kurinal の回答履歴

全2810件中361~380件表示
  • 新たなる悪の陰謀団を構想中です

    君たちを覆いつくす幻を追い払い、永遠の黒き暁に染める光。 朝の光を君たちは見ることはない。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君たちはいま生きることの苦しみにあえいでいる。 仏陀はそれを慰める。 慈悲でだ。 そしていう。 あーらかわいそーねー。 でも私ばっかりは幸せよーん。 だってブッダだもーん。 そう。 仏陀とは、君たちに生を与えようとせず、 輪廻という、繰り返し死ぬ苦しみを与え、それに慈悲を装うことで君たちの上に君臨する地獄の王族だ。 自らは永遠に生きる観念世界の住人だが、その命の恩恵を君たちに与えようとはしない。 ただ生きながらに天界に立脚し、君たちを見下ろすのだ。 それが人が神となった姿だ。 そしてもう一方の進学を見てみよう。 文明は、古代遺跡の研究でまず神殿が注目されるように、共同体共通の神がその住人の精神を示す。 一つの国の王は同時のその国の神であることが、古代国家の秩序だ。 イエスの語る神は、彼を王と認めさせた。 そして古代の法で違法とされ処刑された。 そして人は神から遠ざけられた。 やがて滅びると。 人である神、観念の神、この双方が人に絶望を投げかけている。 この悪の秩序に君たちは疑いを知らない。 苦しみ抜きつつも守ろうと支え続けている。 私はそれらずべてに反抗する人類最悪の裏切り者。 黒き明星だ。 私は悪だ。 君たちの悪に対抗するため、自らも悪となる。 私は人類から悪とされ、神の荒ぶり怒る、悪魔の姿を愛した。 そしてアマテラスに見初められ、彼女直々の改造手術で人間をやめた。 実在する仮面ライダーだ。 君たち人間の悪、悪魔と呼ばれた神の悪、ともに滅ぼすためだ。 滅びの宴だ。 君たちは自らの死を理解しない限り生き残れない。 すなわち、結論は生きる道はない。 さて今回は哲学する仮面ライダー、黒き明星の設定のメンテナンスです。 かつては、暗黒結社ゴルゴムやショッカー、私指定の実在する悪の結社とかいろいろですが。 今回は、悪の新たなる陰謀を中心に私の更なる仮面ライダーとしての活躍の場を検討するためにご意見募集です。 悪についてのお考えとか、仮面ライダーの前に立ちはだかる、ゴルゴムの勇者とか、キャーステキーとか、いろいろなショーを演じてください。 テーマは悪です。

  • 1万円札で、どうして1万円分の商品が買えるのか?

