Nucleus_ の回答履歴
- キリスト教とその信者に反感を持つ理由
哲学のカテゴリーで、キリスト教について質問があったときに、必ず、少なからず反感を持った回答が寄せられます。 それは一体なぜなのでしょう。 ご先祖様がフランスの新教徒で、激しい弾劾を受け、アメリカに移民してきたという、私のバイブルスタディの先生は、ただ一言、”それは嫉妬のせいである”と切って捨てます。私は、さすがに、”それは違うだろう"と、感じるのですが、残念ながら、反論ができません。 彼と対等に話してゆくために、皆様からヒントをいただきたいと思います。 ご自分の意見でも、一般論でもよろしいです。 宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#202494
- 回答数21
- キリスト教とその信者に反感を持つ理由
哲学のカテゴリーで、キリスト教について質問があったときに、必ず、少なからず反感を持った回答が寄せられます。 それは一体なぜなのでしょう。 ご先祖様がフランスの新教徒で、激しい弾劾を受け、アメリカに移民してきたという、私のバイブルスタディの先生は、ただ一言、”それは嫉妬のせいである”と切って捨てます。私は、さすがに、”それは違うだろう"と、感じるのですが、残念ながら、反論ができません。 彼と対等に話してゆくために、皆様からヒントをいただきたいと思います。 ご自分の意見でも、一般論でもよろしいです。 宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。
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- noname#202494
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- 美の乞食に問う:醜さとは何か?
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#145704
- 回答数47
- 美の乞食に問う:醜さとは何か?
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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- 美の乞食に問う:醜さとは何か?
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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- noname#145704
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- ほにゃらか形而左右学 テレビ
先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。 まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。 少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。 さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。 質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。
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- fishbowl66
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- 人を更生させるため どうすればよいのでしょうか?
かつて 素晴らしい人間として 活躍していた方がいらっしゃいます。 いま しかし 他人に文句を言いすぎて自我の とりこ と なり、 独りぼっちになって苦しんでいます。 更生させるためには、 どうすればよいのでしょうか? まわりに わがままなかたがいて うるさくて困っています! どうすればいいのでしょうか? 以下に示すような かたです・・・ 直撃インタビュー! 異人> 人生の目標は一つである。2つではない! 目標は俺が決める! 頭がよさそうにふるまっているが、お前らは、勘違いしている! インタビュアー> あのう 目標についてですが・・・ 大事なことは達成されることであって、 結果的に 目標はいくつあってもよいのではないでしょうか? 異人> いや違う!よく考えてみろ。 考えるということは最後は一つだ。 みんなひとつである! インタビュアー> それはあくまで主張ということで、 どこまで行っても主張にとどまるのではないでしょうか? 異人> 主張は 俺の生きる目的である!主張しかない!どぢゃ! インタビュアー> 次の質問に移ります。 あなたの目標は達成されたのですか? 異人> これから決める! まだ時が来ていない! 今決めると 理屈が こねられなくなるからきめない! おまえらは 俺様に永遠に勝つことができない! インタビュアー> では さらに 具体的な質問をいたします。 あなたの関係した家族・親族・友人の方でで幸せになっている方はおられますか? 異人> うるさい!質問を変えろ!うっとうしい!じゃまだ! インタビュアー> では 質問を代えさせていただきます! 今現在 あなたは幸せですか? 老人> 幸せになる予定である! これからなる! 時が来ていない! 案ずるより産むがやすしだ! 聞いたことがないのか? 明日なれば 俺の勝ちだ!なる!もう少し かかるかもしれない! インタビュアー> お友達はいらっしゃいますか? 老人> 17人いる! いや ネットでは なくて 実際の リアルの友達 についての質問です。 老人> うるさい! 俺の計画は年金だ! 心は目標ではない! おまえら 未熟者どもに 迷惑はかかっていない! インタビュアー> あのう 年金制度は、直接払い込まれた同時期の保険納入で 賄われていますので、あるいみ 社会的に わか者たちから支えられている ことになると考えられるのですが? 老人> おれも 若いころかねを払っていた! インタビュアー> 給与と比較するとごく微量の年金掛け金でしたし、 当時は 60歳以上の年金受給者自体が少なかったのですが? 老人> うるさいな 屁理屈を言うな! 黙って払っていろ! いつまででも というわけではない! おまえははらう!俺はもらうが道理である!わかったか! ちなみに おれ様の愛は すごいいい映画の愛である! 見て勉強しろ! 見ないのなら山に行って来い! ばかか! インタビュアー> ご回答ありがとうございました。 俺もお前もお金持ちだ! おまえが はらえ! 愛は支えあうということだ あいらしい おれを ささえろ! あいは いつくしみあう ということだ! まず はじめに おまえが 俺を慈しめ! ばかあほども! きいてるのか! 日本人は死んだのか! というような 老人です・・・ このような老人を更生させるためには、 どうすればよいのでしょうか? ちなみに このかたは 自分の抱く「嫉妬」を 普遍的な愛であると勘違いしています。
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- noname#144675
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- 始まりの前の混沌
聖書の中に『光有れ』という命令文が盛り込まれていますので、其の表現の意味を鑑みました際に、次の通りの疑問が浮かんで参りましたから、教えて下さい。 光が誕生する前には、闇の存在が認識され得たのでしょうか?
