kurinal の回答履歴

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  • 実際には行ったこともない場所なのに、いたことがある

    実際には行ったこともない場所なのに、いたことがあるような懐かしい感覚のする場所があります。小さい頃また海外に行ったことのない頃から、記憶にあってそこにいる自分の感覚まで覚えているん です。(行ったことがないのだから、「覚えている」という表現はおかしいかもしれませんが。) 成人してからLAの沿岸部に旅行で行きました。その時に、「ずっと記憶にあった場所はここだったんだ」と気づきました。 こういう記憶は、いつなぜできるのでしょうか?海外に行ったことのない6歳位の頃から頭の中にありました。でも、初めて実物をみたのは25歳の時です。その時に、あ、ここの風景だったんだなぁと思いました。 6歳の頃から今も変わらずに「そこにいる自分の姿と周りの空気、雰囲気」が記憶にあります。 これはなんなのでしょうか? 精神を病んでいておかしいとかオカルトとかそういう神秘的?な感覚ではなくて、ロマンチックな小説を書きたいとかでもありません。「覚えている」という感覚なのです。 変なことを言っているのは承知ですが… 夕暮れ海側のバルコニーに立ち尽くして夕陽をながめて考えてる、わたし来れたんだ…来れると思ってなかった…あきらめてたの… そっと近づいてくる彼、後ろから包み込むように抱きしめる、どうかした?、ううん、わたし、叶うと思ってなかったの…でも…わたしここにいる…待たせてごめんね。待っていてくれて…ありがとう。…うん いいの。やっとたどり着けたんだから…やっと来れたんだから…私を見つけてくれてありがとう

  • ムラヲサ(市町村長)は 当番制でどうですか?

     ムラヲサ(市町村長)は 当番制でどうですか?  インタムライズムの一環です。  ムラヲサ(市町村長)は 無作為で抽出された市民が当番制で当たる。  あるいは 学級委員みたいなものなのだから やりたい人間が名乗り出て あとは くじを引いて決める。勝った者よりも 負けた者が当番となる。  事務方は アマテラス国家公務員が アマクダリして来てそのチカラを発揮してくれます。優秀です。  世界中にも広げなくっちゃあ。  民主制の時代に育った若い人たちが このくらいのことは どうして考えないのか。という嘆き節です。

  • カノッサの屈辱?

     きみは 首をうなだれ(冗語?)腰をかがめ膝を曲げてくづおれたことがあるか。  その相手が いかにお父ちゃん( Pape )と言えども同じ人間であったり あるいは いかにとうとかれども人間が考えよしあしをえらぶところのオシへであったりするなら ひょっとすると それは《屈辱》であるかも知れない。  だが その屈辱には成り得ない場合がある。そういう相手の場合がある。  おのづから《おそれ》をいだく場合である。われに還るのだから 屈辱であるはずがない。  きよらかなおそれをいだくに過ぎない場合である。  かつての――赤子のころの――聖なる甘えである。すでにものごころが着いているので きよらかなおそれと呼ぶ。  聖書は その問題をのみつたえようとしている。その余は 文学であり 高々 哲学である。  ご見解をどうぞお寄せください。

  • 実際には行ったこともない場所なのに、いたことがある

    実際には行ったこともない場所なのに、いたことがあるような懐かしい感覚のする場所があります。小さい頃また海外に行ったことのない頃から、記憶にあってそこにいる自分の感覚まで覚えているん です。(行ったことがないのだから、「覚えている」という表現はおかしいかもしれませんが。) 成人してからLAの沿岸部に旅行で行きました。その時に、「ずっと記憶にあった場所はここだったんだ」と気づきました。 こういう記憶は、いつなぜできるのでしょうか?海外に行ったことのない6歳位の頃から頭の中にありました。でも、初めて実物をみたのは25歳の時です。その時に、あ、ここの風景だったんだなぁと思いました。 6歳の頃から今も変わらずに「そこにいる自分の姿と周りの空気、雰囲気」が記憶にあります。 これはなんなのでしょうか? 精神を病んでいておかしいとかオカルトとかそういう神秘的?な感覚ではなくて、ロマンチックな小説を書きたいとかでもありません。「覚えている」という感覚なのです。 変なことを言っているのは承知ですが… 夕暮れ海側のバルコニーに立ち尽くして夕陽をながめて考えてる、わたし来れたんだ…来れると思ってなかった…あきらめてたの… そっと近づいてくる彼、後ろから包み込むように抱きしめる、どうかした?、ううん、わたし、叶うと思ってなかったの…でも…わたしここにいる…待たせてごめんね。待っていてくれて…ありがとう。…うん いいの。やっとたどり着けたんだから…やっと来れたんだから…私を見つけてくれてありがとう

  • にんげんの前史から後史へ(!?)