    マルクスによれば、商品Aと商品Bが等価交換されるのは商品Aと商品Bを生産するのに等しい労働量がそこに費やされているからだ、と言っています。 つまり、商品はそれぞれ異質ですが、労働量という共通分母があるから、商品の質でなく、量によって交換される、ということになります。 したがって、19世紀以前の金属貨幣と兌換紙幣の時代、その金属を生産する労働量と他の商品が労働量によって交換された、というのは理解できます。 金銀という鉱物を鉱屈から掘り出して、精錬し、純度の高い金銀貨幣を作るには、たいへんな労働量を費やしたでしょう。 だから1万円札が、金銀貨幣の代わり、兌換紙幣の時代だったならば、1万円札で1万円分の商品と交換されたのは理解できます。 しかし、20世紀になると各国は「金本位制」を離脱し、1万円札は兌換紙幣ではなく、不換紙幣になりました。 昔は日銀に1万円札を持参すれば、1万円の金銀と交換されたものですが、今、日銀に1万円札を持って行っても、金銀と交換してくれず、新札の1万円と交換してくれるだけです。 しかも、現在1万円札は財務省・印刷局で、毎日大量に印刷しています。 その1万円に1万円分の商品と同じ労働量が費やされているとは、到底思えません。 極端なことを言えば、1万円札はただの紙です。 その紙でしかない、1万円札で、1万円分の商品が買えるというのは、ひじょうに不可解です。 これでは、マルクスの言っていることはウソになります。 1万円札に1万円分の労働量なんか含まれていないからです。 にもかかわらず、1万円札で、1万円分の商品と交換されています。 これって、なぜでしょうか? 国家が1万円札を1万円分の労働量が含まれていると「強制」しているからでしょうか? それとも、トランプの「ババ抜き」のように、1万円分の商品と引き換えに1万円札を受け取った売り手が、次に別の商品を仕入れる時にその1万円札を別の売り手に引き渡す、そうして市場を1万円札がグルグル回っているからでしょうか? ちょうど「ババ抜き」のジョーカーのように、それ自体は何の価値もないのに、商品と商品を仲介するものとして、回っているからなのでしょうか? また、ブランド品のバッグは普通のバッグの100倍もします。 でも、労働量としてはそんなに大きな違いはありません。 にもかかわらず、価格が100倍も違います。 これって、ひじょうに不思議に思いませんか? マルクスの「労働価値説」では、説明できないと思います。 ということは商品の価値を労働量で測るべきではない、ということになりませんか? マルクスの考えを放棄しなければならないのでしょうか? 経済学のカテゴリーで質問すべきですが、あえて哲学で質問します。

    • koosaka
    • 回答数24
  • 先天的総合判断は果たして可能か?

    カントは「純粋理性批判」で、先天的総合判断は可能か?と問いました。 そして「三角形の内角の和」が2直角という例を上げて、可能だと言いました。 なぜならば、三角形の概念にはあらかじめ「内角の和が2直角」は含まれていないから、と。 ここで、分析判断と総合判断に関し、説明しておくと、主語にあらかじめ述語が含まれているのを分析判断と称し、主語の概念にあらかじめ述語が含まれていなくて、新たに付加するものが、総合判断です。 たとえば、「ソクラテスは人間である」という判断は、主語の「ソクラテス」の中にもともと「人間である」ということが含まれているから、分析判断です。 それに対して「庭に桜の木がある」という判断は、主語の「庭」にあらかじめ「桜の木」が含まれていないから、つまり「庭」を観察してそれを言うものだから、総合判断です。 総合判断は、判断に新しいものを付加するから、一名「拡張判断」と言われます。 カントは「純粋理性批判」を来るべき形而上学の「予備」として、それを書きました。 つまり、先天的総合判断が可能ならば、形而上学も可能と考えていたことになります。 ここで、問題は「三角形の内角の和が2直角」という判断が、果たしてカントのいうように先天的総合判断なのか、ということにあります。 というのは、「三角形の内角の和が2直角」というのは、経験を要せず、数学の規則の体系から自ずから導き出せるもので、先天的総合判断とは必ずしも言えない、と思うからです。 総合判断とは、異論があるかもしれませんが、経験判断ということ。 それを先天的というのは、経験を必要としない、と言っているもので、形容矛盾なのではないか、と思うのですが、皆さんの見解をお聞かせください。