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- BuffaloAndJtp
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- この世の中に 希望は なくなってしまった の?
eating a cup of soup この世の中に精神的希望は なくなってしまった のでしょうか? 最近 外国語大学を出たというじいさんと 優しい心を持った御嬢さんの会話を 耳に挟みました。 --------------------------------------------------------------------- 御嬢さんA he eats soup という 文があって 近所の子供が 『なんで 「彼はスープを 飲む」 と訳すの?』 と聞いてきました。 どう答えればいいでしょう。 おじいさんB わしの経験からすればそんなのは簡単だ。 スープは水の代わりだ。 水を食べるとは言わない! 未熟者め 当たり前のことを聞くな。 つまり 「水の代わりにスープを飲む」と訳すべきである。これが絶対正解だ。 A 水の代わりにはどけてしまうべきでしょう? B なにをいっておるか!「水」は「飲む」に つきもんじゃ! 何があっても「水」という言葉は入れるべきだど。 お前は女だろぅが。 おとこ の いうことをきいておればいいのだ。 気に入らないのなら いまからでもいい 山で修業をして来い! ついでにその子供もぶったったいてやる! A そういう態度だと不幸になるだけですよ。 差し出がましいようですが 気を付けたほうがいいですよ。 B なにおう。 うるさい! お前はもっと社会を批判するべきだ! 老婆しんだが お前が不幸にならんようにしろよ! だまっとれ ということだ! ------------------------------------------------------------------ この会話の例に 元づいて解釈するとすると 哲学に 男はつきものである。 宗教に高齢者はつきものである。 聖書におぢぢは つきものである。 ということになってしまうのでしょうか? おじいさんが言うように それが相場なのでしょうか? それでは希望が無くなってしまうのではないでしょうか? おぢぢ の いない 聖書というのか可能なのではないでしょうか? こころあるかたへ お教えください。
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- noname#144675
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- 人を更生させるため どうすればよいのでしょうか?
