littlekiss の回答履歴

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  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・

     ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと    雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?

  • 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・

     ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと    雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?

  • 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・

     ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと    雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?

  • 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・

     ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと    雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?

  • 《常識を超えた人間》です。思う存分ご批判をどうぞ。

     ◆(詩編 42:6-12) ~~~~~   ・・・   なぜうなだれるのか、わたしの魂よ   なぜ呻くのか。   ・・・   あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて   深淵は深淵に呼ばわり   砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。   ・・・   なぜうなだれるのか、わたしの魂よ   なぜ呻くのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • 日本語とはどういう言語か。

     この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮りにしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。文型)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (β) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (β) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (β)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。

  • ど素人の哲学研究科への入学について

    私は現在某国立大学の工学研究科に所属している大学院生です。 とりあえず、今後の人生計画としては、工学修士号を取り一般企業に就職 しようと思っています。 しかし、私は哲学に興味、関心を持っていまして、将来哲学の博士号を取りたいという 夢を抱いています。 そこで質問なのですが、私のような今まで全く哲学の専門的な勉強をしておらず、 読書として、趣味として哲学の本をパラパラと読んでいる程度の人間が、 哲学科の大学院に入学するためには、具体的に何を勉強し、どう行動すればよいのでしょうか。

  • ボードレールの魅力?

    十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。 日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。 ・恋愛の詩人 ・メランコリックな詩人 ・サディスティックな詩人 ・宗教的な詩人 ・魔術的な詩人 ・政治的抵抗の詩人 ・貧者の側に立つ詩人 ・ダンディズムの詩人 ・芸術至上主義の詩人 などなど、あるといえるでしょう。 上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。 ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。 ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。 個人的な感想、分析をお待ちします。

    • noname#130919
    • 回答数89