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嫉妬心と劣等感で発狂しそうになる人間が救われる方法

嫉妬心と劣等感で発狂しそうになる人間が救われる方法ってないんですか? 教えてください。

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  • kanakyu-
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回答No.1

発狂しそうになるのは、それを直視するのがあまりにも恐ろしいからです。 「自分の存在価値に対する怖れ」どちらもそこから来ていると思います。 ようは、「自分は価値が低い(ない)人間なのではないか」という根源的な怖れです。 結論から言うと、あなたが「真実に気づく」事で救われると思います。 「存在価値」というのは、本来は生得の権利です。 「○○ができるからあの人は価値が高い」ということはありません。 それは利用価値や市場価値であり、存在価値ではないのです。 誰もが等しく尊い存在価値を持っている、そういう生得の権利が本来あるのです。 その価値は、他人が認めても、あざ笑っても、その価値自体が脅かされることはありません。 相対的ではなく、絶対的な価値ですから。 自分の存在価値に気づくに従って、 人が認めれば喜ぶ、人があざ笑えば落ち込む、そういうことが減ります。 褒め言葉もけなし言葉も、実はあなたのことではなく、相手自身について語っているのであり、 幸せな人は人をほめるかもしれませんし、お腹がへっている人は文句ばかり言うかもしれません。 基本的には、幸せな人は人に親切で、不幸な人は人に不親切なものです。 あなたが人にどう扱われるか、あなたがこの世で何を手に入れられるか、 それらはあなたの存在価値とは無関係に起こります。 人があなたをどう扱おうと、あなた自身は大切にされる価値のある存在であることは変わりません。 相手の人があなたを尊重する能力や心の余裕があるかどうかは、あなたの存在価値とは無関係なのです。 あなたが何を手に入れることができなくとも、それを手に入れた人があなたよりも存在価値が上な訳でもありません。 手に入るかどうかは、たんなる偶然や環境、時の運など外的要素が大きく、本人の努力だけでどうにかなるものでもありません。 嫉妬心や劣等感にさいなまれるのは、そういったこの世の現象(結果)と、 ご自身の存在価値(原因)をイコールで解釈しているからです。 天国ではそうかも知れません。ただしこの世ではそうではありません。 平らではなく、デコボコの壁に向かってボールを投げたときのように、どう跳ね返るかはわからないのです。 あなたが手に入れられなかった物はなんですか。それを、あなたは手に入れる価値があるのです。 こう言うとビックリされるかも知れません。 あなたは、望んだ物を手に入れる価値があります。 ただ、どんなに努力してもしなくても、この世があなたにそれを与えるかどうかという結果は、 あなたの存在価値そのものとは無関係に起こります。 たとえば、あなたは「挨拶される価値」があるし、「愛される価値」もあるし、 「リッチな生活を満喫する価値」もあるし、「仲の良い親友を持つ価値」もあります。 他人が得ている物で、あなたがそれを得る価値はない、といったものは一つもありません。 あなたの能力や努力、環境や運、得たもの、得られなかったもの、そういったものと、 あなた自身の存在価値とは、全く別の領域のお話であるということです。 あなたの能力や持ち物(利用価値・市場価値)で、あなた自身の存在価値まではかってしまうのではなく、 あなたの存在価値は不可侵で絶対的なものだということに、気づいてほしいと思います。 そこに気づけると、嫉妬や劣等感から解放され、状況を今より単純に見つめられるでしょう。 他人の評価はあてになりません。それで何もはかる事はできません。 他人や自分自身からの賞賛を得る事でしか、自分の存在価値を認めてはいけないと思っていると、とても苦しみます。 非常に遠回りです。 反対に、自分の存在価値に最初に気づくと、自分や他人の能力や持ち物に対して、 素直で正直な気持ちになれるため、自分とも人ともよい関係が築きやすいでしょう。 他人が何かを持っていて、自分が持っていないなら、「うらやましいな、でもよかったね」と思え、 自分が何かを持っていて、他人が持っていないときも、優越感で良い気分になろうとも思いません。 優越か劣等か?という競争主義的な見方が少なくなり、「協力」して幸せになろう、という心が芽生えると思います。 優越感ではあなたは本当に幸せにはなれません。なぜなら、誰かを見下す自分を、心から好きにはなれないからです。 もしあなたの回りに、あなたに対して優越感を持っている人がいれば、その人も心から幸せではないのです。 私も、徹底して「優越」しようという人をよく見かけます。 そういう人は、あまり幸せそうに見えません。 望みの物を手に入れて、人を見下す優越感は味わえても、心から幸せそうではなく、それを失う怖れに取り付かれ、 さらに何かを手に入れようとするばかりで、自分の存在価値を未だに認められないでいるのが見えます。 もっともっと「優越」しなければ、という怖れから、解放されてほしい、そう願います。 優越感のとりこになっている人が身近にいるとしたら、そういう人とは距離をおくことをお勧めします。 知らないうちに、ご自分もその価値観に影響されて来るでしょう。 また、輪廻転生を信じますか。 多くの人生を生まれ変わるうち、人は前の人生とは逆方向の人生を歩もうとするそうです。 今回のあなたの人生が、あるものに恵まれていないとすれば、前回は多分に恵まれていたのかもしれませんね。 一般的・抽象的な話ですみません。 精神的な、見えない世界の話ですので、もしかしたら難解かもしれないですね。 私自身、決して上記をマスターしている訳ではなく、自分自身に教えていることでもあります。 長くなり失礼致しました。 もし詳細をお話しいただけましたら、また別の言い方ができるかと思います。