     歴史を展望してみたい。第三弾。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ         の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース       (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は       ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。        人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。        チカラ関係としての社会力学の兆し始め。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。  ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。    階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。  一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • 仕事と人生について

    よく「学生の仕事は勉強」といいます。 人生は仕事の連続なのですか?

    • augmydt
    • 回答数9
  • 人生の豊かさはアウフヘーベンの程度で決まる

      人生の豊かさは、精神の豊かさ。 精神の豊かさは、どれほど多くアウフヘーベンしたか、どれほど深くアウフヘーベンしたかによって決まる。 皆さんアウフヘーベンしてますか。    

  • カノッサの屈辱?

     きみは 首をうなだれ(冗語?)腰をかがめ膝を曲げてくづおれたことがあるか。  その相手が いかにお父ちゃん( Pape )と言えども同じ人間であったり あるいは いかにとうとかれども人間が考えよしあしをえらぶところのオシへであったりするなら ひょっとすると それは《屈辱》であるかも知れない。  だが その屈辱には成り得ない場合がある。そういう相手の場合がある。  おのづから《おそれ》をいだく場合である。われに還るのだから 屈辱であるはずがない。  きよらかなおそれをいだくに過ぎない場合である。  かつての――赤子のころの――聖なる甘えである。すでにものごころが着いているので きよらかなおそれと呼ぶ。  聖書は その問題をのみつたえようとしている。その余は 文学であり 高々 哲学である。  ご見解をどうぞお寄せください。

  • にんげんの前史から後史へ(!?)

     歴史を展望してみたい。第三弾。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ         の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース       (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は       ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。        人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。        チカラ関係としての社会力学の兆し始め。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。  ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。    階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。  一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギー・物質

    と定義してみました。 まずエネルギーと物質は同様のものと考えてください。エネルギー(物質)も 物質(エネルギー)でも定義に差し支えるので。エネルギーだけでもよかったのですが 素粒子、量子、超ヒモ、超弦、M理論を考えると エネルギーと書いてしまうと 科学通の方にお然りを受けるので エネルギー・物質 と書いているだけです。 取り敢えずエネルギーも無いところには性質も無い。性質のないエネルギー・物質もなければ エネルギーのない性質もありません。つまり幽霊は居ないと言う事です。 存在の基本は「エネルギーが在る事」であり 当然そこには「性質」も在って、量と質の二元が在る事になります。 科学はこれを測定するために観測などをして実験して証明しなければなりませんが 哲学はそれが出来ない世界も考えることが出来るのです。 性質の存在は「精神は性質で出来ている」ので心の世界「唯心論も」を考える時に重要です。 そして(個性ある)としたのは 個性を持って「存在」と考えないと、何処から何処までがつながっているのか?その実態はなんなのか?などと言い始めたら定義ができないからです。 酸素なら「酸素分子」「酸素原子」「酸素の同位体」オゾン等々の個性を認めないと 「ここには酸素が存在する」と言えなくなってしまうのです。 色即是空とか言い出したら訳が分からなくなります。それがいいと言う人は、酔っ払ってるようなものです^^ 人間でも私「ゆにこ」ならゆにこの性格や体。五体満足か病気はしてないか?ゆにこの能力 知能指数(75?^^)ゆにこの思想などを「ゆにこ」の個性としなければ 荒井さんも山川さんも近藤さんも 1だ 数学の一人 1に過ぎないとか言ったら 私の存在もあなたの存在も味噌も糞も一緒になってしまいます。そこに個性で存在を認めなければ訳が分からなくなります。酩酊してしまうのです。 この様に定義しましたが 如何でしょうか?

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 質問

    これはある番組のある編集長が、喋っている中の一部分の言葉の質問です。 その編集長も言っていましたが、これは教科書でも答えがありませんと書かれていると言っていました。 そして他の出演者達も、これは難しいですねと言っていました。 人間とはなにか この言葉が質問です。 答えがわかる人は書いて下さい。

    • k205t
    • 回答数7
  • 美しいとは何か

    美しいとはなんですか? せいちょうすること? せいちょうして死に行くこと? 成長する前の段階のこと?

