sheep67 の回答履歴
- 人の難しさ、神の難しさ
人の難しさ、神の難しさ <神について勘違>ということばが標目にあるご質問もあり、そこに投稿したかったのですがまた私には別世界の懸隔の中に迷いそうなので、躊躇しました。 1. 最初にお断りしておきますが、上記の質問文自体は私の理解とは違う意味で使われていますが、<神について勘違>ということば表現に私は、独断的な独りよがりの感じを受けました。 このような取り方はやはり私の狭隘さや自己の認識の独尊的感情があるからでしょうか? 2. 人の内臓や生きてきた経験は、本当は同じ人間同士だろうけど、なかなか尊重しあえません。 昔から、<あが仏>という語があります。 自分の信仰や宗教ってどうしても最高と思いがちです。 そうではあっても、自分以外の方々の信仰や宗教も、多分自分がその人の内臓と生きる歴史になれば、すごい最高だと思うんです。 だから、自分の大事な信仰などを持ちながらも、人のこと、そして人の信仰の尊重は大事なんでしょう。 人の信仰を大事にする仕方を少しでも教えてください。 私は仏教やヒンドゥそして論語(日本的)をとても優れたものとおもっています。 だからそれ以外や自分の信仰の仕方以外の事の大事さが理解しにくいのです。 そういう私になにか助言をしてください。 3. 最後に、宗教戦争的なことを人類が克服していくにはどうしたらいいでしょう
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- 哲学・倫理・宗教学
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖
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- どうやれば「うつ病」が治るか?
どうやれば「うつ病」が治るか? 私はうつ病患者です。 私は、生きるのが怖い。手が震えるほど。なぜかわからんが、やっと自認できた。 生きる意欲が、相互扶助な「環境」に生まれれば、うつ病にならなかったのでは? 「環境によらず、自身の心のありよう」で、快復する。と思うが。。。 これが、滅茶苦茶に難しい。だから薬に頼る。もはや堂々と。 私ほど、あの薬を飲んでる人間はおそらくいないだろう(小自慢)。 「お助け組」を旗揚げしたい。他人を助けていると心が和む。 幸せを感じる。これはまぎれも無い事実だ。あなたはどうですか? 痴者の妄言と思われても構わない。
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- ふじ-さん おたま-さん
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- 同じ音楽が体調により「速いとき遅いとき」があるのはなぜ?
同じ音楽が体調により「速いとき遅いとき」があるのはなぜ? 皆さんは、同じ楽曲が速く聞こえたり遅く聞こえたりすることはありませんか? これってどうしてなんでしょうか? 私の推測では、脳内のクリック=テンポが一定ではないため、 相対的に、聞こえる音楽の速度も変わる、ていうことかな? 誰か知っていたら教えてください。 また自由な、ご意見も歓迎です。
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- ふじ-さん おたま-さん
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- なぜ人間は宗教をつくりだすのか?
なぜ人間は宗教をつくりだすのか? 猿などの動物は宗教をつくりませんが、人間は宗教をつくりだします。これは人間が猿などの動物よりも優れているからではありませんか?
