sheep67 の回答履歴
- 万物は陰と陽で成り立ってないという考えかた
世の中の万物は全て対極する何かを有している という、陰と陽という考え方があると思います。 私は、本質的には陰も陽という概念は存在しないと考えています。 しかし、人間は何事にも答えを求めようとする生き物であり、 あらゆる事象を解明しようとした結果、対極という概念が生まれたのだと思います。 言わば、その概念を設定しない限り何も考えることが出来ない、「前提条件」なようなものだと思います。 しかし、その「前提条件」をあたかも万物の本質のように扱うがため、世の中にはあらゆる矛盾が生じていると思っています。 ・・・という考え方なのですが、哲学者の中でこのような考えを持っている方はいらっしゃいますか? 出来れば、その方の著書なども教えてください。 非常に抽象的な考えですがよろしくお願いします。
- 存在するってどういうことですか?
猫って存在するの?でもあれ元を立たせば全部素粒子であって、猫は存在しないの?? 曇って存在するの?? 光は? 音は? 変化は? 熱は? 速度は? 重力は? 命は? 自分自身は? なんだかよくわからなくなったんで、悟ってる方お願いします。 あ、悟ってなくてもオッケーです。
- 「絶対的価値は存在しない」の考えの理論について
勝手にこんな理論を考えてみました、少し神学的です。 まず人間が愚かだとするならば、その原因はそんな「愚かな人間」を作ってしまった、もしくはそんな「愚かな人間」が生まれる世界を作ってしまった、神様が愚かだということになります。 同じように、「神様」に「愚かな人間をつくる」という行為をさせ、結果「神様」を愚かにした「神様」の{神様}が愚かだということになります。 このように考えると、どんどん無限に「愚かなのは神様の神様の神様の・・・・・・・・・・・・・・・・神様だ」となり、愚かなのは最も上の神様ということになります。 しかし、無限の考えでは「最後」や「最大」などの考え方がないように、「最も上」という考えもできないので、結果その「最も上の神様」は存在しないことになり、愚かな人間、もしくは神様という存在は一切存在しないということになります。 よって「愚かな存在」は存在しないことになります。 しかし、ここで「愚か」を「素晴らしい」にしても、まったく同じことが起きます。つまり、「素晴らしい存在は存在しない」ということになります。ほかの「〇〇な存在」としても同じです。 結果、(哲学的な)絶対的価値は存在しないことになります。 こんな内容です。またこの後、考察として自分の中では「絶対的な価値観が存在しないのだから、「自分に価値観に自信を持ち、そして他の価値観も認めるべきだ」ということを考えました。
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- noname#155073
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- 「絶対的価値は存在しない」の考えの理論について
勝手にこんな理論を考えてみました、少し神学的です。 まず人間が愚かだとするならば、その原因はそんな「愚かな人間」を作ってしまった、もしくはそんな「愚かな人間」が生まれる世界を作ってしまった、神様が愚かだということになります。 同じように、「神様」に「愚かな人間をつくる」という行為をさせ、結果「神様」を愚かにした「神様」の{神様}が愚かだということになります。 このように考えると、どんどん無限に「愚かなのは神様の神様の神様の・・・・・・・・・・・・・・・・神様だ」となり、愚かなのは最も上の神様ということになります。 しかし、無限の考えでは「最後」や「最大」などの考え方がないように、「最も上」という考えもできないので、結果その「最も上の神様」は存在しないことになり、愚かな人間、もしくは神様という存在は一切存在しないということになります。 よって「愚かな存在」は存在しないことになります。 しかし、ここで「愚か」を「素晴らしい」にしても、まったく同じことが起きます。つまり、「素晴らしい存在は存在しない」ということになります。ほかの「〇〇な存在」としても同じです。 結果、(哲学的な)絶対的価値は存在しないことになります。 こんな内容です。またこの後、考察として自分の中では「絶対的な価値観が存在しないのだから、「自分に価値観に自信を持ち、そして他の価値観も認めるべきだ」ということを考えました。
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- noname#155073
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- 多世界解釈の「なぜこの自分か」の補足
画像添付がうまくいかずに、動画として添付しました。 まず、赤の棒と青い棒はそれぞれ「猫が死んでいる方の世界」、「猫が生きている方の世界」です。 この絵を見れば分かるのですが、私の考えでは「私の視点」は時間を移動してます。つまり、たとえば生きている猫を見ている私の視点から考えれば、そのとき同じ瞬間の「死んでいる猫を見ている私」の視点は過去の「私の視点」なのです。つまり、今回は2つの世界に限定しているので、「私の視点」という存在はこの場合普通の時間経過の2倍の時間を過ごしています。 あと詳しいことは知らないのですがこの世界同士の滞在時間や移動時間を無限小にすれば、相対性理論でなにか理論を導けるのではないか?とも考えています。 とはいえまだまだ文の理解に苦労しているのですがね。
