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渋谷の伝説とレジェンド
- 渋谷には東急と西武の「渋谷戦争」というエピソードがありました。
- また、渋谷には伝説のライブハウス「ジャンジャン」や「ゴールデンカップ」もありました。
- さらに、渋谷では伝説のロックバンドやアーティストも活躍していました。
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セゾングループと渋谷の若者文化は、70年代に原宿から渋谷あたりが当時のサブカルチャーの発信地だったのが根源だと思います。その後サブカルチャー文化は渋谷から井の頭線を通って下北沢、吉祥寺へと「移転」していきますけどね。 原宿、渋谷、表参道の「70年代サブカルチャー三角地帯」は80年代になるとポップなメインカルチャーに変わってゆきますね。 渋谷の若者文化に対して東急はいつも一歩遅れていたと思います。なにせ「東横のれん街」がありましたから・笑。あれはサザエさん一家が住んでた頃(上京したサザエさん一家が最初に住んでいたのが当時は田舎町の渋谷でした)の渋谷の名残ですね。東急はそんな会社だと思います。109はギャル文化しか発信できなかった。 さて、私にとってのレジェンドは、そうですねえ、やっぱりキングカズと野茂英雄さんですかね。 二人とも、ほぼ同じ時期に海外に挑戦しました。そして当時、日本の人々はむしろ彼らの挑戦をバッシングしていました。恥ずかしながら、私もその一人でした。 「イタリアに行ったのはいいけれど、ロクに試合にも出られないじゃないか」「ストレートとフォークしかない野茂が大リーグなんて通用するわけがない」と、冷笑していました。 しかし彼らは、そんなやつらに構うことなく、自らの道を切り拓きました。「何もないところに道を作ってゆく」というのがいかに大変か。それから何十年も後に自分が何もないところを開拓しなければならない立場になってそれを嫌というほど思い知りました。ましてやそのときに日本中が自分をバカにしていたら。 まさに中島みゆきのあの名曲、ファイトの「戦う君の歌を 戦わないやつらが笑うだろう」そのものです。 今は当たり前のように日本の若者がサッカーでヨーロッパに、あるいは野球でメジャーリーグに挑戦しています。全てはキングカズと野茂が道を作ったからです。上手くいく人もいれば、上手くいかない人もいます。でもそんなのは結果に過ぎない。成功するならやるけれど、成功しないならやらないなんてやつはヘタレです。 だから私は挑戦する若者たちに歌うのです。「戦う君の歌を 戦わないやつらが笑うだろう」って。 キングカズはさらにもうひとつあります。最後の最後にワールドカップの日本代表から外され、それでも彼はサッカー選手であることに固執します。そのときも私は「晩節を汚すことはない。潔く引退したほうが自分の名前に傷がつかない」と思ったのです。 しかしどんなに泥まみれになろうと決して進むことを止めようとしないその姿に自分の考えの愚かさを思い知らされました。いや、若い人の中に混じって一緒に同じ土俵で戦うって、年を取れば取るほどそのキツさがよく分かります。 今はもうこの領域になると「もうあなたは神です。お好きになさってください」という感じですね。日本代表も第三のゴールキーパーなんてやめて「キングカズ枠」というのを設けて欲しいくらいです。 若い頃は鼻についた彼のあのナルシストなパフォーマンスも今や「イヨッ!大統領!」って感じですね・笑。
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- citytombi
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渋谷ですか、懐かしいです。 かつて渋谷は、109のみならずパート2、ONE-OH-NINE、ONE-OH-NINE 30's・・・と「109押し」が目立っていました。 20代は随分と渋谷で仕事をしましたね。109にも行ったしハンズにも行きました。 店休室(テナントスタッフの休憩室)では肩身の狭い思いもしました。 西武がLOFTを作った時は、ハンズは色めき立ちましたね。 では個人的に、渋谷のレジェンド・・・ 今はもう跡形もない「渋谷東急プラザ」です。 地下1階が「まる鮮市場」で地元スーパー的な役割でしたが、名前の通り魚介類も扱っていた関係で、その匂いがアパレルのある上階まで届いてしまって苦情がありました。 地元民で賑わっていたスポットでした。
お礼
