Nucleus_ の回答履歴
- この世の中に 希望は なくなってしまった の?
eating a cup of soup この世の中に精神的希望は なくなってしまった のでしょうか? 最近 外国語大学を出たというじいさんと 優しい心を持った御嬢さんの会話を 耳に挟みました。 --------------------------------------------------------------------- 御嬢さんA he eats soup という 文があって 近所の子供が 『なんで 「彼はスープを 飲む」 と訳すの?』 と聞いてきました。 どう答えればいいでしょう。 おじいさんB わしの経験からすればそんなのは簡単だ。 スープは水の代わりだ。 水を食べるとは言わない! 未熟者め 当たり前のことを聞くな。 つまり 「水の代わりにスープを飲む」と訳すべきである。これが絶対正解だ。 A 水の代わりにはどけてしまうべきでしょう? B なにをいっておるか!「水」は「飲む」に つきもんじゃ! 何があっても「水」という言葉は入れるべきだど。 お前は女だろぅが。 おとこ の いうことをきいておればいいのだ。 気に入らないのなら いまからでもいい 山で修業をして来い! ついでにその子供もぶったったいてやる! A そういう態度だと不幸になるだけですよ。 差し出がましいようですが 気を付けたほうがいいですよ。 B なにおう。 うるさい! お前はもっと社会を批判するべきだ! 老婆しんだが お前が不幸にならんようにしろよ! だまっとれ ということだ! ------------------------------------------------------------------ この会話の例に 元づいて解釈するとすると 哲学に 男はつきものである。 宗教に高齢者はつきものである。 聖書におぢぢは つきものである。 ということになってしまうのでしょうか? おじいさんが言うように それが相場なのでしょうか? それでは希望が無くなってしまうのではないでしょうか? おぢぢ の いない 聖書というのか可能なのではないでしょうか? こころあるかたへ お教えください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#144675
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- ほにゃらか形而左右学 テレビ
先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。 まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。 少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。 さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。 質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- fishbowl66
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- 現代における審美の可能性
審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。
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- noname#130919
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- 「うつくしい」って何ですか?
一瞬のきらめきをうつくしいと思います。 いつまでも変わらず在る姿をうつくしいと見つめます。 真冬の透明な川底をうつくしいと覗きます。 春先に雨ごとに濁りを深める川をうつくしいと思います。 周囲と溶け合って共存するものをうつくしいと思います。 圧倒的な存在感で環境を一変してしまうものをうつくしいと見ます。 「ハッとする」ものでしょうか。 でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。 ハッとした後の受容、が必須でしょうか。 同じ物をうつくしいと見る人、醜いと見る人、の違いも出て来ます。 ハッとしたその「心地よさ」が、うつくしいの認識でしょうか。 「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。 Wikipediaの「美」も覗いてみましたが、 もう少しわかりやすく、と言うか、全体的な表現は無いものか?と思いました。 私が「うつくしいと思う人の心の動き」を主眼に置いているからかもしれません。 「うつくしい」は様々な感性で語られますが、それらに共通する「心の動き」は何なのでしょうか? 当たり前のように「○○はうつくしい」と書かれ、その「うつくしい」って実は何?と言うあたりは不問の場合が多い気が致します。 人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
- 仏教に関して疑問があります。
仏教聖典では執着をはなれよと教えていますが、学校の勉強をするためや、仕事をこなすためには、どうしても執着がつきまとうと思います。「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。この矛盾をどう解決していけばいいでしょうか?どう考えれば勉強や仕事と仏教を両立できますか? どなたか教えてください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- akaiyellow
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- 科学の進歩
お世話になります。また、このカテでいいのか不明ですがお付き合いいただければ幸いです。 人類誕生から2000年以上も経過しておりますが、ここ100年くらい前から、目覚ましい進歩を遂げていると思っております。歴史に詳しくはありませんが、概ね産業革命あたりからのような気がします。自動車ができたり、飛行機が飛んだりと、機械的なもの以外の各分野でも同様に進歩していると思いますが、そこで疑問が湧きました。 では、産業革命の前の先人たちは1900年という途方もない時間がありながら、何もできなかったのか?という事です。社会的な事情や環境などもあるとは思いますが、それにしても長い歳月を考えると、そのあたりも解決できる人物が存在しなかったのだろうかと ご解答よろしく願いいたします。
- ネスは若者に悪態をつき教愚を追いやられるだろう
イエスが言った、「ネスは若者に悪態をつき教愚を追いやられるだろう」 この福音はどの福音書か?
