。。 僕のPCはなにかおかしくなってしまって インターネットオプションを開こうとしたら このコンピューターの制限により。、、 とでます 前は出ませんでした、急になったんですTT そのため ActiveX がインストールできなかったり 実行 しても動作しなかったりします>< これってなおるんですか? これは親のPCなので 権限はあると思います げーむしすぎ、などとはゆわれていません;;
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- aki1991050
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- パブリックネットワークに関する質問です。
複数のパブリックネットワークとの接続している機器は、 専門の特殊なルータなのでしょうか? WAN側での転送の仕組みが殆ど分かっていないものですから、 宜しければ教えて下さいませ。
- ベストアンサー
- その他([技術者向] コンピューター)
- UtaShiori
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- 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?
哲学として定義してくださいませんか? 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
- ポート転送ができない・・・・何故??
ネットワークの接続について質問です。YahopBBに加入してパソコンAがネット(グローバルIPアドレスが割り当てられてます)につながっています。 パソコンBが無線でつながっています。AのIPアドレスが(仮に)218.134.55.66とします。 Bのアドレスが(仮に)192.168.1.8とします。Aにはルータがつながっていて、ポート転送でWAN側 から80番ポートのアクセスは192.168.1.8、つまりパソコンBに転送するようにルータに設定 しました。パソコンBにはhttpdをインストールし、パソコンBでhttp://localhostとアクセスしたら Webページが見れたことは確認できました。そこでためしに携帯電話からhttp://218.134.55.66とアクセスしたら ページが見れませんでした。パソコンA,パソコンBも同じようアクセスしても同様にページが見れませんでした。 原因がさっぱりわかりません。 どうすれば外部からパソコンBのページが見れるようになるのでしょうか?
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- その他([技術者向] コンピューター)
- ken11ken12
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- 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?
哲学として定義してくださいませんか? 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
- 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?
まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。 ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか? この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。 と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。 * さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。 まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。 たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。 ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか? たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。 つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか? いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。 もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。 ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。 もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか? 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。 これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。 という憶測としての発見をきょう得ました。 ご教示ください。 * おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか? 余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。 ご教示を願います。
- 自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?
《自己主張》を含まない哲学の文章はあり得ません。そうでない資料を得たいのなら 百科事典を担うヱブサイトを見れば済むことです。 なのにそのような自己表現のかたちをなじるクセが この哲学のカテゴリにおいて見かけます。いったいどういう事情でしょうか? むろん なじることも 自己主張のたぐいです。そしてこのカテで見かけるナジリは 自己主張をするなという中身つまりそういう自己主張であるものが多いようです。 これは 日本人のくせであると捉えますが さらにその事情について明らかにしてくださいませんか? * 重ねて説明を添えます。 哲学カテでは ほかのカテと違って たとえばこれこれの著書を書いたのは誰であるか おしえてといった質問はあり得ないと言ったほうがよいでしょう。 ならば 自分の考えあるいは自分の境地までをも回答の中に はっきりと明らかにする場合はもちろんのこと 暗黙の内にでも含ませたことになることは 議論の余地のないことだと考えます。 あるいはつまり ほかのカテにおけるような知識情報の供給であっても そもそも文章はすべてその人の自己表現であるはずです。 その自己を出すな・抑えろというのは 前へならえ! 右向け 右! のまぼろしの号令がなおも人びとの耳の奥には聞こえていて 勝手に手足が動いてしまうのでしょうか? ひとつの解釈を提出しましたが 話の手がかりに 極論を考えてみたものです。 つまり 詳しい説明をせずに言い出すのですが たとえば何の根回しもせずに 権限を持つ者が突然重要な発表をするかたちを取るというのは そのあとの四面楚歌を覚悟の上の或る種の《右向け 右!》であると捉えられなくはない。こういった見方にもかかわりましょうか? つまり四面楚歌の部分では ぎゃくに《右向け 右!》の亡霊のような号令に対して おまえはすでに死んでいる おまえの居場所は墓場なのだよと言って 追い返していることになるかも知れません。たしかにそれなら 《民主》党です。 どうぞ自由なご見解をお寄せください。
- 自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?