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- noname#155073
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- 「信じる心」についての質問です。
人が何かを信じたくなるのは訝しい対象の排除を望んでいるからなのでしょうか? 言語認識が存在していなければ、概念規定を致せないのでしょうから、 【無心】の状態ではわざわざ何かを信じる必要が無いのではないでしょうか? 「ルサンチマン」の事を考ええている時にふと気になったものですから、教えて下さい。
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- littlekids
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- 親の愛情不足という洗脳について
親の愛情不足で適応能力が育たないというのは一種の洗脳ですよね。 心理学を信奉する連中が「親の愛情」を過大評価する現象に疑問を感じています。 親の愛情の定義をまず考えるべきでしょう。 その定義は哲学的・文学的・教育的なものであるべきで、心理学が簡単に規定できるようなものではないと思うのです。ここで議論を尽くさずに、「親の愛情不足」の状態が云々と導き出せるのは自分自身納得できません。青少年が、カウンセラーや臨床心理士に愚弄されているように思えてならないのです。 漠然とそう考えるようになったのは、宗教・哲学のアプローチが他の学問と全く異なることを知ってからです。社会的通念や文化的背景も一種の思い込みで、我々は刷り込み概念をまず疑ってみることが必要だと思うのです。プラトンは「国家」において、自分の子供ではなく他人の子供を育てるというシステムを理想の国家として提唱していました。仏教は子育ては執着であり我欲であると説きます。 親の愛情どころか、すべて欲となってしますのですから驚きです。 哲学者が心理主義を批判している現象も、この発想を後押ししました。(河野哲也等) 心というもの自体、学問分野によって認識の仕方が随分異なります。 【質問】 臨床心理学ってネガティブな刷り込みだと思うのですが、一種の洗脳ではないでしょうか。 だた青少年が自分に都合の良いように利用して、親の愛情不足で親子喧嘩に陥って自信喪失し、最終的には心理学者から搾取されてしまうと感じるのですが、どう思われますか?
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- noname#141408
- 回答数8
- 多世界解釈の「なぜこの自分か?」という問題の解釈
シュレーディンガーの猫の思考実験で、生きている猫を見ている自分と死んでいる猫を見ている自分が存在し、どうして、「今、自分は死んでいる(生きている)猫を見ている視点にいるのだろうか?」 という問題が発生しましたが、ここで、 「二つの自分に交互に入れ替わっている」としたらどうでしょうか? 死んでいる猫を見ている自分の視点は、次の瞬間生きている猫を見ている自分の視点に切り替わる。当然この時お互いの視点同士では記憶や感覚は互換性がないです。 こう解釈は、どうでしょうか?
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- noname#155073
- 回答数3
- 「心」は存在しますか?
「存在」自体が、もともと「無いことが解らないこと」であるなら、 「心」とは何でしょう? 認識体? 自我仮説? 上記にこだわらず、 自由なご意見おまちします。
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- 哲学・倫理・宗教学
- ふじ-さん おたま-さん
- 回答数9
- 「中庸」と「止揚」との意味的な違いは?
よく「中庸」の意味を誤解なさって、 「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、 最近の日本で頻繁に見受けられますが、 正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。 若し支障が御座いませんでしたら、 其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?
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- SakuraiTomoka
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- 「中庸」と「止揚」との意味的な違いは?
よく「中庸」の意味を誤解なさって、 「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、 最近の日本で頻繁に見受けられますが、 正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。 若し支障が御座いませんでしたら、 其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?