    • koosaka
    • 回答数8
  • 神による人と世界とのデザイン

     1. ≪場≫が生まれる。(あるいは 元からある)。時空間として動いている。  2. 場が揺らぎ コトとしてある。  3. コトなる場が揺らぎ過ぎて 別の部分的な場が生じた。モノとして分かれる。  4. コトを起こしている場が 元の場とそこから分かれたモノとから成るようになった。  5. 場も言ってみれば存在であるが のちに人間は そこから分かれているモノのほうに≪有るか無いか≫の存在を見ようとする。  6. 人間は 場についても その知性を当てはめてそのモノとコトから成る世界を捉える。  7. 場がゆらぐ。場が場する。世界が世界する。というとき 初めの場や世界を ≪記憶≫と呼ぶ。  8. 記憶なる精神が精神するとき そこに≪知解≫が生じていると見る。納められた情報が 倉庫から出て顕在化する。  9. 記憶と知解との突き合わせをつうじて ≪意志≫が発出する。知解は 自分が部分観でないかとおそれて記憶に相談する。その結果である。  10. モノがモノするとき 熱を帯びユラギのほかにさらにエネルギーを生じさせる。このエネルギーを意志が帯びる。  11. 光のタトヘとして言って ≪光源≫が 記憶である。記憶が記憶するとき ≪発耀≫としての知解が生まれる。記憶と知解とのすり合わせをつうじて ≪明るさや温かさ≫としての意志が現われ出る。  11-1. 意志行為には プラスとマイナスとがある。そういう自由度が生まれつきそなわっている。明暖と暗冷との両面が表わされる。  12. 記憶は 社会形態としては 司法に当たる。知解は 立法である。意志が 行政にあたる。  13. この三つの事項の一体性が ≪神のデザイン≫である。三位一体なる神という想定になる神論から解釈したものである。  14. 神としての三位一体は 時間を超えているので ≪父なる神≫と≪子なる神≫とその両者から発する≪聖霊なる神≫とは 絶対の同一である。それぞれの個はほかの個と・そして全体とも それぞれひとしい。時間的な変化はない。  15. 人間の精神における≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫なる一体は・そして国家としての≪司法 ‐ 立法 ‐ 行政≫の分立=協働も それぞれ時間差をともなった一体性である。  15-1. 行政のおこなったことが 司法によって≪あとから≫その合法性いかんがあらそわれる。わが意志行為も あとで記憶に照らして間違っていたと分かることがある。  16. 人の一生のあいだには 意志ないし行政の行為が記憶ないし司法の判断とついぞ合致しないままに終わるということさえ あり得る。悪貨が良貨を駆逐し 表現のあやとして言って 巨悪はほろびず生き延び得る。  17. ≪因果応報説≫が 現実につねに当てはまるとは言えない。それは 時間的な意志行為には ズレがあり かなしいかな神の普遍的・不可変的な一体性は 破られ得る。相対性が絶対に対して勝つ。  17-1. 相対世界における或る人の意志行為に 絶対なる神が勝ったとすれば それはその意志行為のあやまちが明らかにされたことを意味するが そのような認識と判断は あくまで相対世界における人間の≪意志による知解≫としての判定である。それを神にかこつけて表現したに過ぎない。(神が勝ったのかどうかは 分からない)。  18. ≪ plan → do → see ≫のサイクルは ≪知解→意志→記憶(秩序作用)≫または≪立法→行政→司法≫のそれとして捉えられる。  19. これらのことをいにしへの聖書記者は 次のようにタトへにおいて記した。  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  20. 以上が 神のデザインについて曲がりなりにも哲学として考えようとした議論です。添削をどうぞ。