その他の回答 (2)

  • taka-aki
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回答No.3

・精神安定剤を飲む ・愛してもらう ・煩悩を捨てる

  • hyuuma8579
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回答No.2

嫉妬心や劣等感は、誰かと自分を単独に比べることによって生じるものです。 もちろん、比べるなとはいっても、この比べる力、人間の持つ比較能力は優れた知能の証明でもあります。 したがって、知能や比較能力そのものが悪いわけではありません。 では何が問題かといえば、他人と自分を比べるまではしかたないとして、そのあとが問題です。 自他を比べる時に、自己と他人を分離してしまうことです。(この場合の自我="相対的自我"といいます) ある特定の誰かと比べる時、その知的客観作用によって"自他分離"が起きてしまうのです。 また、それが高じて周り全体と自分を比べる時、自分を"孤立化"してしまう場合があります。 "自他分離"の先に劣等感(逆に優越感も)や嫉妬心が生まれ、"孤立化"の先に孤独感が生まれます。 これは一般的には"自意識過剰"というのでしょうか、"内向的"というのでしょうか、自分という小さな世界にのみ囚われていることに端を発するように思います。 ではどうしたらいいかといえば、人間には相対的自我のほかに、"絶対的自我"というのがあります。 これは、相対的自我のように、「他人は他人、自分は自分」と自他を分離しないものです。 絶対的自我は、「他者の中に自分があり、自分の中に他者がある」いわば、自他同一性ともいえるものです。 食べることを必要とする自己、友達と会う自己、仕事に出掛ける自己、痛みを感じる自己などは、間違いなく現実であることは否定できません。 しかし、それは私たちのごく普通のレベルの知覚の話しです。 普通は、現実の本質を理解する時、自分自身というものは、自分の中にあるように考えられています。 通常私たちは、「真の自己」というものは自分の中にあると考えているために、自分を取り囲んでいる世界から自己を切り離して考えます。 そうすると、私たち自身が孤島のような存在になってしまうのです。 その結果として、このような言葉が出てきます。「"私"の人生は"私"の問題であり、"あなた"の人生は"あなた"の問題だ」 これを、ちょっと百八十度の方向転換をしたらどうなるでしょうか。 私たちの"真の自己"を他の中に見ればどうなるかということです。 実は非常に驚くべきことが起ります。 そうすると、私たちが周りの世界から孤立しているのではなく、実は共存の関係にあり、しかも責任があるということがわかってきます。 そして、私たちが他を傷つける時には、自分自身を傷つけているー心の中にある毒や憎しみによって私の自己が傷つくーという事実が分かるようになるはずです。 また、そうすることにより、私たちは、もっといろいろつながっており、もっと多くの共通要素を持っていて、人間同士を結びつける連結性があることが分かるようになるのです。 では、真の自己は今どこに存在しているでしょうか。 因習的な現実(あるいは意識的現実)のレベルにおいては、「私」は現れた世界に対して個別の個性体として相対していますが(※二元論的関係)、 絶対的現実のレベルにおいては、私たちの"真の自己"は、二元論とか他の存在や世界からの分離を超越した一元的存在なのだということです。 