littlekiss の回答履歴

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  • 孤独と欺瞞

    辞書を引くと http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=brag&enc=UTF-8&stype=0&dtype=1 また、http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=lone&stype=0&dtype=1  孤独な人は、やはり自慢をしたり、ほらを吹くものでしょうか、逆に、ほらを吹く人、自慢をする人は孤独になるのでしょうか。

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 女はなぜ「独自性」が薄い

    こういうことを書くと、女性に怒られるかもしれませんが、一般的に、 独自性の強い女は少ない ということが言えるのではないでしょうか? 既成の価値観を大事にし、それを遵守すること維持することに価値観を求める姿勢は、男に多い、そこから脱するべく独自性を確立したい!という価値観と対極的です。 そういうのは、どういう理由でそうなっているのでしょうか?

    • noname#105097
    • 回答数4
  • 第三者や他者

    哲学カテ依存症は一種の病気、それとも本物ですか??

    • noname#96931
    • 回答数3
  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  •  時空

     時空。  好きな言葉です。  ちょっと前は「愛」なんて、いいなと思っていましたが、今は「時空」  アムロナミエも、時空を超えてぇ~~なんてかっこよく歌ってますし。ちなみに曲のタイトルは「ドクター」。(よろしく)  その時空に関係する疑問です。  宇宙が存在するということは、時と共に、ということだと思います。時の経過で存在を現象させる、と。  その宇宙の中で、物体は‘移動’あるいは‘変化’します。  ここは‘移動’で、考えてみることにします。  物体が空間を移動する現象には、時間と距離が伴います。  ちょっと難しい問題なので、距離は脇へ置いといて、時間のみ取り上げて考えます。  宇宙の中での移動という現象に付きまとう時間は、比較するもの(静止しているものとか)をよりどころにして、速度というものを割り出しました。  そのことと、存在する(時の流れに依存して)という時間?との関係はどうなっているのでしょうか。  あまり適当ではないかと思う例えですが、動く電車(存在する宇宙)の中で動く物体、を想像してみてください。  また、比較するものがあるから速度というものも考えられますが、宇宙が存在するための‘時の流れ’には比較するものがないので、速度は計れないのではないか。  こうした疑問について、教えを請いたいと思います。あるいは感想でも。  よろしくお願いいたします。  

    • Y  Y
    • 回答数38
  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  •  時空

     時空。  好きな言葉です。  ちょっと前は「愛」なんて、いいなと思っていましたが、今は「時空」  アムロナミエも、時空を超えてぇ~~なんてかっこよく歌ってますし。ちなみに曲のタイトルは「ドクター」。(よろしく)  その時空に関係する疑問です。  宇宙が存在するということは、時と共に、ということだと思います。時の経過で存在を現象させる、と。  その宇宙の中で、物体は‘移動’あるいは‘変化’します。  ここは‘移動’で、考えてみることにします。  物体が空間を移動する現象には、時間と距離が伴います。  ちょっと難しい問題なので、距離は脇へ置いといて、時間のみ取り上げて考えます。  宇宙の中での移動という現象に付きまとう時間は、比較するもの(静止しているものとか)をよりどころにして、速度というものを割り出しました。  そのことと、存在する(時の流れに依存して)という時間?との関係はどうなっているのでしょうか。  あまり適当ではないかと思う例えですが、動く電車(存在する宇宙)の中で動く物体、を想像してみてください。  また、比較するものがあるから速度というものも考えられますが、宇宙が存在するための‘時の流れ’には比較するものがないので、速度は計れないのではないか。  こうした疑問について、教えを請いたいと思います。あるいは感想でも。  よろしくお願いいたします。  

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  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