かつて 素晴らしい人間として 活躍していた方がいらっしゃいます。 いま しかし 他人に文句を言いすぎて自我の とりこ と なり、 独りぼっちになって苦しんでいます。 更生させるためには、 どうすればよいのでしょうか? まわりに わがままなかたがいて うるさくて困っています! どうすればいいのでしょうか? 以下に示すような かたです・・・ 直撃インタビュー! 異人> 人生の目標は一つである。2つではない! 目標は俺が決める! 頭がよさそうにふるまっているが、お前らは、勘違いしている! インタビュアー> あのう 目標についてですが・・・ 大事なことは達成されることであって、 結果的に 目標はいくつあってもよいのではないでしょうか? 異人> いや違う!よく考えてみろ。 考えるということは最後は一つだ。 みんなひとつである! インタビュアー> それはあくまで主張ということで、 どこまで行っても主張にとどまるのではないでしょうか? 異人> 主張は 俺の生きる目的である!主張しかない!どぢゃ! インタビュアー> 次の質問に移ります。 あなたの目標は達成されたのですか? 異人> これから決める! まだ時が来ていない! 今決めると 理屈が こねられなくなるからきめない! おまえらは 俺様に永遠に勝つことができない! インタビュアー> では さらに 具体的な質問をいたします。 あなたの関係した家族・親族・友人の方でで幸せになっている方はおられますか? 異人> うるさい!質問を変えろ!うっとうしい!じゃまだ! インタビュアー> では 質問を代えさせていただきます! 今現在 あなたは幸せですか? 老人> 幸せになる予定である! これからなる! 時が来ていない! 案ずるより産むがやすしだ! 聞いたことがないのか? 明日なれば 俺の勝ちだ!なる!もう少し かかるかもしれない! インタビュアー> お友達はいらっしゃいますか? 老人> 17人いる! いや ネットでは なくて 実際の リアルの友達 についての質問です。 老人> うるさい! 俺の計画は年金だ! 心は目標ではない! おまえら 未熟者どもに 迷惑はかかっていない! インタビュアー> あのう 年金制度は、直接払い込まれた同時期の保険納入で 賄われていますので、あるいみ 社会的に わか者たちから支えられている ことになると考えられるのですが? 老人> おれも 若いころかねを払っていた! インタビュアー> 給与と比較するとごく微量の年金掛け金でしたし、 当時は 60歳以上の年金受給者自体が少なかったのですが? 老人> うるさいな 屁理屈を言うな! 黙って払っていろ! いつまででも というわけではない! おまえははらう!俺はもらうが道理である!わかったか! ちなみに おれ様の愛は すごいいい映画の愛である! 見て勉強しろ! 見ないのなら山に行って来い! ばかか! インタビュアー> ご回答ありがとうございました。 俺もお前もお金持ちだ! おまえが はらえ! 愛は支えあうということだ あいらしい おれを ささえろ! あいは いつくしみあう ということだ! まず はじめに おまえが 俺を慈しめ! ばかあほども! きいてるのか! 日本人は死んだのか! というような 老人です・・・ このような老人を更生させるためには、 どうすればよいのでしょうか? ちなみに このかたは 自分の抱く「嫉妬」を 普遍的な愛であると勘違いしています。
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- noname#144675
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- この世の中に 希望は なくなってしまった の?
eating a cup of soup この世の中に精神的希望は なくなってしまった のでしょうか? 最近 外国語大学を出たというじいさんと 優しい心を持った御嬢さんの会話を 耳に挟みました。 --------------------------------------------------------------------- 御嬢さんA he eats soup という 文があって 近所の子供が 『なんで 「彼はスープを 飲む」 と訳すの?』 と聞いてきました。 どう答えればいいでしょう。 おじいさんB わしの経験からすればそんなのは簡単だ。 スープは水の代わりだ。 水を食べるとは言わない! 未熟者め 当たり前のことを聞くな。 つまり 「水の代わりにスープを飲む」と訳すべきである。これが絶対正解だ。 A 水の代わりにはどけてしまうべきでしょう? B なにをいっておるか!「水」は「飲む」に つきもんじゃ! 何があっても「水」という言葉は入れるべきだど。 お前は女だろぅが。 おとこ の いうことをきいておればいいのだ。 気に入らないのなら いまからでもいい 山で修業をして来い! ついでにその子供もぶったったいてやる! A そういう態度だと不幸になるだけですよ。 差し出がましいようですが 気を付けたほうがいいですよ。 B なにおう。 うるさい! お前はもっと社会を批判するべきだ! 老婆しんだが お前が不幸にならんようにしろよ! だまっとれ ということだ! ------------------------------------------------------------------ この会話の例に 元づいて解釈するとすると 哲学に 男はつきものである。 宗教に高齢者はつきものである。 聖書におぢぢは つきものである。 ということになってしまうのでしょうか? おじいさんが言うように それが相場なのでしょうか? それでは希望が無くなってしまうのではないでしょうか? おぢぢ の いない 聖書というのか可能なのではないでしょうか? こころあるかたへ お教えください。
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- noname#144675
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- 人を更生させるため どうすればよいのでしょうか?
