信仰に理屈を持ち出すのもどうかと思いますが、「理屈」からいうと、「神社」でしょう。
仏教は、教祖さま自体が、幸福とか財産とか、そういう欲から「解脱」を目指して、親も子も財産も地位も名誉も何もかも投げ捨てて、出家されたわけです。
お賽銭も、「"喜捨"の気持ちで」とか、テレビに出たお坊さんが言っていました。願いを叶えてもらう、代償・代価ではないんですわ。
「解脱せよ」と教える宗教に、多幸や宝くじ当選を願って、与えられるものなのでしょうか。私にはわかりませんが、違うような気がします。
その点、神様は、基本的に我々のご先祖様です。欲も、スケベ心も、我々と大して変わらない。
天照大神が隠れた天岩戸の前でアメノウズメノミコトが、胸乳をかきいで裳緒(ひも)を垂らしてホトをチラチラ見せながら踊ったのが、世界初のストリップショーだという話もあるくらいです。神々はそれを見て、ヤンヤヤンヤと大笑したのでありました。我々と変わらない。
であるながら、我々の欲も希望も理解して、かわいい子孫のために「協力してやろう」という気持ちになってくれるんではなかろうか、と不信心な私は思ったりします。
「かく言うは理屈なり」ですが、まあそういうことで、現世利益を願うなら、行くべきは神社であろう、と私は思います。
ただ、同じテレビで神主さんが言っていたのは、「神社へのお詣りは、これまで守られてきたことに対する『御礼』の気持ちで」ということなので、初詣に行って将来の現世利益を願うというのも、本筋からは外れた行為なのかもしれません。
ちなみに私は、仏様にというよりは、お寺の「お坊さん」に挨拶に行ってますが、特に「初詣」という意識で行ったことがありません。神社には大晦日に、焼いてもらうために注連縄やその年の御札を持って出かけていきます。
お礼
成り立ちを考えると神社のほうがいいのかもしれませんね