  • 浮気は悪か

    【A】と【B】が恋人か夫婦であるとして、あなた(回答者さん)と私は【A】と【B】の友人であるとします。 (“夫婦”が契約関係にあたるのかどうかさえ知らないくらいですので、このことに関して突き詰めて考えておりません) 【A】が異性とセックスをしました。 一般的に“浮気”や“不倫”と呼ばれているものです。 【B】はそれに対する否定的な感情を【A】に表し、あなたと私もその場に居合わせました。 【B】はおだやかな性格で、私はとても好意を持っています。 しかし、【A】が異性と関係を持つこと(これを【S】とします) に対する【B】の否定的な感情は、結局のところ過剰な自己愛と自分本位の独占欲からきており、強いて云えば“悪徳”によるものだと私は感じました。 よって私は【B】を支持する理由を何一つ見出せませんでした。 【A】はあなたと私に言いました。 「私は常に【B】の幸せを願っているし、【B】と幸せを共有できれば一番幸せだ。 しかし幸せの共有というのは聞こえは好いが、実際は独占欲と自己愛によって作られた幻想であることが多い。 実際、私と【B】との関係はまさにそうだ。 今回の【S】によって私が【B】を悲しませたことに矛盾を感じるか? 私は矛盾していないと思う。 私は【B】の幸せのためなら自己犠牲もいとわないことを私が一番知っている。 しかしその自己犠牲が【S】をしないことを指すのだとしたら、私と【B】との関係はたんに【B】の私を独占したいという欲求に私が手を貸している状態、ということになる。 私に【B】を独占したいという欲があるか無いかは問題ではないから言わない。 重要なのは、私が【B】の行動を制限したことがないことだ。 【B】の行動を強く制限したがる人間のほうが【B】を幸せにできるならば私は手を引くだろう。 私は【S】を積極的にしたいと思ったことは一度もない。 誘われて、断る理由がなかったに過ぎない。 それに私は、断る理由の無いことを何年も前から知っていた。 私は、【B】が他の異性と【S】をすることを私が制限する権利は無いと思っている。 それを制限しないことが私の幸せにつながり、私が【S】をしないことが【B】の幸せにつながるのであれば【B】のみが【S】をする権利があるということになることは知っている。 しかし、それでは制限を加えていったものが勝ってしまう。 私が【B】に、“私に制限を加えるな”という制限を加えれば【B】はどうなる? その制限を加えることが私には一番よい。 しかし、加えない。 私の“私に制限を加えるな”という制限の【B】による実現は、いわば世界平和が達成された状態だ。 私の考えに根本的な間違いの可能性があるとすれば、世界平和が永久に達成されないと考えているところ、そして、【B】は世界平和が必要だと考えているけれど私は必要ないと考えているところにあるだろう。 【B】とはよくこの話をするが、【B】は世界平和が達成可能だと考えている。 私は反戦主義者だ。けれどそれが利己主義によるものだと考えている。 世界平和に関しては、自分の考えよりも【B】の考えを尊重している。 自分と違う考えを尊重することが世界平和につながると思ってそうしているわけではない。私は世界平和を望んではいないから。 【B】の考えだから、というわけでもない。 なんとなく、だ。 君の恋人が【S】をすれば君は悲しむのか? 君は、それを悲しまなければならないことには悲しまないのか? 私は【B】の【S】を制限したいかもしれない。 どちらにせよ私は【B】の【S】を制限しなければ、同意に基づくものであればいかなる人の【S】も悪いとだと思わない。 むしろ、好意的な要素以外見出せない。 私は今、とても悲しい」 私は【A】の言い分に矛盾を感じませんでした。 【B】は、【S】を制限することが世界平和に逆行するという点において矛盾します。 世界平和はその一部としてこの二人の平和も意味します。 あなたの感想も聞かせてください。 【A】による【S】が悪とされているのはなぜなのでしょうか。 他に似たような事例はありますか? なお、質問の仕方(お礼を含む)が悪い場合はご指摘いただけると嬉しいです。

  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

  • 本格小説と自由意志について

     (α) ルーテル( Martin Luther )に《奴隷意志》の議論があるようです。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ルターは《人間の意志 voluntas hominis 》が《奴隷的で囚われたもの serva et captiva 》であると主張するが それは人は外からの《強制 coactio 》によって 嫌々ながら何かを意志するという意味ではない。意志が意志であるためには そこに自発性がなんらかなければならない。奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。  (清水哲郎:ルター in 伊藤博明編『哲学の歴史 第四巻 ルネサンス』2007)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (β) これゆえ 文学において《本格小説》と称する行き方は あたかもみづからの意志をいわば中立として 作者でありつつも観察者の立ち場に徹して物語を編んでいく――と言うのでしょうか?    これが問いです。  (γ) わたしの考えは   ▲ 奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。  ☆ というまでに突き詰めては考えていません。仮りに《悪へと向か》うかどうかは別としうるならば別として単純に言って人間の意志がそのままでは《善に向かうことのない状態にある》としますと それでも その認識に伴なうへりくだりをとおしてゆくゆくはかえって自由意志が建てられて行く――こう見とおしています。  ですから結論づけるなら  (δ) 中立の観察者の立ち場に立てなくてもよい。そうではなく 《作者》はあってよい。主観が顔を出してよい。この主観のうちに建てられて行く自由意志に沿って 物語を編む ないし 自己表現を推し進めて行く これでよい。たとえ挟雑物が交じって来ても 基本の歩みを歩み( basis )としてあたかも悪とともに進んでよい。  ☆ こう考えます。《あたかも悪(または 毒麦)とともに》というのは 社会にあって自分を含めた人びととともにという意味です。  (ε) ちなみに ルーテルはたとえばこう考えたようです。  ▲ われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ それが注ぎ込まれたうえで行為が生じる。(『ハイデルベルク討論』=前掲・清水)  ☆ 前半すなわち《われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ》というところが 《私心をあたかも蒸発させ観察者であることをつらぬく》につながると思われます。わたくしは 後半の部分つまり《恩恵と信が注ぎ込まれたうえで行為が生じる》のほうに重きを置きたい――こう思います。かえって自由意志が建てられるという希望です。  これは 一文の全体として つながった過程であることに間違いはないでしょう。  やや不案内のところがあると思いますが 自由なご見解をおしえてください。

  • 自由か平等か

    民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。