かつて 素晴らしい人間として 活躍していた方がいらっしゃいます。 いま しかし 他人に文句を言いすぎて自我の とりこ と なり、 独りぼっちになって苦しんでいます。 更生させるためには、 どうすればよいのでしょうか? まわりに わがままなかたがいて うるさくて困っています! どうすればいいのでしょうか? 以下に示すような かたです・・・ 直撃インタビュー! 異人> 人生の目標は一つである。2つではない! 目標は俺が決める! 頭がよさそうにふるまっているが、お前らは、勘違いしている! インタビュアー> あのう 目標についてですが・・・ 大事なことは達成されることであって、 結果的に 目標はいくつあってもよいのではないでしょうか? 異人> いや違う!よく考えてみろ。 考えるということは最後は一つだ。 みんなひとつである! インタビュアー> それはあくまで主張ということで、 どこまで行っても主張にとどまるのではないでしょうか? 異人> 主張は 俺の生きる目的である!主張しかない!どぢゃ! インタビュアー> 次の質問に移ります。 あなたの目標は達成されたのですか? 異人> これから決める! まだ時が来ていない! 今決めると 理屈が こねられなくなるからきめない! おまえらは 俺様に永遠に勝つことができない! インタビュアー> では さらに 具体的な質問をいたします。 あなたの関係した家族・親族・友人の方でで幸せになっている方はおられますか? 異人> うるさい!質問を変えろ!うっとうしい!じゃまだ! インタビュアー> では 質問を代えさせていただきます! 今現在 あなたは幸せですか? 老人> 幸せになる予定である! これからなる! 時が来ていない! 案ずるより産むがやすしだ! 聞いたことがないのか? 明日なれば 俺の勝ちだ!なる!もう少し かかるかもしれない! インタビュアー> お友達はいらっしゃいますか? 老人> 17人いる! いや ネットでは なくて 実際の リアルの友達 についての質問です。 老人> うるさい! 俺の計画は年金だ! 心は目標ではない! おまえら 未熟者どもに 迷惑はかかっていない! インタビュアー> あのう 年金制度は、直接払い込まれた同時期の保険納入で 賄われていますので、あるいみ 社会的に わか者たちから支えられている ことになると考えられるのですが? 老人> おれも 若いころかねを払っていた! インタビュアー> 給与と比較するとごく微量の年金掛け金でしたし、 当時は 60歳以上の年金受給者自体が少なかったのですが? 老人> うるさいな 屁理屈を言うな! 黙って払っていろ! いつまででも というわけではない! おまえははらう!俺はもらうが道理である!わかったか! ちなみに おれ様の愛は すごいいい映画の愛である! 見て勉強しろ! 見ないのなら山に行って来い! ばかか! インタビュアー> ご回答ありがとうございました。 俺もお前もお金持ちだ! おまえが はらえ! 愛は支えあうということだ あいらしい おれを ささえろ! あいは いつくしみあう ということだ! まず はじめに おまえが 俺を慈しめ! ばかあほども! きいてるのか! 日本人は死んだのか! というような 老人です・・・ このような老人を更生させるためには、 どうすればよいのでしょうか? ちなみに このかたは 自分の抱く「嫉妬」を 普遍的な愛であると勘違いしています。
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- noname#144675
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- この世の中に 希望は なくなってしまった の?
eating a cup of soup この世の中に精神的希望は なくなってしまった のでしょうか? 最近 外国語大学を出たというじいさんと 優しい心を持った御嬢さんの会話を 耳に挟みました。 --------------------------------------------------------------------- 御嬢さんA he eats soup という 文があって 近所の子供が 『なんで 「彼はスープを 飲む」 と訳すの?』 と聞いてきました。 どう答えればいいでしょう。 おじいさんB わしの経験からすればそんなのは簡単だ。 スープは水の代わりだ。 水を食べるとは言わない! 未熟者め 当たり前のことを聞くな。 つまり 「水の代わりにスープを飲む」と訳すべきである。これが絶対正解だ。 A 水の代わりにはどけてしまうべきでしょう? B なにをいっておるか!「水」は「飲む」に つきもんじゃ! 何があっても「水」という言葉は入れるべきだど。 お前は女だろぅが。 おとこ の いうことをきいておればいいのだ。 気に入らないのなら いまからでもいい 山で修業をして来い! ついでにその子供もぶったったいてやる! A そういう態度だと不幸になるだけですよ。 差し出がましいようですが 気を付けたほうがいいですよ。 B なにおう。 うるさい! お前はもっと社会を批判するべきだ! 老婆しんだが お前が不幸にならんようにしろよ! だまっとれ ということだ! ------------------------------------------------------------------ この会話の例に 元づいて解釈するとすると 哲学に 男はつきものである。 宗教に高齢者はつきものである。 聖書におぢぢは つきものである。 ということになってしまうのでしょうか? おじいさんが言うように それが相場なのでしょうか? それでは希望が無くなってしまうのではないでしょうか? おぢぢ の いない 聖書というのか可能なのではないでしょうか? こころあるかたへ お教えください。
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- noname#144675
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- この世の中に 希望は なくなってしまった の?
