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暴言に依存してしまうのは、病気ですか?
自分は暴言を吐かれると落ち着きます 小さい頃はそんなことはなく、貶されると普通に腹が立って喧嘩したりもしてました。 でも、高校生になったあたりからそれが変わってきて、友人たちと会話をしていて、冗談でも、結構本気だとしても、馬鹿、ゴミ、クズ、死ね等言われるとホッとする自分がいました。 会話の中では特に気にしていないのを装って軽く流したりするのですが、内心そう言ってくれた人をかなり好きになります。 あげく、ふとした時に暴言を吐かれたことを回想したりすると幸福を感じてしまいます… 逆に褒められると、不快に近い感情があります。 褒められても、露骨に嫌な感じは出しませんが、内心はこの人は私をどうしようとしているのだろう…とすごく不安になります。 どうせ影で笑っているくせに、とか根拠のなく卑屈になったりしてしまいます。 だからと言って不自由はないのですが、どうして自分がそうなってしまったのか分からなくて、普通でない自分がいるというのが気味が悪いので治したいです。 これは病気なのでしょうか? 病気であってもなくても、普通の感情に強制することは可能なのでしょうか? 自分がとても怖いです。
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一種のびょうきみたいなものなのかもしれません。 だれかから無償の愛情をうけたら治るかもしれませんね。
- ts3m-ickw
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人は誰しも多かれ少なかれ被虐嗜好を持ってるものなので、閾値を超えなければ問題ないと思いますよ。 たいていは苦難の先に大きな達成感があったりするものですので、それを期待してるわけです。 ただ、苦難そのものを快楽と捉えてしまうとマゾヒズムの始まりですね。 Wikipediaの「マゾヒズム」の項目にも「自罰的傾向のある人は、他者から与えられる身体的精神的な加虐によって、かえって心の安定が得られることがあり、ここでもマゾヒズムへの趨向が見出される」と書かれています。
- zebura23
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別に何も変ではないと思います。 死ねだのクズだのと言う友人が、実は本気で そう思っているわけではないことを、あなたは良くわかっているからです。 むしろそうした心を開いた表現の中に、相手の本心がより感じられるのです。 私もある人に対してだけそうなのですが、 相手が私を喜ばせようとして言うある表現があるのですが、 それを聞くたびに不快になります。 それが明らかに本心でないことが、私には見え見えだからです。 ですが一般的に言えることは、特に私たち日本人は 褒められたり、称賛されることに慣れていないという面はあります。 つまりそれは日本人が、あまり他人を褒めたり、評価したりしないという 傾向に慣れているからでもあります。 私は他人から、「褒められようが、けなされようが、痛くも痒くもない」、 つまり他人の言葉に影響されて、 「上がったり下がったり」しない自分を確立したいと思っています。
暴言を吐かれることによって 自分の存在価値を見出してるんじゃないですか。
- marchinbox
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肯定されると嬉しい人と、否定されると嬉しい人がいるだけだと僕は思っています。「嬉しい」が好きなのはどちらも一緒です。 僕はどちらかといえば後者で、「〇〇を直したら?」とか「君は××が苦手だよね」とか言われると理解されたと感じるし、反対に「今調子いいでしょ」「君の〇〇が素敵」と言われると、自分は誤解されてると感じます。 この考え方をしていると、現状に満足しないので、勉強とか仕事で見つけた課題を、客観的に見つけることができると感じます。反対に、自信を無くして、落ちこんだり、他人から支配されやすくなったりします。 だから、自分のことを、たまに自分で褒めてあげたり、人を傷つけることが好きな人から意識的に離れる、といった工夫をして、生活してます。 たぶん、肯定されると嬉しい人にもメリット、デメリットがあって、向こうも、自分たちの考え方が普通だとか考えてるんだろうなと、たまに思います。 kanbenwoさんが、否定されると嬉しいと感じるなら、別にそれでいいのでは、と僕は思います。「どんなの考え方が普通か」はそれぞれの人が決めることなので、肯定が好きな人の考えや行動をまねることで、考えをかえることもアリだとは思います。どちらにしても、幸せに暮らしてほしいです。