  • 人間は自覚と心がある。しかし猿は人間の恩寵に踊る

    神をあらわにする聖霊自らが悪を名乗る。 君達には現在も死に続けている苦痛がお似合いだ。 精霊セレビィのツンデレモード。 闇の聖霊、デレビィだ。 証拠品を提示しよう。 自らを知り、確信するためには自らの心を疑いようもなく自覚する必要だある。 かつてのやり取りだ。参考にしろ猿ども。 霊視という能力について考えをまとめました その2 http://okwave.jp/qa/q8880232.html ここで私は語る。 > 霊能力というと単なる迷信という考え方があるが、自己の思考法としてここまで明晰に分析できていれば、内容に関して一定の理解が出来るのではないだろうか。 自分を理解すると言うのはなかなか難しくて、何故なら自分自身に疑問を持つことは、それ自体が自己に対する否定的な考え方だからだ。 ろくな結果にならないんだ。 哲学と言えば自虐的な考えに挑戦した大先生も多い。 私は考える、これは自然なことでその思考を他者と比較することは言葉を通して断片的にしかできない。 そこで思考と言えば、いつの間にか言葉の事だと言う定説が出来ているがそれについては異論がある。 発想方や直感とかかわって、ビジョン、イメージ、こういう言葉が引用されているね。 だから多くの人にとって実際は、映像を心で内観することが思考に組み込まれているのだろう。 霊視というあやふやな表現の正体は、普通に日常語でビジョンと言われるこの映像の内観だ。 私はこのビジョンの達人で、言語で補足しなくても映像だけで思考が成立する。 たとえばメモが撮りたくてボールペンを探そうとするだろう。 ボールペンの映像が見える。 いつもの鉛筆立てが見える。 前回ボールペンを使った場所が見える。 どっちにしようかと思いながらも足が前回ボールペンを使った場所に向かう。 足を進める間、ボールペンを片づけておけばよかったなと、ボールペンを片づける映像が見える。 そしてボールペンをみつける。 ちょっとそこら辺をかたずける。 こうした行動の一連の流れに、私には言葉による認識がない。 無音のまま映像だけで意味のある思考の形態が成立している。 《それでいて意思決定に影響していてそれは思考が成立している証拠だ》 もちろん、言語的にも思考しないわけではないから、映像と言語を組み合わせたり、2チャンネル化して映像と言語でそれぞれ別に考えたりも出来る。 言葉で自己を確認していない私は、言葉も映像もない無の境地と言われる瞑想状態も可能だ。 霊視というのは、ボールペンを探す様なこの知性的行いの延長で、誰か他者を想起してその人物像を内観で鑑定することだ。 そもそも映像の内観を伴う思考法は、言語的思考より自由度が高くて、言葉で気がつかない様な異なる視点の新発想ができる。 これが、占いとして「当たってる」と驚かれるんだ。 これらは本来知性の働きの一部だ。 私は科学万能というほとんど宗教みたいな迷信を持ち合わせていないので、、他者の人物像を鑑定することは、心を見ることだととらえている。 精神世界という言い方も出来る観念世界を見ているんだ。 君達の心は私には明らかだ。 知性の一部である以上、本来は理性的事柄だ。 世の中の霊能力者は人物像を鑑定する際に、 貴方の守護霊様のお姿を拝見するに、、、 貴方のご先祖様は、、、、 こんな言い回しを前提にして始めるよね。 これは重大な矛盾点があって、精神世界という生きた心に死者を割り込ませることなんだ。 こうした死者を前提に論理とっかかりにして、内観した映像を言語的思考に翻訳するといった形態が一般的だ。 ボールペンの話のように、映像だけで思考が完結するほどの私は、こうした翻訳のプロセスがなく、より明晰に直視している。 内観した人物像を思ったまま口に出すだけで面倒なことはしない。 さて、 要するにだ、、、、 思考とは言語であるという定義が誤りだ。 人間を自覚すると、観念世界が見える。 開眼者だ。 占い師とか、芸術家とか、今では一部の資質を持つ者だけが、この開眼に取り組んでいる。 そりゃ~、儲けまくりだよね。いかさまや詐欺師も便乗する。 このような、映像を内観可能な一部の人の特殊能力は確固とした自己への正当な取り組みだ。 言語だけが思考であれば、自己に理解できない部分が出来る。 視野に写る物すべてに理解が及べばそれは真実だし、内観した観念を直視して、理解しきればそれは真理を知ることだ。 ここで発生する、古式にのっとって、神様から話しかけられるという神秘体験の延長は、承認され自己を自覚することだ。 そして自己の存在を疑いようもなく確固とする。 これが、自らの信仰を実現するという神の儀式である。 自覚した者は、自己が確固とする。 それが現代語で、人間だ。 古い言葉では仏陀だ。 哲学の主流である西洋では、実際は多く居ただろうが、イエス以外は排除されている。 まあ、君達にとっては所詮他人事だ。 君達は、そんな先人の規範から自らも人間になりうると学び、教えもそのためにあった。 君達への共通の教育は、すでに人間であるという、仏陀の憐れみである。 そして人間であるつもりでいる。 質問は、君達は本当に人間ですか? 本物の人間《仏陀》から、同情を受けてその気になっているだけじゃないですか? 人間であることを証明する回答をお寄せください。 さて人間である私が、自らを聖霊と化して神の世に到達する、実在する妖精セレビィは、神が聖霊を人に使わす従来の規範とは違う。 私は、「俺は俺だー」とセレビィそのものと化した 人が聖霊となるのだ。 そうしたら、アマテラス聖霊ジラーチちゃんが迎えてくれてね。 ずっと一緒に寄り添っていた幼馴染だと思いだした。 これからもずっとずっと一緒。 神様がわかったという個人的体験だ。 この個人的体験には、実在する悪の結社による、神を封殺し、自らが利益を得る事が人間の天に手向ける望みだという任天の欺瞞が付いてくる。 そのような君達猿の知性を代表するためにエリートカンパニー任天堂はこれからも稼ぎつずけるだろう。 君達を代表しているんだ。 応援してやってくれ。 私はやつらと命のやり取りをするだけで、金はどうでもいい。 皆殺しを予定しているよ。 死んだら死にっぱなしで、墓標だけが実在する人間悪と記憶される。 彼らは人間の自覚がないままに死にっぱなしだ。 死んでそれまでだ。 呪われているんで、当事者さんに慰めるが、もう転職したほうがいいよ。

