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宗教による母子関係で精神疾患を感じている私の悩みとは?
- 宗教による母子関係で感じる情動の歪み。精神科通院を考える背景とは?
- 宗教的な教育を受けたが、組織の人間が嫌で退けるようになった。母の存在も疎ましく感じている。
- 結婚を考えるようになり、子どもを持つことへの恐れ。宗教連鎖の継続と自身の指針のブレについて悩んでいる。
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これは、あくまでもわたしの個人的な意見であり、何人も、どの思想も否定するものではありません。 それを前提にお読みください。 わたしも、似たような環境で育ちましたが、母のことは好きです。彼女は、彼女で、皆のことを思って、宗教に帰依しているようですし、わたしは、わたしで、大人になって自分なりに学んだ幾つもの思想の中に感じた真理を、個人的に信仰しています。 現代に残る宗教というのは、既に幾世代も経て、政治的な干渉も入り交じってしまい、中枢部の真理は変わらずとも、祖とされる人の言葉が純粋なまま残されているとは、断言出来ないと思います。 さらには、集団心理による、威圧感を、わたしは、感じてしまいますので、わたしは距離を置くことになりました。 そもそも、その思想は、誰かが考えたもので、自分が考えたものではありません。 その思想が、本質的に自分の思想になるには、自分の経験や事実基づく確かな共感が必要だと、わたしは、考えています。 つまりは、確かに何かの出来事でこの世は作られており、幾重にも繰り返された命の営みの結果、自分が存在している。 というのは、確かです。ですから、それまでの経緯について感謝することは、確かなわたしの感情です。 しかし、死後についてのあらゆる宗教的見解は、誰かが考えたことであって、それが正しいのか、と問いは、信じるかという問いと等しいのです。 神仏が、願いを叶えてくれる存在であるというのは、正しいかというのは、これも信じるかという問題です。 しかし、あらゆる出来事によって、さっき死なずに、今も生かして頂いているということに感謝するのは、わたしの確かな感情です。 このように、自分で得たものは、その人にとっては、真理です。誰にも介入することは出来ません。 つまりは、わたしの母が、信じるその真理において、わたしの真理に彼女が介入出来ないように、わたしは、彼女に介入出来ません。 わたしと母は、親子ですが、別人格なのです。 それぞれが、自分で考えて、選んでいくべきなのです。 もしも、質問者さんが、神仏にすがりたくなっても、問題はないと思います。 結局は、お母様とあなたと、いつか生まれるお子さんの、それぞれの人生であって、それぞれの選択に任されているのですから、恐る必要はないと思います。
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- satoshite
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かえるの子はかえるって言葉があるし とんびが鷹を生むって言葉もあるし どっちに転ぶかはやってみないとわからないですねぇ
お礼
satoshiteさま ご回答を頂いていたのに、お礼もせずに失礼しました。 現在、家の近くで評判の診療内科の先生(主治医)に2週間に1回程度で通いつつ、休職中の会社の産業医に月1回ペースでカウンセリングを受けながら、一方で自分でもネットでいろいろ調べたりして、図書館で本借りたり、本屋をのぞいたりしています。 その関連でヒプノセラピーにも通っています。今は3体制です。 おかげさまで少しずつ自分を見つけ出しています。 今まで本屋といえば”ビジネス”棚や”自己啓発”棚しか見なかった私ですが、今は”精神世界””スピリチュアル””行動心理学”など幅が広がり、あらゆる専門家の本をさらっとまんべんなく読むことで幅も広がったように感じています。 最初の一歩となった、こちらのご回答者さま皆様に改めてお礼方々返信をさせて頂きました。 ありがとうございました。
- precog
- ベストアンサー率22% (966/4314)