eating a cup of soup この世の中に精神的希望は なくなってしまった のでしょうか? 最近 外国語大学を出たというじいさんと 優しい心を持った御嬢さんの会話を 耳に挟みました。 --------------------------------------------------------------------- 御嬢さんA he eats soup という 文があって 近所の子供が 『なんで 「彼はスープを 飲む」 と訳すの?』 と聞いてきました。 どう答えればいいでしょう。 おじいさんB わしの経験からすればそんなのは簡単だ。 スープは水の代わりだ。 水を食べるとは言わない! 未熟者め 当たり前のことを聞くな。 つまり 「水の代わりにスープを飲む」と訳すべきである。これが絶対正解だ。 A 水の代わりにはどけてしまうべきでしょう? B なにをいっておるか!「水」は「飲む」に つきもんじゃ! 何があっても「水」という言葉は入れるべきだど。 お前は女だろぅが。 おとこ の いうことをきいておればいいのだ。 気に入らないのなら いまからでもいい 山で修業をして来い! ついでにその子供もぶったったいてやる! A そういう態度だと不幸になるだけですよ。 差し出がましいようですが 気を付けたほうがいいですよ。 B なにおう。 うるさい! お前はもっと社会を批判するべきだ! 老婆しんだが お前が不幸にならんようにしろよ! だまっとれ ということだ! ------------------------------------------------------------------ この会話の例に 元づいて解釈するとすると 哲学に 男はつきものである。 宗教に高齢者はつきものである。 聖書におぢぢは つきものである。 ということになってしまうのでしょうか? おじいさんが言うように それが相場なのでしょうか? それでは希望が無くなってしまうのではないでしょうか? おぢぢ の いない 聖書というのか可能なのではないでしょうか? こころあるかたへ お教えください。
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- noname#144675
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- この世の中に 希望は なくなってしまった の?
eating a cup of soup この世の中に精神的希望は なくなってしまった のでしょうか? 最近 外国語大学を出たというじいさんと 優しい心を持った御嬢さんの会話を 耳に挟みました。 --------------------------------------------------------------------- 御嬢さんA he eats soup という 文があって 近所の子供が 『なんで 「彼はスープを 飲む」 と訳すの?』 と聞いてきました。 どう答えればいいでしょう。 おじいさんB わしの経験からすればそんなのは簡単だ。 スープは水の代わりだ。 水を食べるとは言わない! 未熟者め 当たり前のことを聞くな。 つまり 「水の代わりにスープを飲む」と訳すべきである。これが絶対正解だ。 A 水の代わりにはどけてしまうべきでしょう? B なにをいっておるか!「水」は「飲む」に つきもんじゃ! 何があっても「水」という言葉は入れるべきだど。 お前は女だろぅが。 おとこ の いうことをきいておればいいのだ。 気に入らないのなら いまからでもいい 山で修業をして来い! ついでにその子供もぶったったいてやる! A そういう態度だと不幸になるだけですよ。 差し出がましいようですが 気を付けたほうがいいですよ。 B なにおう。 うるさい! お前はもっと社会を批判するべきだ! 老婆しんだが お前が不幸にならんようにしろよ! だまっとれ ということだ! ------------------------------------------------------------------ この会話の例に 元づいて解釈するとすると 哲学に 男はつきものである。 宗教に高齢者はつきものである。 聖書におぢぢは つきものである。 ということになってしまうのでしょうか? おじいさんが言うように それが相場なのでしょうか? それでは希望が無くなってしまうのではないでしょうか? おぢぢ の いない 聖書というのか可能なのではないでしょうか? こころあるかたへ お教えください。
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- noname#144675
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