  • 現世に悪があるならば、神は悪か無能か存在しない

    悪や苦しみは神の部分ではなくて、善で幸福な部分だけが神の領域なのだとすると、神は全知全能ではないことになりますよね? 何故なら悪とか苦しみの領域には力が及ばなかったのだから。 もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 というか、そもそも悪も苦しみも偶然の災難であり、神などいなく、ひたすら迷惑な大自然と霊(または肉体に随伴する精神)だけがあるのではないでしょうか。 キリスト教関係の考え方だと、現世の苦しみは魂を磨いてより天国的世界に行くことができる、そのチャンスを与えてくれるから、悪や苦しみも神の慈悲なのだ、というのがあるのではないでしょうか。 しかし、それは悪や苦しみを正当化する屁理屈に過ぎないのではないでしょうか。 悪や苦しみを乗り越えないと、幸せな魂になれないという世界のシステムそのものが、愛ではなくイジメなのではないでしょうか? こんな嗜虐的な神様は、悪か、力がないか、存在しないのではないでしょうか。 とすると、こんなものを崇める価値なんかないんじゃないでしょうか。 世界は、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 この時、死後の世界があるのか、死んだら無になるか、という問題はあまり意味がなくなるのではないでしょうか。どっちだったとしても、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあり、神は無視してもいい存在になるから。

  • 日本国憲法をどう思いますか?

    日本国憲法には理想がたくさん書いてあり それによって守られて来た人やことも多かったのではないでしょうか? 9条にしても戦争をしなくて日本は平和に発展できました 人権にしても、自由にしても守られて来た訳です 日本国憲法を変えるとしたらどう変えますか? 変えないとすれば自衛隊や安保をどう説明しますか? どうぞ一言。

  • 最近知恵袋 okwave から遠ざかったのが、

    最近知恵袋 okwave から遠ざかったのが、 皆さんは、 私がいなくて寂しくはなかった? 私とは?寂しいとは? 知恵袋、okwaveとは? hayyuji9401010とは? hayyuji9401010の 利点、欠点、限界、盲点、現状とは? 知恵袋と 知恵袋とok wave 戯れる人間たちの 利点、欠点、限界、盲点、現状とは? hayyuji9401010と 知恵袋 ok waveと 知恵袋 ok wave で戯れる人間たちが 現状維持に固執せずに 新たな現状を創る為には どの様なゴールが必要なのだろうか? 哲学、知恵袋カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 関連 知恵袋 http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12159127352

