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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:野村芳太郎監督作品「砂の器」について)

野村芳太郎監督作品「砂の器」の名シーンとは?

このQ&Aのポイント
  • 野村芳太郎監督の作品「砂の器」には、丹波と加藤の涙を誘う名シーンがあります。
  • 加藤が「そんな人知らねぇ」と泣き叫ぶシーンや緒形の「縄付けてでも引っ張っていく」という言葉は、何度見ても心に残ります。
  • 松竹版の映像作品は橋本忍脚本であり、そのクオリティは名作にふさわしいものと言えます。

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  • eroero4649
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回答No.1

それは当時のハンセン病とその差別というのを考えないといけないのです。 ハンセン病は元々はらい病と呼ばれていて、映画公開当時は「らい予防法」というのがまだ生きていた時代だったのです。らい予防法というのは、ハンセン病が世に広まることを防ぐために、ハンセン病患者の人権を奪うことを認めた法律だったのです。このらい予防法は憲法に定められた基本的人権に反しているということが認められて廃止されたのですが、それはなんと1996年になってからなんです。それまでは、ハンセン病が語られることも、ましてやハンセン病患者が表に出てくることもなかったのです。 私はこのらい予防法が廃止されたことを受けて制作された深夜のノンフィクション番組を見たことで、ハンセン病というものを初めて知りました。ハンセン病に侵された人たちがどのようなことになるかというのをテレビに映った患者さんの姿を見て、衝撃を受けましたね。 ハンセン病は見た目に非常にインパクトがある障害を受けるので、紀元前の昔から世界中で怖れられ、また患者は差別を受けてきたのです。世界中どこでも、ハンセン病の人たちは患者同士で人目につかない場所でひっそりと生きなければならなかったのです。日本ではハンセン病患者は専用の療養所に強制収容され、そこから出ることはできませんした。終身刑です。療養所には専門医がいるのですが、その医師はなんと彼らを診察するにあたって土足で家の中に入っていたそうです。患者は去勢され、子供を持つことも許されませんでした。患者同士の結婚は許されました。 身内にハンセン病患者がいると分かると縁談も決まらなかったので、ハンセン病患者はその一族の中から「いなかったもの」にされました。親兄弟と会うことはもちろん、死んでも骨が還ることさえ許されず、療養所内の共同墓地に葬られるしかなかったのです。つまりハンセン病患者はそうだと分かった時点で死んだ者とされ、目につかない場所にある療養所の中で、誰に知られることもなくひっそりと生きて、死んでも死んだことさえも知られないままにいなければならなかったのです。 だから加藤嘉さん演じる千代吉は「知らねえ。そんな人知らねえ」といって泣いたのです。それはまごうことなき我が息子。でも、「これは俺の息子だ」といった途端に息子の社会的立場が全て失われてしまうのです。少なくとも砂の器が公開されていた頃はそうでした。 息子役の加藤剛さんが、空襲で亡くなった人に成りすました理由もそれです。父親がハンセン病だと分かれば、まともに生きていくことはできなかったのです。だから、ハンセン病患者の息子であるという過去を抹消しなければならなかった。 全てを失っても一緒に行動していた最愛の息子です。会いたいに決まっています。もしかしたら、息子のことだけを考えて生きてきたかもしれません。その息子が、立派な人となって写真に写っている。会いたい、会いたい。死ぬ前に、一目でもいいから会いたい。でもそんなことは絶対に許されないからこそ、こんな人は知らないと絶叫したのです。息子に迷惑はかけられないという、身を切るような父親の愛情なのです。息子の今を知ったという喜びと驚きと、でも会うことはできない悲しみと父親の愛情を表現した渾身の演技だったのですよ。 もしハンセン病について興味を持ったら、樹木希林さんの晩年の名作のひとつにも数えられる「あん」という映画をご覧になることをお勧めしますよ。 主演の永瀬正敏さんの演技も素晴らしいです。

jasko
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 父親はずっと元巡査に息子探しを頼んで、まだかまだかの催促をずっと文通していました。一目息子に会いたいという悲願は写真を見ただけでかなったということなのですね。するとあの涙は息子の成長した姿を確認できたうれし涙、それに会いたいのに会えない苦衷の慟哭なのか。元巡査の言った「秀夫、お前の首に縄をつけてでも引っ張ってくから」はそもそも成立しないセリフだったのですね。勉強になりました。

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