- 精神に個別性はあるか
精神に個別性はあるか 昨日の自分と今日の自分が同一人物である証拠は何かと聞かれれば、どんな回答であれ自分の記憶をもとにアイデンティティを証明するしかないと思われます。 逆に、記憶がなければアイデンティティーの証明は無理であるという事になりますが、すると記憶を参照している本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ないのではないでしょうか。 もっと言えば精神に「私」という個別性はないといえないでしょうか。
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- shift-2007
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- 精神に個別性はあるか
精神に個別性はあるか 昨日の自分と今日の自分が同一人物である証拠は何かと聞かれれば、どんな回答であれ自分の記憶をもとにアイデンティティを証明するしかないと思われます。 逆に、記憶がなければアイデンティティーの証明は無理であるという事になりますが、すると記憶を参照している本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ないのではないでしょうか。 もっと言えば精神に「私」という個別性はないといえないでしょうか。
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- shift-2007
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- 精神に個別性はあるか
精神に個別性はあるか 昨日の自分と今日の自分が同一人物である証拠は何かと聞かれれば、どんな回答であれ自分の記憶をもとにアイデンティティを証明するしかないと思われます。 逆に、記憶がなければアイデンティティーの証明は無理であるという事になりますが、すると記憶を参照している本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ないのではないでしょうか。 もっと言えば精神に「私」という個別性はないといえないでしょうか。
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- shift-2007
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- 人間は信用するに足りる存在か
人間は信用するに足りる存在か 人間の存在に対する性悪説と性善説についてお考えをご教示ください。 私は人を信頼していませんが、信頼したいと希望します。 私が人を信頼できない理由は、私が人から虐待を受けた過去を持つからですが、しかし、逆に私が人を信頼したい理由も、他の人によって心理的な後遺症を持つ私が、等しく助けられたからです。 時間を追って、徐々に人への不信は人への信頼へと変化している日々です。 しかしながら先日、好奇心でグロ動画を観てしまいました。自業自得なのですが、すでに観てしまい、今更何をしても後の祭りです。 それは、殺人動画でした。単に包丁で一刺しなどという簡単なものでもなく、戦争物の多くの死体が載っているものでもなかった。サイコパスの類で、殺しというより拷問に近かった。猟奇的な内容で、加害者らは楽しげにジワジワと人を殺していた。作り物ではなく、本当の映像でした。 私はそれを最後まで観ずに画面を消したが、トラウマとなった。後悔先立たずで、反省もしている。 もうそういうジャンルのものを観ることは二度とないだろうが、人間が怖くなった。 動画内の被害者の状態は凄惨で気の毒に感じたが、例えるなら自分が医者になったような気持ちで観察して観ていたから、まだかなり冷静に観れた。 怖いのは、加害者らの存在だ。 犯罪者だという顔もせずに、この世のどこかにそのような人間が存在するという事実です。そして、今後もそのような人間は生まれるのです。 もし、偶然にも、そのような人に私が出会ってしまったらと思うと、とても怖いです。 私をかつて虐待した人間も、猟奇的な部類の者だった。 この世には理屈では理解し難い人間が確かに存在する。 私を虐待の後遺症から救い出したその人に、私はその動画をすぐに見せた。私の内部で何が起きたかを知らせたかったからだ。 その人は観終わってすぐに、私にメールを何度もくれた。繰り返し繰り返し私に言い聞かせた。「人間は信用に足る存在だよ」「大抵の人間は良い人なんだよ」「怖い人ばかりじゃないよ」。 その人はその動画を観てもトラウマにはならなかった。その動画を「バカバカしい」と言い、加害者らを「人間じゃない。怪物だ」と言い捨てた。 その人に「なぜあなたはトラウマにならないの?」と聞くと、「自分にはこの事件とは関係ない」と何度も心の中で思い続けたからだという。 人間を信用して本当によいのでしょうか。サイコパスがいるこの世の中を、どう受け止めればいよいのでしょうか。人を信じたいけれど、一部の非道なヤツラのいるこの世界が怖いです。 どうかご教示いただきたく宜しくお願いいたします。
- 神社は畏敬、教会は神聖な気持ちや感じになるのはなぜ?
神社は畏敬、教会は神聖な気持ちや感じになるのはなぜ? 世界には様々な宗教があり、日本でもいろいろな宗教があります。 今回質問させていただきたいのは、その場にいるときの気持ちや感じ方です。 伊勢神宮や明治神宮は、普段は一般人が立ち入れない場所がありますよね。 そこに、カメラが特別な許可を得て立ち入ったとき、テレビ越しでも近づき難い「畏敬の念」を禁じ得ません。 ですが、大聖堂や教会などは立ち入り禁止区域でなくても、テレビ越しでも「神聖」な空気が分かります。その中にも「受容・優しさ」があるような気がするのです。 教会で賛美歌が流れる場面があれば、何もかも煩わしいものがなくなり、幸せな気分、神聖な感じがしてきます。 そして、邪念や煩悩ばかりの自分が小さく感じられます。 日本の神道は「畏敬」だったり、「畏れ多い」という感じが漂うのです。 キリスト教は「すべての人を優しく包み込む」という感じがします。 私は無宗教です。 だのに、神社や教会でこういうふうに感じるのはなぜなのでしょう。
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- noname#134992
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- 聖書って経典としてどうなんでしょうか?