No.1です。 親の考えからの離脱と自分にあった価値観への再構築はなかなか大変ですよ。親の習慣が身についてますからね。ともすれば引き戻されがちになります。 >どのような理由から、青年期におさらば出来たのですか? >私は、成長過程に何かが育って来なかったのだと思います。 問われて過去を思い出してみたんですけど、考えてみるとわたしは小さい頃から先端の科学技術が好きで、ずっと追っていました。ITで語られるアメリカンドリームに憧れてそれを追ってきたので「安全第一」では何も成しえないことを薄々感じ始めて離脱が始まりました。学生時代は親の説得に従って違和感を覚えながらも学校にとどまってましたけど、やはり今になって考えてみると失敗でした。でも親が居なくても正しい判断は出来てませんでしたけど。(無理にでも渡米すべきでした) いまでもたいした人間になってませんので、親の影響を引きずってますね。人生の要所要所で自分に足かせをはめてしまってます。でも、今はそれが逆に不況から守ってくれているので複雑な気分ですけど。 >感情の波が大きく荒れて母に対する怒りなどで涙が止まりません。 親の否定が第一ステップですね。 >本当は宗教のない世界で、どうせ生きなければいけないならひっそりと過ごしたい、そんな風に感じてます。 心の中に根付いているものを全面否定しようとしているから寂しいんですよ。そのうち整理がついてくれば「使えるものは使おう」という気になります。そのときは「凌駕した」という感覚をもてます。 >嫌悪の対象が母であること、それを認めたことなど、今回ご相談したことで、自分のこころが少しずつ見えてきました。 あなたが自分の道を見つけられれば、お母様のことをより理解できるようになると思います。今はこう言われても腹が立つだけだと思うけど。 時間掛かりますよ。根気よく。人間は一生をかけて成長していくものだと思います。 >私は、成長過程に何かが育って来なかったのだと思います。 ありきたりに言えば「反抗期」かな?
そうですか。病院へ行かれたことで、少しは前へ進めたようで良かったです。 伊藤守さんという方の本がわたしは、好きなのですが、彼の本から学びました。 いつも人は、縛られたり、握られたりしているのではなくて、縛ったり、握りしめているものだということ。 だから、その手を開いてしまえば、良いのだということ。 いつか、固まった手のひらが開くと良いですね。
補足です。 ※これは、最終手段です。 宗教の自由について法の下守られていることについての条文は、ご存知かも知れませんが、憲法20条です。 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html 時には、これに関連する法律を駆使していかなければ、ひとつの宗教から離れることは難しいこともあります。 実際わたしも、少しは法律を話の中に持ち出したことがあります。 ネットで検索すれば、直ぐに関連条文は出てきます。
わたしも、十代の頃は、母に理解を得るには時間が必要でした。しかし、わたしは、小さい頃から物書きをしていたり、自分の感性を大事にする人間であることを、母が誰より知っていますので、成人を過ぎてからは、次第に理解を得るようになりました。 しかし、こちらからも歩みよりは必要だと思っています。 母のいる教団の人たちが、母の頼みで、折々に我が家に先祖供養に来て下さいます。 そういう時は、形にこだわらず、わたしも皆さんに倣って、一緒に拝みます。 人様が、先祖を敬いに来て下さっているのを、無視して、ひとり部屋にこもっているのは、ただの意地っ張りですから、家の者として、そこに一緒に座ることにしています。 しかし、それ以外は、わたしの管轄外です。 母は、教団の支部の会計係を任されている手前、教団の人たちが、わたしを誘いたいと、あまり強くおっしゃる場合は、仕方なく家へ連れて来てしまいますので、その時は、お断りしています。 一度は、何の前触れもなしに、半ば強引に押し掛けられ、出たくないと言っても、母が押しきられたので、お話はお聞かせ頂きましたが、そういうことはもうやめるように言ってと、母に怒ったこともあります。 わたしは、母は、好きですし、別に本当は母は、悪くないのを知っています。