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- noname#126434
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- 「うつくしい」って何ですか?
一瞬のきらめきをうつくしいと思います。 いつまでも変わらず在る姿をうつくしいと見つめます。 真冬の透明な川底をうつくしいと覗きます。 春先に雨ごとに濁りを深める川をうつくしいと思います。 周囲と溶け合って共存するものをうつくしいと思います。 圧倒的な存在感で環境を一変してしまうものをうつくしいと見ます。 「ハッとする」ものでしょうか。 でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。 ハッとした後の受容、が必須でしょうか。 同じ物をうつくしいと見る人、醜いと見る人、の違いも出て来ます。 ハッとしたその「心地よさ」が、うつくしいの認識でしょうか。 「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。 Wikipediaの「美」も覗いてみましたが、 もう少しわかりやすく、と言うか、全体的な表現は無いものか?と思いました。 私が「うつくしいと思う人の心の動き」を主眼に置いているからかもしれません。 「うつくしい」は様々な感性で語られますが、それらに共通する「心の動き」は何なのでしょうか? 当たり前のように「○○はうつくしい」と書かれ、その「うつくしい」って実は何?と言うあたりは不問の場合が多い気が致します。 人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
- 「うつくしい」って何ですか?
一瞬のきらめきをうつくしいと思います。 いつまでも変わらず在る姿をうつくしいと見つめます。 真冬の透明な川底をうつくしいと覗きます。 春先に雨ごとに濁りを深める川をうつくしいと思います。 周囲と溶け合って共存するものをうつくしいと思います。 圧倒的な存在感で環境を一変してしまうものをうつくしいと見ます。 「ハッとする」ものでしょうか。 でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。 ハッとした後の受容、が必須でしょうか。 同じ物をうつくしいと見る人、醜いと見る人、の違いも出て来ます。 ハッとしたその「心地よさ」が、うつくしいの認識でしょうか。 「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。 Wikipediaの「美」も覗いてみましたが、 もう少しわかりやすく、と言うか、全体的な表現は無いものか?と思いました。 私が「うつくしいと思う人の心の動き」を主眼に置いているからかもしれません。 「うつくしい」は様々な感性で語られますが、それらに共通する「心の動き」は何なのでしょうか? 当たり前のように「○○はうつくしい」と書かれ、その「うつくしい」って実は何?と言うあたりは不問の場合が多い気が致します。 人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
- 「うつくしい」って何ですか?
一瞬のきらめきをうつくしいと思います。 いつまでも変わらず在る姿をうつくしいと見つめます。 真冬の透明な川底をうつくしいと覗きます。 春先に雨ごとに濁りを深める川をうつくしいと思います。 周囲と溶け合って共存するものをうつくしいと思います。 圧倒的な存在感で環境を一変してしまうものをうつくしいと見ます。 「ハッとする」ものでしょうか。 でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。 ハッとした後の受容、が必須でしょうか。 同じ物をうつくしいと見る人、醜いと見る人、の違いも出て来ます。 ハッとしたその「心地よさ」が、うつくしいの認識でしょうか。 「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。 Wikipediaの「美」も覗いてみましたが、 もう少しわかりやすく、と言うか、全体的な表現は無いものか?と思いました。 私が「うつくしいと思う人の心の動き」を主眼に置いているからかもしれません。 「うつくしい」は様々な感性で語られますが、それらに共通する「心の動き」は何なのでしょうか? 当たり前のように「○○はうつくしい」と書かれ、その「うつくしい」って実は何?と言うあたりは不問の場合が多い気が致します。 人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
- 字の成立と、認識の確立「女ー子ー男」
なんだかわかりにくいタイトルだなあと反省です。 先日、一年生の息子の宿題を見ていたら気づいたことですので、 まだ、自分でもちゃんと疑問が疑問として確立していない状態です。 息子は「男」の字を習って、意気揚々と練習中^^ 「おとこって、田に力、だよねー」 「田んぼを耕すのは力が要る仕事で、男の人の仕事だったからだってね」 「うーーん、先生も言ってたよーー」と世代代々繰り返されて来た一年生の親子のやり取りかと思います。 表意文字である漢字は、つくりが単純な字ほど早くに成立したと思われます。 ヘンとつくりに分かれて構成されているような「組み合わせて出来る字」は、 当然それぞれの構成字の成立後に出来た事は容易に想像出来ます。 さて、男に対して「女」の字。 これは組み合わせて出来る字ではないような。。。 加えて「子」の方も単体の字です。 