聖書って経典としてどうなんでしょうか? 私は宗教に関しては無関心というか、知的好奇心の対象ではあっても信仰の対象ではない、そういう人間です。 学生時代、仏教系学校に通っていたので、仏教の考えや般若心経の和訳などを学びました。その内容は非常にロジカルで、無宗教の自分もなるほど、と思う内容でした。人間の認識機能や思考法など、現代の脳科学にもつながってくるのではないか、と思ったほどでした。 般若心経など、まるで学術書のようです。 ただ、そんなに優れた思考法を伝える仏教が変な儀式(オカルティックな思想とかひたすらお教をつぶやくとか、煌びやかなご本尊を崇めるとか死者の何回忌をやってお金を取るとか)ばかりなのは理不尽に思いましたが、まあこれは釈尊の教えではなく、現世組織としての仏教が存続するための営利行為として必要悪であると認識しています。 そこでほかの宗教の経典(に当たる書物)もそういう優れた思想で出来ているのだろうと思い、世界的な宗教であるキリスト教の聖書を読んでみました。 しかしながら、聖書は小説としては非常に面白い読み物であるとは思いましたが、教えと言いますか、ロジカルさが欠片も感じられませんでした。 ただのファンタジー小説、あるいは神話をより歴史的な形式にした読み物、といった感じです。 しかも神は全知全能と銘打ってる割にいきなりサタンにアダムとイブを騙されたりとか、増えすぎた人類を自分で手綱を取れず、大洪水で滅ぼしてしまうとか、全知全能ならサタンを改心させるとか、人類を調節するとか片手間でできるだろ、というか、悪魔にそそのかされて信者を散々苦しめるとか、客観的に見て、単なるわがままな権力者の寓意にしか思えないわけで、なんでこれが世界的に信仰されてるのかさっぱり理解できません。 確かに読み物としてはそこそこ面白い。それに良くも悪くも、寓話的な話も多いので、内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、そこからなんらかの知恵というか思考法を読み取るものなのかもしれません。 しかし、そういうのってただのイソップとかそういう寓話と同レベルな気もしますし。 般若心経のほうが経典としてはずっと理路整然としてて分かりやすくてシンプルに思うのですが…… なんというか、般若心経は学術書、聖書は俗っぽい小説、という感じで、これが宗教における経典として同じものなのか、と驚きました。 でも聖書を読んで感動した、という人も実際にいるようですし。 こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? というか、こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? 僕の理解力が悪いのかそういうふうにしか感じられないわけですが、キリスト教に詳しい方、解説をお願いできないでしょうか?
- 精神は性質で出来ていると思うのですが
精神は性質で出来ていると思うのですが 皆さんはどうお考えですか 精神 或いは実存と言うものはどの様な存在なのでしょうか? 脳内の活動による性質の反応が精神として主体化したのでは と考えるのですが・・・
- 精神は性質で出来ていると思うのですが
精神は性質で出来ていると思うのですが 皆さんはどうお考えですか 精神 或いは実存と言うものはどの様な存在なのでしょうか? 脳内の活動による性質の反応が精神として主体化したのでは と考えるのですが・・・
- 「エゴ」って何?
