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清水寺の舞台は何のために高いのか。

ことわざにも使われる「清水の舞台」は何のために高く作られたのか。教えていただきたいです。

みんなの回答

  • nebnab
  • ベストアンサー率34% (795/2317)
回答No.3

私が聞いたのは、清水の舞台は本堂に安置されている本尊にお参りする参拝者が増えたためその順番待ちの場所として作られたという説です。 清水寺の本堂は山腹にあります(理由はNo2さんの回答のとおり)。 ですから、本堂前に参拝者の待機場所を作ろうとすれば自然とあのような作りにならざるを得ません。

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  • born1960
  • ベストアンサー率27% (1223/4397)
回答No.2

山の中腹に作られた本堂です。 山の中腹に本堂を作り、舞台をせり出した形は懸造(かけづくり)と言われるんですが、同じく観音霊場の長谷寺や石山寺も懸造で、3箇所とも国宝に指定されています。  もともとお寺というものは町の中よりも山腹に作られたことが多いんですね。やはり山には聖なる者が降りてくるというイメージがあったのでしょうか。  なので、なぜ清水の舞台が高く作られたかと言われたら、まず山の斜面を切り開いて本堂を建てたこと。 あと、もっと大きな本堂を建てるためには山を切り開いて平地を作ることよりも、舞台そのものを山の斜面に作ったほうが簡単だということですね。

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noname#188107
noname#188107
回答No.1

スカイツリーの展望台が高いところにあるのと同じで、 高いところからの景色を楽しみたかったからです。 で、元はこのあたりは庶民の墓場だったと 「平安時代以前から墓地・葬送の地となっている  北の蓮台野、西の化野とともに京都の三大墳墓地  826年(皇紀1486)天長3年5月  淳和天皇の第一皇子桓世親王が、22歳で亡くなられ、鳥部寺の南の山に葬られた記録がある  五条通より南側の阿弥陀ヶ峰から泉涌寺・東福寺までは、天皇や貴族らの上層階級の墓所  五条通より北は、庶民の墳墓が多く、狭い範囲での「鳥辺野(とりべの)」と称され、  親鸞聖人の荼毘所(だびじょ)や、藤原一族の火葬の地でもあった  阿弥陀ヶ峰の山頂には、豊臣秀吉の墓所の豊国廟がある」 http://www.kyototsuu.jp/Geography/AreaToribeno.html 死にに来るやつの中には、ここから飛び降りて。。。 というのが流行った時期もあって 「清水寺の古文書調査で、「成就院日記」から、このほど分かった。ことわざ通り「飛び降り」 時代背景に「命をかけて飛び降りれば願いごとがかなう」という庶民の信仰があったという。 記録は江戸前期・元禄七(1694)年から幕末の元治元(1864)年までだが、間に記録 が抜けている分もあり、実際は148年分の記述が残っていた。未遂も含め234件が発生し た。年間平均は1.6件。記録のない時期も発生率が同じと仮定すると、江戸時代全体では 424件になる計算という。男女比は7対3最年少は12歳、最年長は80歳代。年齢別では 10代、20代が約73パーセントを占めた。清水の舞台の高さは13メートルもあるが、生存 率は85.4パーセントと高い。10代、20代に限れば90パーセントを超す。60歳以上では 6人全員が死亡している。 」 http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-6.html

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