様々な原因があるのでしょうが、心のコントロール(制御)機能がマヒしているのではないでしょうか。
私自身、運動神経の一部が欠損しているため、脳が命令した通りに自分の身体を動かすことがむずかしい場合があります。
だから、心のコントロールがむずかしい人のお気持ちは何となく想像できます。
キチガイだろうと変態だろうと、それがその人の素のままの姿なら、「自分に正直な人なんだな」と、私はそんなに悪印象は抱きません。
ただ、周りが「あの人は病気なのだから仕方ない」と大目に見てくれる環境に、いつまでも甘えていてはいけないと考えます。
敢えて「障害者」をテーマに挙げます。
長寿大国の日本、「自分が年老いた時、周りの人々に介護の負担を負わせたくない」と願う国民は多いです。
なのに、心身に障害を持つ人間の「周りの人々へ介助の負担をかけさせざるを得ない環境」をことさらに責め立てる人は極めて少ないのが、日本の国民性、やさしさだと感じています。
にもかかわらず、自身の精神的欠陥・肉体的欠陥をいかにも勲章のように語りたがる人々が、私は苦手です。
実際、そういった人々から「周りへ迷惑をかけて申し訳ない」という言葉を聞くことはほぼ皆無です。
心身のコントロールが効かず、一般人が当たり前にできることができないということは、その分、本来なら議論にもならないレベルの問題で、周りにそのストレスを肩代わりさせてしまうことに他なりません。
それは、本当なら恥ずべきことなのです。
好きで心身を病む人などいませんから、それは「仕方ないこと」と割り切ったとしても、そのことが原因で、周りに世話をかけさせてしまう事実を「仕方ないこと」で終わらせていてはいけません。
周りがそう言うならともかく、当人が居直ったような態度を見せるのは、勘違いも甚だしいと考えます。
それがプライドなら、そんな虚勢は捨ててほしいと思います。
現実問題、いったん「障害者」と公の認定を受けたら、(個人情報は役所の管轄を受けることになるものの)本来なら罪に問われる社会問題を起こしても法の手を免れることが可能だったりしますし、生活面で擁護される部分は健常者より大きかったりします。
そういう国に生まれたことを当たり前と思わず、悲劇の主人公という立場に安住するのでなく、自分の欠点と正直に向き合い、半歩ずつでも前向きに努力していく勇気を持つことが大切だと思います。
病の克服が現実的に困難でも、そういう愚直な姿勢が、支えをくれる周囲の人々に希望を与えるのではないでしょうか。
私は障害者手帳を持つ立場ですが、障害者手帳は「周りにかかる迷惑を正当化する印ろう」にはなり得ないと感じています。
人権問題に抵触するからと、腫れ物に触るような扱いを受ける風潮にあぐらをかき、悲劇や勲章の世界に終始した詩人になりたがる心身障害者が少なくないことは事実です。
同じ障害者として、それは見聞きするに耐えない光景です。
付き合いで障害者団体の集まりに参加することもありますが、はっきり言って、機能的な問題とは別に、KYな人が多いことを感じます。
一般論が通じない部分も多く、話していても、いつも疲れを感じます。
それは、リアルでもネットでも大差ない社会現象のように思います。
あ、このご質問は、健常者へ向けられたものでしたね。
自分が参加すべきではありませんでした。大変失礼しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考になります。