citytombi さん、おはようございます。 >ONE-OH-NINE、ONE-OH-NINE 30's・・・と「109押し」が目立っていました。 2匹目 3匹目のドジョウを狙ったのでしょうね、20代 30代 の女性をターゲットにして・・。 ジェンダー・ニュートラル な戦略を繰り広げた 西武 に対し、飽く迄も 女性に拘った 東急 ・・、 でっかいパチンコ屋さんになった ONE-OH-NINE のその後が、全てを物語っている気がします。 >20代は随分と渋谷で仕事をしましたね。109にも行ったしハンズにも行きました。 通りを挟んだ 東急ハンズ の向かいに、 チャールストン・カフェ という カフェバーがありましてね、大学時代は デートの定番スポットでした。 そしてそのお隣は、 スパゲッティの 壁の穴 1号店・・、懐かしいなぁ。 >では個人的に、渋谷のレジェンド・・・ >今はもう跡形もない「渋谷東急プラザ」です。 確かに 渋谷駅 西口の ランドマーク 的存在でしたね、私の場合 ほぼ 紀伊国屋書店 限定でしたが、ちょくちょく寄らせてもらいました、心情的に 東急プラザ と 東急文化会館 は別格なのです。 ところで 東急プラザは、お洒落な ルーフトップガーデン が売りの 「 渋谷フクラス 」 で復活しましたよね、昨年の暮れでしたか。 就職と同時に、 渋谷は ただ通過するだけの街 ・・ 思い出の中にのみ生きる存在になってしまい、現在進行形の感慨が殆ど無いのです、残念ながら。 回答ありがとうございます。
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お礼
eroero さん、おはようございます。 >セゾングループと渋谷の若者文化は、70年代に原宿から渋谷あたりが当時のサブカルチャーの発信地だったのが根源だと思います。 箱根 然り ・・ 、ことに顕著な例が 軽井沢 でありますが、自然な流れに任せず、或る種の コンセプト を軸に、街そのものを造り上げて ビジネスに結び付けて行く・・、その創始者 堤康次郎 から脈々と受け継いだ、西武グループの DNA であったのかも知れません。 それと同じ類例が、渋谷 にあったのだろうと思います、元々 NHKホール や 渋谷公会堂 という 断片的な素地はありましたが、そこに パルコ その他のピースを嵌め込み ジグソーパズルを完成させて、点ではない 面としての集客力を有する 公園通り を造り上げたという事でしょう。 さて 若者が 竹下通り を目指し、原宿界隈ではタレントショップが軒を連ねた 、その一方で 原宿 ~ 表参道 のホコ天 や 代々木公園 が、 竹の子族 で溢れ返ったのが 1970年代後半・・、御指摘の点は、ほぼ 個人的な認識及び 思い出と合致します。 何しろ私は、 その光景を リアルタイム 且つ 同じ若者目線で見て参り、 生な実感を申し上げる事が出来る 生き証人ですから。 他方 カウンターカルチャー としての サブカル が進化を遂げた現在、 サブカルチャー という概念と括りが 最早時代遅れ・・、メインとサブは 殆ど ボーダレス な世界に突入した、そんな印象があります、これも 時代の流れというものなのでしょう。 『 鬼滅の刃 』 の興行収入 一つ取り上げてみても、所謂 サブカルチャー の売り上げと集客力は桁外れです、最早 傍流ではありませんね。 >その後サブカルチャー文化は渋谷から井の頭線を通って下北沢、吉祥寺へと「移転」していきますけどね。 文化人類学的な切り口は 嫌いじゃありませんが、 井の頭線 を媒体とした 若者文化の広がりという切り口は面白い・・、よく考えてみれば、 現在 「 若者の街 」 と称されるものの全ては、 井の頭線 沿線ですものね。 吉祥寺 はともかく、 下北沢 はガキの頃から よく知っておりますが、何も無いのが 唯一の特徴 と言ってよい程でして、南口を下った坂中に 1軒のパチンコ屋がありましたが、そこは 小池栄子 の実家でした。 やはり 本多劇場 が出来てからではないでしょうか、劇団関係者に依り、 演劇の街として 或る種の色付けが為されて行くのは・・。 >渋谷の若者文化に対して東急はいつも一歩遅れていたと思います。なにせ「東横のれん街」がありましたから・笑。 ヒカリエ に移転して、若干 お洒落度が増したかね・・ 「 東横のれん街 」 は、でも 昔の のれん街は嫌いじゃありませんでしたよ、結構 覗いてましたから。 ただ 東急グループ 総体として、企業努力 若しくは アンテナの張り方が足りなかったのは 仰る通りでしょう、東横店は 立地条件の良さにあぐらをかいておりましたし、それ以上に 東急本店 なんて本当に酷かったもの・・。 それこそ 店全体に加齢臭が漂うイメージで、凡そ 若者が足を向ける気になるデパートではありませんでしたね。 >さて、私にとってのレジェンドは、そうですねえ、やっぱりキングカズと野茂英雄さんですかね。 今も昔も サッカーに対する興味がゼロですから、よくは知らないのですが、彼が何をしたかでは決してなくて、カズ ってのは 大した奴だとは思っておりますよ、男の生き様として・・の 話です。 尚 前段に力を入れ過ぎた為、後段を 流した印象になった事に関して、お詫び申し上げる次第です。 回答ありがとうございました。