sheep67 の回答履歴
- 脳は物質だから意識は必然に過ぎない
脳は物質だから意識は必然に過ぎない 人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。 しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。 ・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。 人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から 分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。 勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。 分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。 「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は 全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。 『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。 「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により 決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。 量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。 以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る 『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。 これは正しいですか? 特に >「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により >決定されております。 という部分が焦点だと思います。 この論理だと、思考だけでなく、すべての事象が必然であると言えます。
- 脳は物質だから意識は必然に過ぎない
脳は物質だから意識は必然に過ぎない 人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。 しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。 ・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。 人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から 分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。 勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。 分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。 「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は 全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。 『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。 「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により 決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。 量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。 以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る 『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。 これは正しいですか? 特に >「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により >決定されております。 という部分が焦点だと思います。 この論理だと、思考だけでなく、すべての事象が必然であると言えます。
- 脳は物質だから意識は必然に過ぎない
脳は物質だから意識は必然に過ぎない 人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。 しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。 ・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。 人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から 分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。 勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。 分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。 「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は 全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。 『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。 「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により 決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。 量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。 以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る 『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。 これは正しいですか? 特に >「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により >決定されております。 という部分が焦点だと思います。 この論理だと、思考だけでなく、すべての事象が必然であると言えます。
- 脳は物質だから意識は必然に過ぎない
脳は物質だから意識は必然に過ぎない 人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。 しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。 ・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。 人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から 分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。 勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。 分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。 「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は 全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。 『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。 「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により 決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。 量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。 以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る 『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。 これは正しいですか? 特に >「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により >決定されております。 という部分が焦点だと思います。 この論理だと、思考だけでなく、すべての事象が必然であると言えます。
- どっちが本当のルソーか(どっちも?)
ルソーのエミールを読んでいます。 告白、という本も合わせて読むといいと、聞きました。 ところで、この2冊は全然、内容が違うようですが 比較してしまうと、エミールの内容は、なんだか 嘘つきのような感じさえします。 告白、の本のほうは、実際にあった自叙伝のようですし。 エミールのほうは、教育の立場から 告白は懺悔として読んでいいのでしょうか。 あらすじで読むと 著者が別人のような気がしています。 ご教授ください。 素人ですみません。 あと他に、哲学書をおすすめしてください。
- どうして 自意識ひとつに対して肉体は ひとつしか割り当てられないのです
どうして 自意識ひとつに対して肉体は ひとつしか割り当てられないのですか 肉体が一つにくっついたシャム双生児とかはあるでしょうが 一つの大脳が 複数の肉体を統括するような 生命体は今のところないのでしょうか 統合失調症で ひとつの肉体に 複数の精神が宿っているような状態もあるようですね 中枢神経系と自律神経系 はたまた 精神物理学や神経工学や生命科学とのからみも含めて 幅広い観点からのご意見ご感想ご回答をお願いします 実名主義:nannetta
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- これはせいですかねこ これはなですかねこ
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- どうして 自意識ひとつに対して肉体は ひとつしか割り当てられないのです
どうして 自意識ひとつに対して肉体は ひとつしか割り当てられないのですか 肉体が一つにくっついたシャム双生児とかはあるでしょうが 一つの大脳が 複数の肉体を統括するような 生命体は今のところないのでしょうか 統合失調症で ひとつの肉体に 複数の精神が宿っているような状態もあるようですね 中枢神経系と自律神経系 はたまた 精神物理学や神経工学や生命科学とのからみも含めて 幅広い観点からのご意見ご感想ご回答をお願いします 実名主義:nannetta
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- 無理解は無理解のままに。(11ぴきのねこ)
子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。 そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。 毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。 11ぴきのねことへんなねこ 11ぴきのねことあほうどり 馬場のぼる ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。 私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。 あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。 「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、 「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。 勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。 でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。 両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。 両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。 あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。 子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。 子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。 例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。 「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。 そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。 (ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??) そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。 この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。 11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。 よろしくお願いします。
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- noname#122427
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- 無理解は無理解のままに。(11ぴきのねこ)
子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。 そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。 毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。 11ぴきのねことへんなねこ 11ぴきのねことあほうどり 馬場のぼる ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。 私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。 あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。 「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、 「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。 勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。 でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。 両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。 両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。 あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。 子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。 子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。 例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。 「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。 そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。 (ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??) そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。 この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。 11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。 よろしくお願いします。
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- noname#122427
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- 無理解は無理解のままに。(11ぴきのねこ)
子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。 そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。 毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。 11ぴきのねことへんなねこ 11ぴきのねことあほうどり 馬場のぼる ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。 私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。 あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。 「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、 「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。 勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。 でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。 両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。 両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。 あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。 子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。 子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。 例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。 「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。 そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。 (ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??) そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。 この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。 11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。 よろしくお願いします。
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- noname#122427
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- ゲーデルの不完全性定理が成立している以上、人口知能が自らの存在に対して
ゲーデルの不完全性定理が成立している以上、人口知能が自らの存在に対しての答えを自ら導き出すことができないのではないかと考えています。 帰納法では自らの存在とは何かに対しての答えを見つけることができないという解釈からくる考えです。 本当にそうでしょうか?
- 常識の数だけ正義がある?
誰もが自己の行動を「正義」と主張する。故に「正義」とは相対的なものであって、絶対的な「正義」などあり得ない。更には「正義とは、けがれた布切れ」(イザヤ)という考え。「君の主張する正義は、君にとっての正義に過ぎない」という言い方。 次に、色々客観的と思われる例証を挙げて「だから、こうだ」と言うと「それは君の主観でしょ?」と一蹴される。主観には違いないのだけれど、主観だから取るに足らないと言ってるのと同じで、こういう言い方、何かおかしいと思いませんか? 次に、ジャーナリストのウォルフレン氏が書いていたのですが、彼は全人間共通の尺度をもって論じているのに「彼の考えは西洋中心主義だ」で片付けられる。これは日本人同士でもよくやりますね。奴はアカだ、右翼だ、左翼だ。 上記3つの論法で共通するのは、そう断ずることによって議論がそこで止まってしまうことです。そして、そう一言、言った相手が高みに立って議論に勝ってしまうことです。ウォルフレン氏は議論をそこで止めてしまわないで、議論を続けるべきだと書いてます。 上記3つの論法に対し貴方の意見を聞かせて下さい。
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- 0123gokudo
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- 無理解は無理解のままに。(11ぴきのねこ)
子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。 そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。 毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。 11ぴきのねことへんなねこ 11ぴきのねことあほうどり 馬場のぼる ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。 私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。 あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。 「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、 「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。 勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。 でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。 両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。 両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。 あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。 子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。 子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。 例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。 「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。 そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。 (ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??) そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。 この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。 11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。 よろしくお願いします。
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- noname#122427
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- 無理解は無理解のままに。(11ぴきのねこ)
子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。 そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。 毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。 11ぴきのねことへんなねこ 11ぴきのねことあほうどり 馬場のぼる ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。 私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。 あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。 「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、 「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。 勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。 でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。 両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。 両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。 あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。 子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。 子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。 例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。 「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。 そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。 (ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??) そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。 この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。 11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。 よろしくお願いします。
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- noname#122427
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- 無理解は無理解のままに。(11ぴきのねこ)
子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。 そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。 毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。 11ぴきのねことへんなねこ 11ぴきのねことあほうどり 馬場のぼる ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。 私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。 あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。 「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、 「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。 勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。 でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。 両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。 両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。 あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。 子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。 子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。 例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。 「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。 そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。 (ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??) そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。 この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。 11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。 よろしくお願いします。
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