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聖徳太子はどんな国作りを目指して政治の改革を行ったのですか?

聖徳太子はどんな国作りを目指して政治の改革を行ったのですか? あと、大化の改新では誰がどのような政治を行ったのでしょうか? 教えてください!!!お願いします!

みんなの回答

  • nazca091
  • ベストアンサー率20% (76/362)
回答No.3

聖徳太子の時代(七世紀初頭頃)から、その存在が日本書紀(七二〇年)に聖者として描かれるまでに100年以上が経過しているんですね。 この時代の100年という時間は、現代の我々が江戸時代や戦国時代のことを考えるのと変わらないような時代の隔たりがあるのではないかと思えます。 しかもこの間に大化の改新、壬申の乱、持統天皇による皇統の私物化など多くの政変が発生しており、日本書紀の記述を額面通りに受け取ることは出来ないのでは、という考え方があるわけです。 つまり8世紀初頭の権力者にとり100年前の厩戸皇子を聖人化する必要があっただけでは、という事です。 当時の大和王権は蘇我王朝といってもいいぐらい蘇我馬子の権勢が強大で、実はこの時期の政策はむしろ蘇我政権の功績ではないのかという説もあるほどです。 聖徳太子の仏教への執着はいささかカルト的だったともいわれ、彼が馬子との対立から斑鳩宮に引き籠った時人々はこの宮を獣の館と噂して忌避したとも言われています。太子の母親は用明天皇の皇后だった穴穂部間人皇女だったのですが、夫の死後他の妻が産んだ義理の息子と密通し女の子を産んだという話があり、このスキャンダルにより太子は皇位相続の有力候補から脱落したとも考えられています。 また当時の推古天皇(用明天皇の妹で、異母兄だった敏達天皇の皇后)が実子である竹田皇子の即位を望んでいた為聖徳太子はそもそも皇太子ではなかったとも言えます。(皇太子という制度が確立するのはこの半世紀ほど後の天武天皇の時代からとも言われてます⇒吉野盟約) この為、馬子との政争に敗れたというより、彼が作ろうとした仏教の楽園的な世界観が当時の人々に受け容れられなかったのではないかとも考えられるのです。 大化の改新は専横を極めた蘇我氏を排除するため中大兄皇子の義挙のように語られてますが、この中大兄皇子・天智天皇という人は額面通りの英雄ではなく、別の意味で面白そうな人物です。 645年の大化の改新といいますが、実際はこの年のクーデターは乙巳の変と呼ばれるべきで翌646年元旦に発せられた改新の詔が明治時代になって大化の改新と称されるようになったのです。(同時に天智天皇の息子で壬申の乱で敗れた大友皇子が弘文天皇として追号される等の歴史の改変(改竄・改悪?)が行われました) ただこの改新の詔は現在の年初における所信表明みたいな物だったとも考えられ、政策自体も聖徳太子の時代に行われた物の焼き直しだったり、蘇我政権時代の功績を頂いちゃっただけじゃなかったのかとも考えられ、実質的には大したことはしていません。 乙巳の変後に即位したのは中大兄皇子の叔父にあたる孝徳天皇だったわけですが(入鹿謀殺の現場を目の当たりにした当時の天皇は中大兄皇子の実母皇極天皇であり、孝徳天皇はその実弟)、両者はすぐに仲違いを起こし孝徳天皇は実権を握った皇子により放置プレイをされて憤死します。 その後を継いだのは皇極天皇が重祚して斉明天皇になりその死後(この間白村江の大敗北などがありました)、皇子が称制期間をおいてやっと天智天皇になったわけですが、乙巳の変から実に20年以上経ってました。 この事からも当時の天皇制や権力構造の実態を窺い知ることができます。

  • konata508
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回答No.2

私の意見です。参考までに。 参考URL 「聖徳太子」(Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90 これによるとそのそも「聖徳太子」と呼ばれた人物が実在したかすらわからない状態のため、何を目指して国づくりしたかも資料の著者の持論となります。そのため、若干の解釈の違いがあり、どの資料?となってしまいます。一概にこれと言えません。(昨今では教科書にあがることも少なくなったと思いますよ)答えとすればそう呼ばれた人物が行った史実を知り、あなたがどう感じたかを書くのが正解だと思います。 また、「大化の改新」についてはこちらを参考にしてください。 参考URL 大化の改新(Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0 これについても話が長いので 「誰が」「どこで」「何を」「どうした」とか単語で書き出したほうが楽ですね。

  • nama777
  • ベストアンサー率26% (183/699)
回答No.1

聖徳太子!またずいぶん昔ですね。 あの時代の政治課題といえば、豪族連合から脱却しての天皇集権の確立だったと思いますよ。というのは、推古天皇の先代にあたる32代崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、その後も朝廷を牛耳られてますから、厩戸皇子が位についた頃は政治はぐちゃぐちゃだったはずです。 で、蘇我氏追放~天皇集権確立の集大成が大化の改新だったと思います(→律令制)。天智天皇から天武天皇の治世にかけて官僚機構整備などをやってますから、今につながる官僚政治の根っこはこの時代にあるともいえる訳ですが ^ ^;