「エゴ」って何? たとえば善意が動機、結果も相手が喜んでいる、という明らかに幸福な図が許せない人たちがいます。 古い言い方ですが「ちゃちゃを入れてくる」という感じで「それは人間のエゴだ」と第三者が主張する現象があります(特にネットの世界ではそれが顕著です)。 例をあげますと、お年寄りの介護施設などに訪問し歌や演奏をする。お年よりは孫の姿や昔懐かしい歌などを思い出し、1日とてもよい気持ちになった。ボランティアという形式をとることもありますしそんなそれ以前の小さな善意からでも「エゴ」「自己満足」「自慰行為」などと言う人の出現です。 「エゴ」の定義、またこの程度のことに「エゴだ」といって批判する人の心理や理屈、また遭遇した場合の理論武装など知りたいと思います。
- カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸び
カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸びたり縮んだりする絶対的なものではないものだという概念にとって代わり、 ア・プリオリな判断形式が成り立たないのが現実世界であるわけだから、「純粋理性批判」は現代ではナンセンスだ… ということが立花隆氏の近著に書かれていたのですが、哲学の学問の世界でもそういう認識はあるのでしょうか? また、「いかなる経験もいかなる感覚も混入されない認識」をもって純粋な認識といい、そのような認識を得させる理性を純粋理性という…というところからカントの「純粋理性批判」は始まっているそうですが、立花氏はそれについても、現代の認知科学によると、人間の認識というものは、すべてが経験・感覚入力の基盤の上に成立するものであって、もし、感覚入力をすべて取り去ったら、認識能力そのものが崩壊してしまうということをたくさんの感覚遮断実験が証明している…と述べ、さも高級な意識のような、純粋理性などというものは存在しない、と論じていました。 この文章には、さすが圧倒的な勉強量を誇る氏ならではの議論だな~と、単純にスゴイスゴイと思って、確かに氏の言うことは筋が通っているんじゃないか、と、私自身は大した素養もないまま思ってしまうのですが、実際学問の世界の人から見たらこういう議論は妥当性があるのでしょうか?哲学の研究者には嫌われそうな議論だよな~と、何かと批判されることもあった立花氏が心配になったりもするのですが。(私に心配されても余計なお世話だと思いますが。) 哲学の歴史ではカントの存在は圧倒的に大きい気がするので、私もいつか時間ができたらカントの本を読んでみようとは思っているのですが、現代ではナンセンスだ、と言われると、ちょっとさみしいような気がします。 現在の世の中について何か論じたいと思ったら、思考のベースとしてクラシックな哲学をひも解くより、現代の思想家の本を読んだほうが良いのでしょうか?どちらにしても、現在の思想のルーツを確認するために、過去の思想も知る必要はある気もするのですが… ヘーゲルについても、アマゾンのレビューでもっともらしく批判されている方がいたので、思想史の貴重な資料としてはともかく、近代あたりまでの哲学は現代の思想、社会分析には直接は役に立ちにくいのかな…という不安もあります。どうなんでしょうか?
- カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸び
カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸びたり縮んだりする絶対的なものではないものだという概念にとって代わり、 ア・プリオリな判断形式が成り立たないのが現実世界であるわけだから、「純粋理性批判」は現代ではナンセンスだ… ということが立花隆氏の近著に書かれていたのですが、哲学の学問の世界でもそういう認識はあるのでしょうか? また、「いかなる経験もいかなる感覚も混入されない認識」をもって純粋な認識といい、そのような認識を得させる理性を純粋理性という…というところからカントの「純粋理性批判」は始まっているそうですが、立花氏はそれについても、現代の認知科学によると、人間の認識というものは、すべてが経験・感覚入力の基盤の上に成立するものであって、もし、感覚入力をすべて取り去ったら、認識能力そのものが崩壊してしまうということをたくさんの感覚遮断実験が証明している…と述べ、さも高級な意識のような、純粋理性などというものは存在しない、と論じていました。 この文章には、さすが圧倒的な勉強量を誇る氏ならではの議論だな~と、単純にスゴイスゴイと思って、確かに氏の言うことは筋が通っているんじゃないか、と、私自身は大した素養もないまま思ってしまうのですが、実際学問の世界の人から見たらこういう議論は妥当性があるのでしょうか?哲学の研究者には嫌われそうな議論だよな~と、何かと批判されることもあった立花氏が心配になったりもするのですが。(私に心配されても余計なお世話だと思いますが。) 哲学の歴史ではカントの存在は圧倒的に大きい気がするので、私もいつか時間ができたらカントの本を読んでみようとは思っているのですが、現代ではナンセンスだ、と言われると、ちょっとさみしいような気がします。 現在の世の中について何か論じたいと思ったら、思考のベースとしてクラシックな哲学をひも解くより、現代の思想家の本を読んだほうが良いのでしょうか?どちらにしても、現在の思想のルーツを確認するために、過去の思想も知る必要はある気もするのですが… ヘーゲルについても、アマゾンのレビューでもっともらしく批判されている方がいたので、思想史の貴重な資料としてはともかく、近代あたりまでの哲学は現代の思想、社会分析には直接は役に立ちにくいのかな…という不安もあります。どうなんでしょうか?
- なぜ彼は死ななければならなかったのか
なぜ彼は死ななければならなかったのか この問いかけをする者に対する適切な回答はなんでしょうか。 どのような回答であれば彼らは納得するでしょう。
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- 哲学・倫理・宗教学
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