    • augmydt
    • 回答数15
  • 論理の新技術の日々と文化的な日々

    新しい技術に囲まれてというのは便利です。 合理的で、無駄を削って。 論理社会は思考による革新的な新技術もある一方、逆説もでてきます。 思考による革新的な技術はヒトの世界とはいえると思いますけど。合理性で人間性の疎もでてくるかと思います。 原理的なので、自然とは何か、動物的には何かってなっていくともいえるように思えます。 一方、文化的な日々は衝動的に思ったからするのでなく、文化的だとしないってこともでてくると思います。人が社会を作っている所以なので、低い本能よりも格式や堕ちない日々でを意識されると思います。 2つのわけかたが適切かどうかわかりませんけど、前者と後者どちらがいいのでしょう? 前のめりで強迫的な追われる感覚で頭で考えると後者の意味はとらえにくいですけど、後者の意味って何でしょうか?

    • noname#209756
    • 回答数3
  • これらの人達の最終ステージはどの辺りでしょうか

      十界論で計ったとき、以下の人達は最終的にどのステージに到達したと考えますか。 (十界とは下から順に地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10ステージ) カント ヘーゲル アインシュタイン 安倍晋三 イエスキリスト 親鸞上人 池田犬作  

  • 超俗,脱俗、そして品,格風格

    1. 俗を脱するとか超えるとかいうことばがあります。 2. 自分の存在性や認識、言行などが超俗、脱俗に自己がなっているといいですよね。 いやいいかどかはわかりませんが。でも憧れます。 3. そのためにはどんなことをこころがけたらいいでしょうか? そんなブロッグってないでしょうか? 4. 他の質問ページの哲学カテで品格についての質問がありました。 品格ってどんなことなんでしょう。 品格と風格はどう違うのでしょう。 これを意図的に身につけようとするのはどうなんでしょうか?

  • 日本国憲法前文後半を哲学する。

    「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」 上の前文の後半の価値と間違いを指摘して下さい。

  • 自分のペースで生きる意味はあるのでしょうか。

    自分のペースで生きる意味はあるのでしょうか。 自分のペースが人よりも早いなら良いと思うのですが、人よりも遅い人が自分のペースで生きるのは本人が望む結果を生まない気がします。どうなのでしょうか。

    • noname#209633
    • 回答数9
  • メロスは間に合ったか?

    人間を見た。と言う事は 人間の本性を見た、という感じであまりいい言葉ではありませんが 憲法前文も結局は世界の諸国民が信頼できるか という問題があると思います。 ロシア、中国、アメリカが信頼できるか? 韓国、北朝鮮、台湾が信頼できるか 沖縄の人は政府やアメリカが信頼できるか? 貴方も知人、世間を信じられるか? 私もあなたを信じていいのか?甘いか? 太宰治は彼にしては異色の小説「走れメロス」で、人間を信じる事を救いと見ていたようですが 果たしてメロスは間に合ったのでしょうか?それとももう手遅れでしょうか? あなたはどう思いますか?貴方の体験や人生観から 人間は信じられると思いますか?

  • あたらしい世界と日本

     すべての人に対してすべての者になりました。  かのエウロパの紳士たちが芥子の樹脂を売ってお隣りの人びとにまぼろしを見させているという話を耳にしてぶったまげました。  かなしいかな われわれもこの商売をついには やるに到りました。その結果に到る前には その領土にも入って行きました。侵しました。  すべて真似をしました。下手な真似をしました。すべては所詮 真似でしたが 真似であり下手であったことがわざわいしたとも考えます。マチガイのあり方以上に 罪を背負い また背負わされるさだめに遭っています。  かの人びとが世界を獲るのなら こちらも同じことをやってやろうと考えたかも知れません。軍艦もつくりました。飛行機もつくりました。  その果ては 取り返しのつかないことをしてしまいました。お隣りの人びとから信頼を取り戻すことの出来ない崖っぷちにまで みづから すすんで行ってしまいました。  ここでこのわたしたちにわづかでも弁明があるとしたら それは   すべての人に対してすべての者になりました。  という言葉です。下手糞なわざでしたが 最後までおこないました。変な意味で成し遂げました。さすが西のほうの人びとは いいところで留め置くわざを持ち合わせています。田舎者のわれわれは おしまいまで突撃して行きました。  それでもこのあたらしい世界において われわれもその人間の尊厳を取り戻したい。  是非ともあたらしく生まれ変わりたい。  少しでもつぐないをしようとつとめて来ています。  まだ足りないでしょうが 生まれ変わります。  取り返しのつかないところを取り返したく思います。  成果がないわけではないと思います。  戦争犯罪を問われれば ゆづりますが 存在を問われれば われらここにありと堂々と言います。  あたらしいわが国とそして世界を築きます。  どうか世界の中の一人ひとりの存在としておつきあいを願いたい。  ☆ どうでしょう?