母が、色々言い訳を考えて、わたしの感性を守ろうと努力してくれているのを知っています。 だから、それで良しと思っています。 それからわたしも、一度家へお供養に来て下さった、わたしの幼少を知る人たちには、わたしなりの信仰があることをしっかりお伝えしています。 その方たちは、少なくとも、強引なことはされません。 時間はかかりますが、これは、もう本当に自己努力です。 そして、ある程度、「色んな人間がいるということを受け入れる」という人間関係のスキルとして、相手を許すしかないと、わたしは、思っています。 質問者さんのお母様が、ご自身を責めることになったら、それは、本音で話し合うチャンスかも知れません。 場合によっては、これも長期的な対話になるかも知れませんが、「わたしを、自分で考えて、選べるようになるまで、育ててくれてありがとう」という気持ちを忘れなければ、我が子が大人になったことを受け入れて貰う説得はして損はないと、わたしは思います。 しかし質問者さんが、今お辛いなら、平行して、心のプロに頼ってみるのも良いと思います。
お礼
ご返信をありがとうございます。 感情の波が大きく荒れて母に対する怒りなどで涙が止まりません。 それは昨日、初めて本当に精神科に行ったことと、皆様からのご回答を読み、こうして活字にしているからだと思います。 kayoppeさまのお母様とのご関係をうらやましく思います。 今思うことは、教育の威力の大きさ、というかその影響力の強さに恐怖を感じています。善悪に関わらず植えつけられたその教えは、私の中で根付いており、本当は宗教のない世界で、どうせ生きなければいけないならひっそりと過ごしたい、そんな風に感じてます。 宗教に依存し、自分の頭でものが考えられなくなった女から教育を施され、少なからずそれが影響し、いい加減ものが考えられる歳になっても、まだその洗脳に苦しめられるのです。 嫌悪の対象が母であること、それを認めたことなど、今回ご相談したことで、自分のこころが少しずつ見えてきました。 良し悪しではなく、心の専門家にお力をかりながら、治療に専念したいと思います。 詳細は違うでしょうが、似たようなご経験をお持ちのかたと近寄れてうれしいです。 早くゆがんだ心を完治させたいです。 ありがとうございました。
- precog
- ベストアンサー率22% (966/4314)
>極端な例ですが、子どもが生まれたと仮定して、どんなに聖人君子のような育て方が出来たとしても、例えば青年犯罪の被害者になってしまうかもしれない。例えば、予期せぬ天災の被害に遭ってしまうかもしれない。そういう低確率だけと確かに存在する悲劇に人生の歯車がかみ合わずに回避させてくれる、人とは違うその上の”崇高なもの””絶対的なもの””強いもの”に守られるような気がするんです。 わたしも子供のころは同じように考えました。ただそういう考えとは青年期におさらばしたので、以下は共感できないかもしれませんが、、、 人生にリスクは必ずあります。命は大切ですか? 使わずに大事にしまっておいて、人より長い寿命を生きたとして、それは価値ある使い方でしょうか? 不可抗力で明日死ぬかもしれないのに、全ての可能性を避けて一生取っておくのがベストとは思えません。わたしはひとつしかない命なので有効に使いたいです。そのためのリスクは負います。自分がそうなので自分の子供もきっとそうありたいだろうと考えます。 わたしは事件に巻き込まれる可能性が少なければそれを心配して大切なものを見逃したり浪費したりするのはイヤです。心配して避けられるものなら心配しますけど、世の中にはコントロール不能なことが山ほどあります。欲を出したら罠にはまります。 宗教は確かに心の平安をくれるし、各人生のステージにおける迷いに導きがあるでしょう。身近で死んだ人に対してしてあげたいことなど心の整理も与えてくれると思います。 でもそれは偽者の平安であることを認識しているべきです。つまり効果に見合わないコストが求められるなら振り払うべきです。旧い宗教の良い点は、宗教が根本的に抱えるこういった問題 (信心を私利に利用したくなる) を戒めて生き残ってきてます。 宗教の思想そのものが良心的だからといって、それを取り巻く人たちが良質とは限りません。むしろなんらかの問題を抱えていたり、勝手に解釈したりして薄汚れたものになりがちです。 人はひとりで頑張らなければならない、自分は大勢の中の一人に過ぎないと早くに気がつけば多くの道が開けます。逆説的ですが一人だと気がついたら人と人とのつながりが見えてきます。たった一つの自分 (子供?) の命 (人生) を無駄にしないで欲しいと思います。
