おそらく、幸せと言う言葉が日常使われないからです。
これはドラマや漫画では出現率が高いのですが、本当は一言も発してない人が多いでしょう。
幸福とは概念を表す言葉であって、事象ではありません。
これらが、子供時代に良いものとして刷り込まれるのです。
不幸そうに見えるというのは、精神を含む健康に阻害があるせいであり、第三者の印象になります。
精神は脳の活動から生まれますから、肉体的な障害や損傷、疲弊(睡眠不足も含む)などで、
脳全体が代謝にパワーを削いでしまい、脳にカロリーが行き渡らず、縮退(最低限の性能で動く)が
起きている状態でしょう。
このときの感覚は、悪寒に近く、風邪や二日酔い、全力疾走の後のような頭痛を伴います。
あらゆる認知が低下し、「いま、なんかまずい?」位の幼い識別しかできません。
ここで幼いと言いましたが、これはつまりカロリーが不足してエンジンが掛からず、一部の脳で運用
することになります。すなわち子供の頃の脳です。
彼が探すのは、良いものであり、光であり、印象です。飛び出すのは、幸せと言う言葉でしょう。
普段よりも甘いものを摂取し、一時的にパワーを与えるか、根本的な疲労や障害の原因を取るか、
音楽などや運動により、代謝回復を支援するか、これら全てをする事で状態の回復が望めます。
そしてこのとき、人は幸せだというのでしょう。
物事の考え方や何かで解決する現象ではなく、精神が脳の活動であり、ことのほか肉体に支配されてい
ることを謙虚に踏まえ、錯覚だとして体調改善に努める。これは悪化を防ぐためには大事です。
特に、人間社会での出来事の中で、非生産的な活動にまい進し、肉体に負荷をかけたとき、肉体を制御
する役目の脳から指令が起きて、究極の罰に近い快感のカットが行なわれます。
快楽に関する部分は専門書もありますから、そちらを。
私の見解では、脳内は体調を制御する部分が主体(主人)であり、思考する自我が付属物(隷属)です。
自我は餌を取ってくれる身内なので、肉体制御の中では余剰にカロリーを与えてくれます。
ただし、自我は決して自分の支配者ではありません。
更に多重人格症などにも見られるように、実際は同時に複数の人格が起動中であり、
同時に行いを見ており、同時に思考しているようです。これらの人格が自覚できないくらいスムーズに、
切り替わり、色んな事物に対応しているようです。これは良く注意するとわかります。
これが意味するところを考えると、肉体を疲労させた原因が何か? これを監視されている事になります。
特に清算に結びつかない、自己顕示や、優越、競争、怒り、恨み、などで無駄に肉体を疲弊させたとき
ほど、罰則としての強度は強く、長いと思えます。
何かで人に否定され、悔しくて仕方なく、ぐるぐると同じ事を考えていると、これに該当したりします。
ここをもって、考え方や捉え方で(消耗し脳にダメージを与え、罰則を受けて、悪寒を感じ)不幸そうに
なることは多くあるでしょう。
次は私見ですが、
幸せと言う概念があったとして、実現できたとしたとしても、これを得る必要は無いと思います。
人は自分の肉体を活性化させ、協働により効率化を図るために思考という能力を肉体から与えられています。
己の肉体が健全なだけではなく、対価として共同体に貢献し、ズルをしないで己を誇る。
これで良く、その有り様が、他者の感想上で不幸であっても、問題はありません。
これらのどこかに破綻があり、それを自覚しているのに都合が悪いため考えないようにする。
しかし、この思考を自分の中の他人格に読み取られ、連綿と圧迫を受けて苦しんでしまう。
こうしたとき、ギブアップとして幸せになりたいと言うのだと思います。
まず、肉体が健全であり、協働をしており、ズルをしていないかを確認することです。
これのどれもが宜しくない状態で格好をつけると、幸せとは何かを問いたくなるのだと思います。
これが私の意見です。
お礼
質問がつまらなかったので、じえんど。