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- SakuraiTomoka
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- 「中庸」と「止揚」との意味的な違いは?
よく「中庸」の意味を誤解なさって、 「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、 最近の日本で頻繁に見受けられますが、 正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。 若し支障が御座いませんでしたら、 其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?
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- 「中庸」と「止揚」との意味的な違いは?
よく「中庸」の意味を誤解なさって、 「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、 最近の日本で頻繁に見受けられますが、 正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。 若し支障が御座いませんでしたら、 其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?
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- 「中庸」と「止揚」との意味的な違いは?
よく「中庸」の意味を誤解なさって、 「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、 最近の日本で頻繁に見受けられますが、 正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。 若し支障が御座いませんでしたら、 其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?
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- SakuraiTomoka
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- 生きることに意味や価値はないのでは?
僕らは(?)は、生きることや命に意味や価値があると考えてはいないだろうか? 「一つの命は地球より重い」と言う言葉があるが、中東の戦争で数多くの命が失われたりしているけれど、それは、地球に、僕らの生活に何らかの変化を与えただろうか? 石油の値段が上がったりするけれど、それは、命が失われた事と直接の関係ない。 僕らは生き、食するため、多くの動物の命を奪うけれどだからと言って、僕たちが何かを「大きく」損ねているだろうか? 物心ついてから、生きることや、生命に意味や価値を考えてきたかも知れないけれど、 物心つかない子供の頃は、そんなことを考えないでも、充分に生きていてた。 生きることの意味や価値を考えないでも、快活に生きていた。 宗教には、偶像崇拝を禁じる考えがある。 神に形を与えるのを誤った態度だとする考えがある。 何らかの像をつくり、そこに心のやり場を求めるのは、人間が未熟で容易に安心を求めようとするからではないか? 真摯に、不安を受け入れるなら、偶像は不要ではないか? 真摯に、不安向き合うなら、生きることの無価値の中でも子供のように快活に生きられるのではないか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#136007
- 回答数30
- 生きることに意味や価値はないのでは?
僕らは(?)は、生きることや命に意味や価値があると考えてはいないだろうか? 「一つの命は地球より重い」と言う言葉があるが、中東の戦争で数多くの命が失われたりしているけれど、それは、地球に、僕らの生活に何らかの変化を与えただろうか? 石油の値段が上がったりするけれど、それは、命が失われた事と直接の関係ない。 僕らは生き、食するため、多くの動物の命を奪うけれどだからと言って、僕たちが何かを「大きく」損ねているだろうか? 物心ついてから、生きることや、生命に意味や価値を考えてきたかも知れないけれど、 物心つかない子供の頃は、そんなことを考えないでも、充分に生きていてた。 生きることの意味や価値を考えないでも、快活に生きていた。 宗教には、偶像崇拝を禁じる考えがある。 神に形を与えるのを誤った態度だとする考えがある。 何らかの像をつくり、そこに心のやり場を求めるのは、人間が未熟で容易に安心を求めようとするからではないか? 真摯に、不安を受け入れるなら、偶像は不要ではないか? 真摯に、不安向き合うなら、生きることの無価値の中でも子供のように快活に生きられるのではないか?
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- noname#136007
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- 「中庸」と「止揚」との意味的な違いは?
よく「中庸」の意味を誤解なさって、 「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、 最近の日本で頻繁に見受けられますが、 正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。 若し支障が御座いませんでしたら、 其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?
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- SakuraiTomoka
- 回答数40
- 意識はあるが記憶がない状態と無意識は区別できるか
意識はあるがその場で認知した出来事を記憶することができなければ、後日その経験を思い出すことはできません。その状態は意識がない状態いわゆる無意識と区別ができるでしょうか。 もしできないとするなら、無意識とは記憶がない意識状態ともいえます。 例えば、生まれる前にあの世で生活していたとしても、あの世の経験は現世の脳にはインプットされていませんので記憶がないのは当然ですが、それはもしかすると記憶のない意識状態だったかもしれないとは言えないでしょうか。 だとすると出産(受精でもいいですが)と意識の発生のタイミングは必ずしもイコールとは言えないのではないでしょうか。 あくまで主観的にみた場合です。
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- shift-2007
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