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人が話し出すと印刷物に目を落とす人
- 人が話すと印刷物に目を落とす人について
- 嫌な行動(癖)の一つとして、人が話し出すと印刷物に目を落とす人がいます
- 特に教会での神父様の説教中に、印刷物を読んでいる人に対して気になると思います
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質問者が選んだベストアンサー
「いつまでもその印刷物の空いたページを開きながらそこに目を落としている」のなら、印刷物を読んでいるのではなく、集中しようとして下を向いた先に、たまたま印刷物があったのだと、私なら解釈してしまいます。これが例えば、関係ない印刷物のページを規則正しくめくっていたり、こっくりこっくりと居眠りをしていたら問題ですが。 私は壇上で長めの話をしたことがあまりありませんが、たまにそういう機会があると、壇上の私をじっと見ている人は稀です。たいていの人は、別の一点を見つめていています。それでいて、たまに頷いたり、話の流れを受けて笑ってくれたりする人もいるので、無反応の人も含めて、それなりに聴いてはいるのだと思います。いえ、むしろ集中しているのかもしれません。逆に、大人数が集まったホールで、しきりと壇上の人を見ながら頷いていたら、目立ってしまったほどです。 何かおっしゃりたいのだとしたら、まずは下を向いている人の気持ちに寄り添って、「今日のお話、こういうところがよかったですね」と話しかけ、反応が悪かったら、「退屈でしたか? いえ、ずっと下を向いていらしたから」などと言ってみてはどうでしょう。そこから、となりびととの話が発展するのではないかと思います。
その他の回答 (6)
No.5です。 日本人の場合は、どうしてもトレードオフとでも言うのか、こっちで苦労しているのだからと、その分、別のところで幸福が訪れることを期待する心理があります。 神父様の話を聞いている(聞かされている)側としては「聞きたくもない退屈な話を聞かされている」ぐらいの感じて考えているのかも知れませんね。 つまり、神父様の話を聞くことが"苦行"であり、苦行を重ねるほど自分が幸せになれると思って聞いているのではないでしょうか。 日本人の場合は、何に対しても「辛く厳しいもの」と思い込むクセが染みついていますからね。 でも、気になったのは「神父さんの説教」なんですか? 毎回、毎回、説教では私も嫌になるかな? ("説教"の意味が、俗語の説教とは意味が違うのかな?それとも、説法?) また、また、脱線で済みません。
お礼
>つまり、神父様の話を聞くことが"苦行"であり、苦行を重ねるほど自分が幸せになれると思って聞いているのではないでしょうか ハハーン。そういう考えもありますね。神父様の話を聞く、という"苦行"は、幸せになるために超えるべき「関所」なのですね。私にとっての類似例としては、仕事という"苦行"は、おいしいビールを飲むためのハードル、という言い方もできますが・・・。 それと、カトリック教会の用語として、神父様のお話には「説教」という言葉を使います。 確かに「説教」というと、何かお叱りや強制されたお話のようなイメージがありますが・・・。 勿論、神父様それぞれ、会衆に快く聞いてもらうために、それなりに話を面白くする工夫はされていると思います。教会での結婚式やお葬式に出席されたことのある方は、そこら辺も感じておられるのではないかと思います。
>いつも神父様の説教が始まると・・・ 正直、このような特殊な状況だと当人たちでないとなかなかわからないのかも知れません。 しかし、普通に考えればみなさん、自主的に参加なされているのでしょうから、本当に嫌ならば来ないはずです。 しかし、日本人の場合「義務感」に捕らわれ、嫌々参加している人もいるのかも知れません。 もし、そうだとしたら、嫌々参加している現状を何とかすることの方が先決かと思います。 質問の趣旨からは外れますが、あくまでも参考意見としてお考えください。
お礼
勿論、こういう任意の場に来ている方はそれなりの動機があって来ており、嫌々ながらという方はいないと思います。ただ、私の思うに、そうした場に来るのが単に習慣、慣れ、惰性になっており、常に主体的に、能動的に参加している訳でもない気がします。神父様の話が始まると、「ああ又始まったな。」位の感覚で、それに耳を傾けて共感して自分のものとして吸収しよう、という気持が足りないのだと思います。
- misalucha
- ベストアンサー率16% (11/68)