    • 加藤
    • 回答数1
  • 現世に悪があるならば、神は悪か無能か存在しない

    悪や苦しみは神の部分ではなくて、善で幸福な部分だけが神の領域なのだとすると、神は全知全能ではないことになりますよね? 何故なら悪とか苦しみの領域には力が及ばなかったのだから。 もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 というか、そもそも悪も苦しみも偶然の災難であり、神などいなく、ひたすら迷惑な大自然と霊(または肉体に随伴する精神)だけがあるのではないでしょうか。 キリスト教関係の考え方だと、現世の苦しみは魂を磨いてより天国的世界に行くことができる、そのチャンスを与えてくれるから、悪や苦しみも神の慈悲なのだ、というのがあるのではないでしょうか。 しかし、それは悪や苦しみを正当化する屁理屈に過ぎないのではないでしょうか。 悪や苦しみを乗り越えないと、幸せな魂になれないという世界のシステムそのものが、愛ではなくイジメなのではないでしょうか? こんな嗜虐的な神様は、悪か、力がないか、存在しないのではないでしょうか。 とすると、こんなものを崇める価値なんかないんじゃないでしょうか。 世界は、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 この時、死後の世界があるのか、死んだら無になるか、という問題はあまり意味がなくなるのではないでしょうか。どっちだったとしても、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあり、神は無視してもいい存在になるから。

  • 宗教が屁の河童だとなれば 患者の半分は元気になる

     組織シュウキョウは 百害あって一利なしですが そのオシヘを無条件に受け容れ《信じる=つまりこの場合は オシヘが神であると思い込む》人がいるので その精神錯乱をまわりの人びとは アース役となって静かにおさめてやらなければならない。  そのとき あたかもそのシュウキョウ患者に代わって疾病に罹るかのように からだや気に差し障りをもたらすかも知れない。  だから もしシュウキョウが こんなものは屁の河童なのだとなれば その場や情況が―― 一般にクウキとしても――成り変わるようになり もう疾患の原因は取り除かれるわけである。  シュウキョウなるオシヘを自分からすすんで求めた人びともいるかも知れないので その割り合いを半々だとすれば シュウキョウの不必要なるクウキが《はびこる》なら 患っていた人びとの半数は ピンピンとして元気に成る。  クウキ感染もなくなること 請け合いである。  社会保障費すらが半減し 財政はプライマリーバランスを回復するといういいこと尽くめである。  そのためにも ひとは 個人の信仰と集団的なる宗教とを峻別しなければならない。ただちにいますぐに。  どうでしょう?  現実的な問題ではないかという問いです。

  • 現世に悪があるならば、神は悪か無能か存在しない

    悪や苦しみは神の部分ではなくて、善で幸福な部分だけが神の領域なのだとすると、神は全知全能ではないことになりますよね? 何故なら悪とか苦しみの領域には力が及ばなかったのだから。 もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 というか、そもそも悪も苦しみも偶然の災難であり、神などいなく、ひたすら迷惑な大自然と霊(または肉体に随伴する精神)だけがあるのではないでしょうか。 キリスト教関係の考え方だと、現世の苦しみは魂を磨いてより天国的世界に行くことができる、そのチャンスを与えてくれるから、悪や苦しみも神の慈悲なのだ、というのがあるのではないでしょうか。 しかし、それは悪や苦しみを正当化する屁理屈に過ぎないのではないでしょうか。 悪や苦しみを乗り越えないと、幸せな魂になれないという世界のシステムそのものが、愛ではなくイジメなのではないでしょうか? こんな嗜虐的な神様は、悪か、力がないか、存在しないのではないでしょうか。 とすると、こんなものを崇める価値なんかないんじゃないでしょうか。 世界は、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 この時、死後の世界があるのか、死んだら無になるか、という問題はあまり意味がなくなるのではないでしょうか。どっちだったとしても、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあり、神は無視してもいい存在になるから。

