「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。
スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。
この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。
この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。
町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。
路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。
私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。
もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか?
すくなくとも科学技術ではありませんね。
我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか?
キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。
そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。
だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか?
現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。
お礼
ありがとうございます!! チェックしてみます!!! それと、勘違いしないで欲しいんですけど、ロンロン王子がもとかというのはわからないです!! グルグルで記憶にあるそれっぽい映像がケツにぱんはさんでたっていうだけです。 紛らわしくてすいません 汗 何処のサイトにも詳しい元ネタがのってないので探してました。