どちらも現実ですが、質的に違うのです。 真の自己のありかが他者の中にあることがおわかりでしょうか? 真の自己が他の人の中にあるということが正しいなら、逆に、他の人が私の中にあるということも正しいということになります。 私たちは利己的に「他の為に生きようとする」時、その意味は"私"が"あなた"のために生きるということ、つまり言葉を換えると二元論を示唆します。 それと同時に、自己をすべての他者の中に見出し、それによって、"私"と"あなた"という区別を超越して一つになるという、絶対的現実についても確認できるのです。 私たち自身の生活の中に二元の一体化を持ち込むことは、現実の経験的な存在によってのみ可能となるでしょう。 通常、私たちは圧倒的に因習的現実の領域にいることが多いので、一方に偏った立場に立っています。 しかし、もしも私たちが全体と「一つ」になることができるならば、その時には、全体が、私と一つになるのです。 それで、私たちが再び因習的な意識の様式に戻った時には、私たちは既に変化しているというわけです。 私たちは、第三世界の国々で飢えて死んでいく子供たちを見る時に、もはやそれを、ただの不幸なことだと考えたりはしません。 今や私たちは、その第三世界の国々で食物や愛、そして命に飢えている子供たちに、私自身を見るのです。 "私"こそが。その子供なのです。 その時、もはや世界を自分と別のものとしては見ず、自分に直結されたものと見るようになるでしょう。 だから、苦しむ世界を見る時に、それを自分と関係ないものと見ることはできず、自分の痛みとして、自分の飢えとして、自分の苦しみとして見るようになるのです。 自分の苦しみだけを見つめるならば、私たちは絶望感と弱さと恐れから行動するしかないのです。 あたかも、自分ではコントロールが利かない、苦しむという選択以外ないと感じながら。 しかし、私たちが他者の苦しみを自分のこととして見つめ、自分自身のものとして見て、かつ感じようと実践するならば、 私たちは、絶望感や弱さからするのではなく、主体的な同情心からするのです・・・ 自らの自由意志によって、他者の苦しみを自分のものとして体験しようという"選択"をするのです・・・ 自分のためだけに生きようとするのと、他者の利益のために生きるという"選択"をするのとでは、 根本的な違いがあります。 自分のためだけに生きようとすれば、結局、無力感に襲われるようになります。 しかし、他者のために生きるという"選択"をすることにより、本心の愛に由来する内的な強さによる自信を得ることができるのです。 相手が自分より優れているという同じ事実を見ても、嬉しさや賞賛や尊敬心、あるいは「自分ももっと頑張らなきゃ!!」などなどの思いこそ生まれはすれど、劣等感や嫉妬心が生まれることはないのです。 他者が感じる痛みや苦しみや悲しみだけでなく、喜びもまた我がことのように感じられるからです。 以上、長々と述べてしまいましたが、あなたの場合、そこまでいけば上出来ですが、まずは、「相手と比べない」とこから実践していかれたらどうでしょうか? 絶対的自我の初歩は、嫉妬している相手がいるとして、その人の親の立場に立ってみることです。 親は、我が子や兄弟やを見る時、優劣や勝敗でみたりしませんよね。むしろそれぞれの違いや個性を愛するのが親であって、比べてどうこうはありませんよね。