JidousyaGaisya の回答履歴

全774件中401~420件表示
  • コマンドプロンプトについて。

    もし構わなければ、 "command.com"と"cmd.exe"との使い分け方を教えて下さい。

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • よくある質問。あなたは神を信じますか?

    あなたは神を信じますか?それとも信じませんか?また、その根拠は何ですか?というヤツです。 私は無宗教論者。だけど神を信じる。 なぜならば、この世にあらゆるものが存在していてそれが決まったルールで動いている。 その定義をした存在は?=>「神」 ということで神を信じざるを得ないと思うのですが、あなたの意見はどうですか?

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 東洋と西洋の学問の違いは何ですか?

    タイトル通りです。 全く無知なので、東洋の学問・西洋の学問がどのようなものなのかもよくわかりません。教えて下さい。

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • OutLookに関しましての質問です。

    自分の側から送った時には読み易い幅で署名が入力されているのに、 折り返しの返信に其の署名もが引用されると、 署名の一回性を証明する為なのか分かりませんが、 「均等割り付け」状態になりますね。 どういう仕組みが、其の「均等割り付け」を叶えているのでしょうか? 宜しければ、解説の提供を御願いします。

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 死後を明るく捉える考え方は?(無宗教)

    死を明るく考えられるようになりたいです。 僕の死後の捉え方は、 天国は無く、 脳が停止して終了 という考え方です。 これだと死が怖いです。 絶望でしかありません。 もっと明るくなれる考え方はありますか? すいませんが、 無宗教の方のみお答えください。

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

  • 突然SCSI接続

    DAEMONTOOlの4.00をインストールしたのですが急にDVDドライブが認識できなくなりました。デバイスマネージャを見てみるとATAPI(IDE)のドライブなのになぜかSCSIになっています。どうすれば元に戻せるでしょうか?OSはXPのProfessionalでマザーボードはNF7-Sです。システムの復元では元に戻せませんでした。

    • fsdfd
    • 回答数3
  • LCD biasについて

    LCDのスペックシートをみると必ずLCD biasとありますが、 1/3とか1/6とかありますがどういう意味なのでしょうか。 dutyはコモンの数というのはわかるのですが、LCD bias がわかりません。ご教授いただければ幸いです。

  • CD-RW読み込めません…

    ずいぶん前に画像をCD-RWに書き込みをし、 ひさしぶりに中を見てみたら全く画像が読み込めません。「JPEGイメージ、サイズ6.5kb」などを出るのですが、ダブルクリックしてもプレビューを利用できませんとなっています。 パソコンにコピーしたら表示できるかなと思いやってみましたが、「送り側のファイルまたはディスクから読み取れません。」と出てしまします。 3枚CD-RWに焼いたのですが、一枚は全部の画像が見れ、二枚目は見れるファイルと見れないファイルふぁあります。三枚目のRWは全く見れません。 過去の質問を調べたら、CD-RWは不安定だと書いてあったのですが、もうファイルは見れないのでしょうか?解決方法はありますか?どなたか教えてください(*ノ-;*)

  • E-MU E6400 Ultra

    今時 外付けのSCSI接続のCD-ROM or DVD-ROMドライブって手に入るでしょうか 当方E6400ULTRAというラックタイプのサンプラーを所有していますが付属音源ディスクの データを本体に流し込む作業が出来ず最初に入れた数枚分の音色のみで使っています また最近のシークエンスソフト等で読み込むが出来るものをご存知の方いらっしゃたら お教え下さい(本体側にはフルピッチ50ピンメスが付いています)

  • 人体表面電界通信システム(フォトニック電界センサー)の現状英訳を知っている方

    先日、NTTから人体通信分野におけるフォトニック電界センサーと人体表面電界通信システムの発表がありました。 そこで質問なんですが、米国でこの二種類の新技術の製品名(市場にはまだ出されていないと思いますが・・・)、もしくは学術的な呼称をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えていただきたく思います。 よろしくお願いします。

  • 反応速度式の展開について教えてください!

    a + b ⇔ c の気体反応では、反応速度式は(1)式になると教科書にあります。  dGc/dx = S/RT × ( k1×Pa×Pb - k2×Pc ) (1)  Gc:気体c のモル流量[mol/min]  V:体積[m3]  R:気体定数  T:温度[T]  x:筒の長さ[m](dxは、筒の微小長さ)  S:筒の断面積[m2]  k1:正反応の反応速度定数  k2:逆反応の反応速度定数  Pa:気体aの分圧  Pb:気体bの分圧  Pc:気体cの分圧 しかし、反応速度式は教科書から、  d[c]/dt = k1[a][b] (2)  -d[c]/dt = k2[c]  (3) となり、(2)式と(3)式から  d[c]/dt = k1[a][b]-k2[c] (4) になります。 また、気体の状態方程式PV=nRTから、n/V =P/RTとなるので、  [a] = Pa/RT  [b] = Pb/RT  [c] = Pc/RT となり、(4)式は(5)式になると思います。  d[c]/dt = k1×Pa×Pb / (RT)^2 - k2×Pc / RT (5) となります。そして、左辺は、  d[c]/dt [mol/m3/min] = dGc/V [mol/min/m3] で、  V[m3] = dx[m]×S[m2] なので、  dGc/(dx×S) になり、最終的には、以下の式に展開されてしまいます。  dGc/dx = S×(k1×Pa×Pb / (RT)^2 - k2×Pc / RT) どうやれば、(1)式に展開できるのでしょうか?無茶苦茶、悩んでいます。 どうか、よろしくお願いします。