私には 一対多数の場で 人が話し出すと印刷物に目を落とす人というのは 全くと言ってもいいほど気になりません。 許容範囲内です。 人によってその許容範囲には違いがあると思いますので、 明らかなマナー違反でない限り、私ならば指摘はしません。 人が話しているときに口笛を吹いているとか 野次を飛ばすなんていうのならば 指摘しますが、印刷物に目を落とすくらいは完全に許容できます。 それは、その行為が私が聞くと言うことへの障害 (つまり、周りに迷惑はかけていない)にはなっていないという のも一つにはあるかもしれません。
お礼
No.1,2の回答者様と同趣旨と思います。私のお礼も同じような感じになると思います。
補足
そっけないお礼で済ませてしまい、とても気になったので、一言お礼の言葉を足します。 あなたのご回答は全く正しい。私が少し気にしすぎなのだと思います。
社会常識として人が話しているときに印刷物に目を落としているのは 基本的に失礼に当たるでしょう。 ただし、ここでは神父様の説教の時に限定して回答します。 >自分の無意識の行動は、人に指摘されないと仲々わからないものだと思います。 仰るようによくありますね~。 そもそも、なぜ、その人が印刷物に目を落としているのかを もう少し広く深く考えてみてはどうでしょうか。 神父様が説教を始めた時の最も望ましい態度は、 神父様の顔を見て話を聞き、時にうなずくといったものだと思います。 しかし、そのなんでもない動作が苦痛な人がいるのではないでしょうか。 例えば、対人恐怖的傾向のために人と目が合うことに苦痛を感じる人、 宗教の勉強が未熟なため、説教を理解できているか自信がない人などです。 必ずしも、 「>神父様のお話が面白くなく、聞きたくない。長ったらしくて同じ時間があったら印刷物を読んでいた方がいい」 と思っているわけではないと思います。 神父様の顔を見て時にうなずくこと あるいはそれをし辛いがための手持ち無沙汰の状況からから逃れる方法として、 信仰と関連のある印刷物に目を落とすぐらいは常識的に許されて良いと思います。 私は教会に行ったことはありませんが、 初めて行った教会の説教で、 人々が皆一様に、目をきらきらさせて神父様の説教に耳を傾け、 ありがたそうに、何度も何度も頷いていたら、 正直引いてしまうと思います。 熱心に聞いている人もいれば、 印刷物に目を落としている人もいるくらいの方が、 多くの人に開かれている印象を受けます。 もっとも、カトリックというものが閉じた身内の信仰であるなら話は別ですが。
お礼
お礼が遅くなりすみません。 そのような行動をする人間の身になって、どういう事情があるのかも考慮すべきとのご回答のようですが、正直言って、そのような特殊な事情の方はごく少数であり、大多数はズバリ傾聴姿勢が足りない失礼な人間だと感じざるを得ません。
- 漢字の苗字☆ 平仮名の名前☆(@minaotehon)
- ベストアンサー率9% (193/2098)
特に気になりません。 露骨に悪意を出してきた、危険を感じる振る舞いを唐突にされた、 あとは悪意が故意に感じたか察しれたか否かに変わると思います。 どう話すか… 近しければ普通に伺えばどうですか
お礼
早々にご回答頂きましたのに、一週間近く放っぽってしまってごめんなさい。 No.1さんへのお礼と同じく、あなたの考えは正しいと思います。 でも私はどちらかというと、他人の何気ないしぐさや行動がとても気になる人間なので、捨て置けないのだと思います。自分の気持ちに素直になり、一応気を遣いつつ、何かの時に話してみたいと思います。
- ラララ ライ(@clovershio)
- ベストアンサー率36% (12/33)
気になる時もありますが、たいがいそういう場合は無視して気にも留めないようにしています。 気になった行動をする方が、自分が生活するうえで切っても切り離せない関係である場合のみ、言うべきか悩みますが、赤の他人は無視してますヽ(´▽`)/
お礼
早々にご回答頂きましたのに、一週間近く放っぽってしまってごめんなさい。 あなたの考えは、全くまっとうな正しい考えだと思います。 ただ、私はあなたのようには素直になれないということだと思います。
お礼
>・・・壇上の私をじっと見ている人は稀です。たいていの人は、別の一点を見つめていています。 そうですね。人の話に一定時間以上集中することが如何に難しいかを示していると思います。 最後に書かれたように、神父様のお話を後で皆と分かち合うということは始めたいと思います。 貴重な助言誠に有難うございました。