《自己主張》を含まない哲学の文章はあり得ません。そうでない資料を得たいのなら 百科事典を担うヱブサイトを見れば済むことです。 なのにそのような自己表現のかたちをなじるクセが この哲学のカテゴリにおいて見かけます。いったいどういう事情でしょうか? むろん なじることも 自己主張のたぐいです。そしてこのカテで見かけるナジリは 自己主張をするなという中身つまりそういう自己主張であるものが多いようです。 これは 日本人のくせであると捉えますが さらにその事情について明らかにしてくださいませんか? * 重ねて説明を添えます。 哲学カテでは ほかのカテと違って たとえばこれこれの著書を書いたのは誰であるか おしえてといった質問はあり得ないと言ったほうがよいでしょう。 ならば 自分の考えあるいは自分の境地までをも回答の中に はっきりと明らかにする場合はもちろんのこと 暗黙の内にでも含ませたことになることは 議論の余地のないことだと考えます。 あるいはつまり ほかのカテにおけるような知識情報の供給であっても そもそも文章はすべてその人の自己表現であるはずです。 その自己を出すな・抑えろというのは 前へならえ! 右向け 右! のまぼろしの号令がなおも人びとの耳の奥には聞こえていて 勝手に手足が動いてしまうのでしょうか? ひとつの解釈を提出しましたが 話の手がかりに 極論を考えてみたものです。 つまり 詳しい説明をせずに言い出すのですが たとえば何の根回しもせずに 権限を持つ者が突然重要な発表をするかたちを取るというのは そのあとの四面楚歌を覚悟の上の或る種の《右向け 右!》であると捉えられなくはない。こういった見方にもかかわりましょうか? つまり四面楚歌の部分では ぎゃくに《右向け 右!》の亡霊のような号令に対して おまえはすでに死んでいる おまえの居場所は墓場なのだよと言って 追い返していることになるかも知れません。たしかにそれなら 《民主》党です。 どうぞ自由なご見解をお寄せください。
- 「絶対的価値は存在しない」の考えの理論について
勝手にこんな理論を考えてみました、少し神学的です。 まず人間が愚かだとするならば、その原因はそんな「愚かな人間」を作ってしまった、もしくはそんな「愚かな人間」が生まれる世界を作ってしまった、神様が愚かだということになります。 同じように、「神様」に「愚かな人間をつくる」という行為をさせ、結果「神様」を愚かにした「神様」の{神様}が愚かだということになります。 このように考えると、どんどん無限に「愚かなのは神様の神様の神様の・・・・・・・・・・・・・・・・神様だ」となり、愚かなのは最も上の神様ということになります。 しかし、無限の考えでは「最後」や「最大」などの考え方がないように、「最も上」という考えもできないので、結果その「最も上の神様」は存在しないことになり、愚かな人間、もしくは神様という存在は一切存在しないということになります。 よって「愚かな存在」は存在しないことになります。 しかし、ここで「愚か」を「素晴らしい」にしても、まったく同じことが起きます。つまり、「素晴らしい存在は存在しない」ということになります。ほかの「〇〇な存在」としても同じです。 結果、(哲学的な)絶対的価値は存在しないことになります。 こんな内容です。またこの後、考察として自分の中では「絶対的な価値観が存在しないのだから、「自分に価値観に自信を持ち、そして他の価値観も認めるべきだ」ということを考えました。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#155073
- 回答数10
- 自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?
《自己主張》を含まない哲学の文章はあり得ません。そうでない資料を得たいのなら 百科事典を担うヱブサイトを見れば済むことです。 なのにそのような自己表現のかたちをなじるクセが この哲学のカテゴリにおいて見かけます。いったいどういう事情でしょうか? むろん なじることも 自己主張のたぐいです。そしてこのカテで見かけるナジリは 自己主張をするなという中身つまりそういう自己主張であるものが多いようです。 これは 日本人のくせであると捉えますが さらにその事情について明らかにしてくださいませんか? * 重ねて説明を添えます。 哲学カテでは ほかのカテと違って たとえばこれこれの著書を書いたのは誰であるか おしえてといった質問はあり得ないと言ったほうがよいでしょう。 ならば 自分の考えあるいは自分の境地までをも回答の中に はっきりと明らかにする場合はもちろんのこと 暗黙の内にでも含ませたことになることは 議論の余地のないことだと考えます。 あるいはつまり ほかのカテにおけるような知識情報の供給であっても そもそも文章はすべてその人の自己表現であるはずです。 その自己を出すな・抑えろというのは 前へならえ! 右向け 右! のまぼろしの号令がなおも人びとの耳の奥には聞こえていて 勝手に手足が動いてしまうのでしょうか? ひとつの解釈を提出しましたが 話の手がかりに 極論を考えてみたものです。 つまり 詳しい説明をせずに言い出すのですが たとえば何の根回しもせずに 権限を持つ者が突然重要な発表をするかたちを取るというのは そのあとの四面楚歌を覚悟の上の或る種の《右向け 右!》であると捉えられなくはない。こういった見方にもかかわりましょうか? つまり四面楚歌の部分では ぎゃくに《右向け 右!》の亡霊のような号令に対して おまえはすでに死んでいる おまえの居場所は墓場なのだよと言って 追い返していることになるかも知れません。たしかにそれなら 《民主》党です。 どうぞ自由なご見解をお寄せください。
- 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?
