文章がおかしくないかどうか、と言う話ではなく、もっと考えましょう。
私は就職の応募動機ならこういうものはNGを出すのですが、学校の応募ならいいか、とも思います。
しかし、やっぱり言っておいたほうがいいことは指摘します。
ご自分で薄いと言われているのは当然で、それは本質にかかわります。
あなたがどうしたい、が書かれていません。
母がどうだ、コミュニケーションがどうだ、と言う話があって、結論は「学びたい」ですか。
人生の目的はないのですか。
何をいうのかとお思いでしょうから、これを医学部に出す応募書類だと思ってみてください。
あなたが言ったことは、いってみれば身内が病気になったとかそういうときに母が看病して大変なのをみた、だから医学を勉強したい、というようなことなんです。
これを医学部の教授が見て素晴らしいと思いますか。
論理の動きはおかしいことはありません。だけど入学を許したいと思いますか。
ないのは、お前はどうしたいんだ、です。
普通は「母のような思いをする人を助けるために誠意ある医者になりたい」が応募動機じゃないでしょうか。
自分が医者になることで母とかいろいろな人を助けたい、だから医学を勉強させてください、という話でないとおかしくないですか。
医学部受験なら、まず医者になりたい、が最初でしょう。
法学部だったら弁護士とか司法書士、行政書士になりたい、からはじまるのではないですか。
人間関係学科というところで勉強して、何になりたいのですか。何をしたいのですか。
それは人生計画です。それもないのにただ学校に居たって結局何にもなりません。
単にコミュニケーションを学ぶ、といったって、誰と何をコミュニケートしたい、とかこういう国際問題を片づける仕事をしたい、というものもなしに、ぼんやりノートをとっていても何にもなりません。
夏目漱石に「門」というのがありますが、あの主人公は人生いろいろという目にあって現在がある。
あまり一般の人が誰でも経験するとはいえない経歴を持っている。なにせ友人のかみさんを奪った経歴がある。
これが禅寺にこもり修行しようとします。
帰ってきた。
どうなったかというと、結局何もおきなかった、と想像はしてはいたんだが改めてがっかりする光景が描かれています。
目的もなしに寺にでかけ、何か人生の問題が片付くと思うほうがおかしい。
自分が持っている問題はこれとこれだ、と意識をし、考えに考えた上疲労し、そのようなことは一切考えない前提で座禅を組むなら深層意識はこんがらがった状態で放置されているニューロンを組み直し、露をはらうように問題を解決してくれたに違いないのです。
それをあの主人公は整理もせず、しっかりと向き合って悩むこともせず、寺にいけば楽になるかと考えて山に登ったわけです。
話を戻しますが、卒業後何をしたいのか、そういう人生目的をはっきりさせて応募動機を充実させるのが大事だということを言っておきます。