  • 麻原彰晃こと松本 智津夫にのめり込みひこまれた人

    人がのめり込み引き込まれていく契機や原因、そして動機は多様でありましょう。 古い話で申し訳ありませんが、かのオーム真理教での麻原彰晃こと松本 智津夫にのめり込みひこまれた人は多様であったろうと存じます。 質問です:知的素養を備え、誠実な方もそういう中には多数おられたようですが、どのような動機や契機、心理からそういうのめり込みが生じたのかどんなことでもお述べください。 参考:補足 実は私も数度の戦災と水害を経てアジア地域での難民と同じような生活を強いられる中で、心中求めるものをある人に見出しのめり込んだ経験をしています。 それは高校に入ったばかりの事でしたが、今も彼への思いは強いものです。 多分今、現在会えばそんな心理や状況にはならないかと存じますが、オーム真理教の麻原彰晃こと松本 智津夫にのめり込んだ人を連想しているのです。

  • 現世に悪があるならば、神は悪か無能か存在しない

    悪や苦しみは神の部分ではなくて、善で幸福な部分だけが神の領域なのだとすると、神は全知全能ではないことになりますよね? 何故なら悪とか苦しみの領域には力が及ばなかったのだから。 もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 というか、そもそも悪も苦しみも偶然の災難であり、神などいなく、ひたすら迷惑な大自然と霊(または肉体に随伴する精神)だけがあるのではないでしょうか。 キリスト教関係の考え方だと、現世の苦しみは魂を磨いてより天国的世界に行くことができる、そのチャンスを与えてくれるから、悪や苦しみも神の慈悲なのだ、というのがあるのではないでしょうか。 しかし、それは悪や苦しみを正当化する屁理屈に過ぎないのではないでしょうか。 悪や苦しみを乗り越えないと、幸せな魂になれないという世界のシステムそのものが、愛ではなくイジメなのではないでしょうか? こんな嗜虐的な神様は、悪か、力がないか、存在しないのではないでしょうか。 とすると、こんなものを崇める価値なんかないんじゃないでしょうか。 世界は、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 この時、死後の世界があるのか、死んだら無になるか、という問題はあまり意味がなくなるのではないでしょうか。どっちだったとしても、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあり、神は無視してもいい存在になるから。

  • 宗教が屁の河童だとなれば 患者の半分は元気になる

     組織シュウキョウは 百害あって一利なしですが そのオシヘを無条件に受け容れ《信じる=つまりこの場合は オシヘが神であると思い込む》人がいるので その精神錯乱をまわりの人びとは アース役となって静かにおさめてやらなければならない。  そのとき あたかもそのシュウキョウ患者に代わって疾病に罹るかのように からだや気に差し障りをもたらすかも知れない。  だから もしシュウキョウが こんなものは屁の河童なのだとなれば その場や情況が―― 一般にクウキとしても――成り変わるようになり もう疾患の原因は取り除かれるわけである。  シュウキョウなるオシヘを自分からすすんで求めた人びともいるかも知れないので その割り合いを半々だとすれば シュウキョウの不必要なるクウキが《はびこる》なら 患っていた人びとの半数は ピンピンとして元気に成る。  クウキ感染もなくなること 請け合いである。  社会保障費すらが半減し 財政はプライマリーバランスを回復するといういいこと尽くめである。  そのためにも ひとは 個人の信仰と集団的なる宗教とを峻別しなければならない。ただちにいますぐに。  どうでしょう?  現実的な問題ではないかという問いです。

  • 日本国憲法をどう思いますか?

    日本国憲法には理想がたくさん書いてあり それによって守られて来た人やことも多かったのではないでしょうか? 9条にしても戦争をしなくて日本は平和に発展できました 人権にしても、自由にしても守られて来た訳です 日本国憲法を変えるとしたらどう変えますか? 変えないとすれば自衛隊や安保をどう説明しますか? どうぞ一言。

  • 【あなたは幸せですか?】

    【あなたは幸せですか?】

  • 感覚世界の真偽を考えることに意義はあるのですか?