哲学として定義してくださいませんか? 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
- NTTグループの公衆無線LANサービスについて。
NTTグループの公衆無線LANサービスを利用する場合には、 PPPoE認証が必ず要求されている様ですので、恐らく、 そのサービスを提供してくれている無線アクセスポイントには、 DHCPサーバ機能が搭載されていないのだろう、と思われますが、 未熟な知識の私は是に関しましても疑問を感じているものですから、 畏れ入りますが、教えて下さいませ。 「同じ回線『だけ』を経由させて、複数のPPPoEクライアントが同時にウェブブラウジングを行なえる、というのは、どういう仕組みに拠っているのでしょうか。」
- ベストアンサー
- その他(インターネット接続・通信)
- codotjtp
- 回答数6
- 長距離の無線LAN(宅地間)
200-300メートル離れた宅地間で無線LANをやりたいと考えております。 実現可能でしょうか?お勧めの機器等教えていただきたく。よろしくお願いします。
- 締切済み
- Wi-Fi・無線LAN
- EDEDED
- 回答数8
- 無線LANでネットにつなぐことで質問です。
無線LANでネットにつなぐことで質問です。 私はPCのことがまったくうといんですが。。 今自宅で使っているPCをつなぐ時、以前「セキュリティがないネットワーク」みたいな、たぶんネットジャック?して使っていたと思います。そもそも自宅には家族用のPCもあって、それはプロバイダー契約してるので、私が別の部屋で使うときは、うちの電波を使っていたとしたらネットジャックとは言わないのかもしれませんが。。 とにかく、今自分の部屋で無線LANをやろうとしても、右下の地球マークが出ないんです。接続すると地球マーク出ますよね?画面には、「ネットワーク接続しました」って出ても、ネットにつながらないんです。前は出来ていたのになぜ出来なくなったのかわかりません↓ どなたか情報ください。 わかりづらい説明ですみません。
- 締切済み
- Wi-Fi・無線LAN
- kyosho0802
- 回答数3
- WiFiがうまく接続出来ないのです・・・?
auのレグザフォンでWiFi接続をしようと、バッファローの無線親機(WHR-HP-GN)を購入しました。 説明書の通りに接続し、レグザフォンの方の設定も無事完了し、「アドレス取得中」の後 ちゃんと接続中の表示になりました。 ところが、いざネットに接続すると、「ページがみつかりませんでした」の表示で ネット接続が出来ない状態です。 ちなみに、この状態は勤務先のモデムにつないだ時だけです。 自宅のモデムにつなぐと、軽快にWiFiが出来ます。 勤務先のモデムに問題があるのでしょうか? 出来るだけパケット代を浮かせようと、自宅でも勤務先でもWiFiのみの使用にするために 無線親機を2台購入しております。 よろしくお願いします。
- 締切済み
- Wi-Fi・無線LAN
- kikisan1661
- 回答数6
- インターネットに繋げていないはずなのに。
有線でインターネットに繋いでいるパソコンと、繋げていないパソコンがあります。 繋げていないパソコンは中学生の弟に渡しています。(ウォークマンやWordなど使う為) インターネットは繋いであるほうでやっていたのですが… 相応しくないサイトや、勉強の為と嘘をついてパソコンで長時間遊んでいたり、今の弟には困る事だったので、少しロックをかけたりしていました。 この前、繋いでいないパソコンがずっとついてしまっていたので消そうと思ったら、 IEや、ダウンロードしたソフトなどが出てしました。 繋ぎたいから繋ぐ、だけでインターネット繋いでウイルスとか色々わからないのに勝手にそういう事するのはやめてね、と言っていて、わかってると言っていたのにこのような事になっていて困っています。 前はLANケーブルで繋ごうとしていました。 私はパソコンの事に詳しくないので、どうしてこのような事になっているのかわかりません…。 他のパソコンでUSBに入れたものをその繋いでいないパソコンに入れているのでしょうか? 繋いでいるパソコンは有線ですが、他に無線が必要な物があるので無線LANを繋げています。 それを知って、無線で繋いでいるのでしょうか…もうそんな事していないと思っていたので、ショックです。 今まで他にもしてきた事、全部嘘つかれてたのかなとか思ってしまいます(笑) どうしたらインターネット繋げていないパソコン にできるのでしょうか? コソコソとバレなきゃ良いという感じで色々とするんです。困っています。 Craving Explorerもあったのですが、それをUSBから入れたとして、使うにはインターネットに接続していないと使えませんよね? 使えるのかどうかまでパソコンをいじっていないので、わからないのですが…。 ご回答、よろしくお願い致します。
- 締切済み
- Windows XP
- 10n10n_1
- 回答数7
- 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?
哲学として定義してくださいませんか? 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。