こう見ると「男」の字よりも「女」や「子」の字は早くに成立したと考えられるかな、と思いました。 そこから、私の飛躍しがちな思考回路で跳んでみました。 聞いて頂けますでしょうか。。。 人間は原始、人間にその認識は「種類」としてか?「役目」としてか?は不明ですが、 複数の区別が出来ると気づいたようです。 そして、その区別として「男」は「女」よりも遅くに認識された。 もっと言えば、「女」や「子」が認識されても、「男」という区別認識はまだ為されなかった。 「女」や「子」は、生殖の段階で気づいた区別認識だと想像します(勝手に)。 しかし、現在「女」に対する対として当たり前に出てくる「男」の認識は、 生殖と言う動物?野生?的な場面よりももっと時代を下って、 「労働」が認識された後に確立した区別認識かと推測しました(勝手に)。 これがもしももしも、、、です、 「おとこ」の字が、単純な古くに成立したと一目瞭然な字であったなら、 あまり疑問にならなかったと思うのですが、 これではあまりにも「女・子の字の成立時期」と「男の字の成立時期」の隔たりが見えてしまって気になってしまいました。 原始の人類は、女と子は認識したけれど、男の認識はしなかったのでしょうか。 それは何故でしょうか? 「男」とは、労働にともなってしか浮き彫りにならない存在だったのでしょうか? それとも、認識する主体が主に男性だった為、自らの認識が遅れたのでしょうか? 素人の思いついた勝手な根拠ですので、言語学?的には噴飯ものかもしれません。 その点の間違いもありましたがご指摘お願いします。 書きながら思いついた事が、 「女ー子ー男」のまとめ方もあれば 「母ー子ー父」のまとめ方もあるなあ、と言う事です。 「女ー男」と異なり、「父」も「母」も単体で成立した字かと判断しました(違うかも?汗)。 「女・男」の字よりも早く「母・父」の字が成立していたならば、 それはそれで色々とその認識への道筋を想像できる気が致します。 こちらについても、何かご存知の方いらっしゃいましたらご教示頂けたらと思います。 よろしくお願いします。
- ネスは若者に悪態をつき教愚を追いやられるだろう
イエスが言った、「ネスは若者に悪態をつき教愚を追いやられるだろう」 この福音はどの福音書か?
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- noname#125624
- 回答数3
- なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか?
なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか? 仏陀に関する文献を読んでいて、仏陀は積極的に人助けをしていない印象を受けました。 弟子に悟りを説明する場合にも丁寧に説明するよりは喩えで説明していて不親切だと思いました。 (すみません。) 私の勘違いかもしれませんが、仏陀が積極的な人助けをしなかった理由は何でしょうか? よろしくお願いします。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#142902
- 回答数47
- ネスは若者を誹謗中傷し教愚を追いやられるだろう
イエスは言った、「ネスは若者を誹謗中傷し教愚を追いやられるだろう」 この福音はどの福音書か?
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- noname#125624
- 回答数3
- ネスは若者を誹謗中傷し教愚を追いやられるだろう
イエスは言った、「ネスは若者を誹謗中傷し教愚を追いやられるだろう」 この福音はどの福音書か?
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#124787
- 回答数1
- 「いい質問ですね!」
「いい質問ですね!」が上から目線に感じるのは何故か? 池上彰が上から目線で胸糞が悪いということは置いといてください。
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- noname#124236
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- ネスは若者を誹謗中傷し教具を追いやられるだろう
イエスは言った、「ネスは若者を誹謗中傷し教具を追いやられるだろう」 この福音はどの福音書か?
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- noname#124787
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- ほにゃらか形而左右学 テレビ
先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。 まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。 少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。 さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。 質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。
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- fishbowl66
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