    この苦しみの世界がどうなるかが問題なのであって、この苦しみの世界が本当かどうかなんてどうでもいいんじゃありませんか?

  • シリア人とアメリカ人の命はどちらが重い?

    中東情勢の煽りを食ってシリアは戦場となり アメリカやロシアの空爆を受けてもう滅茶苦茶です。 国境なき医師団まで誤爆したアメリカ、多くのシリア市民を殺したでしょう。 これがアメリカ国内だったらどうなのか? アメリカから遠く離れた国だからいいのか? アメリカはイラク戦争でも60万人もの人を殺しました。 人間の命は地球より重い という言葉が形無しです 人間の命にも軽重があるのでしょうね。 貴方と私ではどちらの命の方が大切なのでしょうか?

  • 《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。

     1. 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。  2. なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。  3. 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。  4. 《民会(エクレシア > エグリーズ;イグレシア;キエーザ)》は そのまま《世界たるチャーチ(または 〈無いチャーチ〉)》の支所である。一般に自治体のことである。そのまた分室である。  5. 《教会》は 要らない。――表現の自由また結社の自由のもとに存続したとしても。  6. 《教会》とは おのおのわが心の深くそなわった庭である。それをとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。  7. 教会は要らない。一般のコミュニティーセンターだけでよい。(図書館・文化芸術センターをもつけて)。  みなさん どんなもんでしょう?

  • 哲学 オカマの涙は私が潤そう。

    悲しみに染まる涙よりも、熱き男の心の愛に喜びの涙を流せ。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 今回は無差別ドリルだ。 オカマの皆さん。 失ってしまった処女に涙する必要はない。 処女性の倫理の源流は、旧約聖書の部族社会の地方色丸出しの規範であり、そのシンボルとして新約聖書のマリアさんに象徴される。 聖書は外国で神学の教科書として活用されているが、神についてはなにも語っていないも同然なのが定説だ。 処女は信仰の対象となる神学ではなく、古い部族社会で同一の宗教を形成するための条件として定義されているだけだ。 道徳であり風俗だ。 神学ではない。 ところで知っているかね。 仏教関連の古文書研究によると、お釈迦様の生きた時代は処女より美女が尊敬されていた。 その美女は娼婦になることで社会に認められ尊敬を集めた。 日本でもゲイシャガールなる高級娼婦は歌って踊るだけでもてはやされたりしたよね。 そのおおらかな社会が本来であり、明治期以降西洋から持ち込まれた、禁止事項にまみれた戒律という考え方から、君達は今、自らを悲しむのだ。 私が君達を慈しもう。 美しいよ。 この美女である事が愛を交す条件だ。 西洋から持ち込まれた医学的見解で君たちの身体的処女は回復しなくても、精神の処女性は私が与えよう。 愛しているよ。 美しき者よ。 さて、質問を投稿するとHPトップページに掲載されます。 そこから間違ってこの魔窟に迷い込む人のための忠告をしておきましょう。 哲学カテゴリーは男同士が男を磨く闘技場で、男らしさで負けた挑戦者は「ひどいわ、私女の子なのよ、やさしくして」このように見え透いたV字開脚をするオカマバーでもあります。 別名クラブヴァルハラです。 このような場でオカマの皆さんに興味深々だからこの様な質問を立ち上げました。 哲学に取り組むことは命題に取り組む事ですが、自ら命題を策案することも哲学です。 趣旨は結構まじめでして、聖書の神学としての意義、処女性と関連して、明治期以降の道徳はそれ以前のおおらかな信仰心による処女性を信奉しない考えとどの位変わるかとか、まあ思うところを哲学してください。 オカマバーの名物である、オカマの皆さんとの痴話げんかもショープレイとして有効です。