お礼
>わたしも子供のころは同じように考えました。ただそういう考えとは青年期におさらばしたので、以下は共感できないかもしれませんが、、、 どのような理由から、青年期におさらば出来たのですか? 私は、成長過程に何かが育って来なかったのだと思います。 それは、本人の努力不足が原因なのか、それとも環境(教育)による母子関係による影響なのか、客観的に自分の欠落を知りたい思いです。
- kill_neiro
- ベストアンサー率0% (0/2)
はじめまして。Under05さんの質問を拝見して勝手に解釈して回答させて頂きます。もし、気にさわるようなことがあってもご容赦ください。 ☆その子ども(私)の幸せを思う気持ちから、半ば忘れかけていた信心が強くなったようでした。 →もともと宗教とは道理を説いているものだと思います。お母様の信心=幸福というような信仰をされているのではないでしょうか?言い換えれば、「信心していれば幸せになれる」というような信仰だと思われます。なので、現在Under05さんが感じている情動の歪みがしょうじているのでは? また、幼少期からそのような状況が続いているとすれば、信仰しているが故の束縛(活動・会合参加等)本来必要な愛情をUnder05さんに与えていない状況があったのではないでしょうか?そのような場合、考えられるのは、Under05さんの心が十分に育ちきっていない可能性がありそういう意味での精神疾患(アダルトチルドレン)があるかもしれません。 ☆その宗教の教えそのものは崇高なものと感じていたのですが、組織の人間が嫌で退けるようになりました。 →Under05さんの自身も組織につき活動・会合等に参加し、良いものと感じながらも、理不尽な誘い等、信心=幸福の観念にとらわれた先輩の言動・行動により嫌になられたんだと思います。 先にも述べましたが道理に反する事は、信仰者だろうと聖職者だろうと行ってはいけないと思います。要するに信仰していようがしていまいが自分自身が友人・地域で信用される人間になるかどうかが信仰だと思います。Under05さんは道理を貫いてください。応援しています。
お礼
kill_neiroさま ご返信をありがとうございました。 お互いだけが、感覚的に理解し合えている感覚を得られ、心が落ち着きかけています。 私は私の道理を貫く… 非常に心に刺さる一言でした。 ブレない軸を確立していきたいと思います。 ありがとうございました。
- precog
- ベストアンサー率22% (966/4314)
宗教をそこまで客観的に見れるなら、コントロールできるように思うんですけどね。 情動に問題があるとは具体的にどういった点なんでしょうか? それは単なる価値観とか立場のスレ違いとかではなく? >守る存在が出来た時、人とは違うその上の”崇高なもの””絶対的なもの””強いもの”に守ってもらいたいと願いますよね。 そんな存在はないってことはわかってるんですよね? 子供を守るのは自分 (と彼氏) であると認識していれば頑張れると思いますし、今の日本で大のおとなが2人で子供を守れないなんてことはないですよね? 信じていた宗教が、信者をどうコントロールし、導こうとしていたのか客観的に理解できるならもうハマらないと思うんですけどね。今度接触するときはコントロールする側に回るときでは?
お礼
precogさま ご返信をありがとうございました。 私は宗教を客観視できているのでしょうか?少しほっとしました。 何においても俯瞰してものが見られる目を備えていたいと思っていましたから。 precogさまのいうように、客観的な目線をもっているかもしれませんが一方で、私のいうところの『守る存在が出来た時、人とは違うその上の”崇高なもの””絶対的なもの””強いもの”』は存在すると思っているんです。 極端な例ですが、子どもが生まれたと仮定して、どんなに聖人君子のような育て方が出来たとしても、例えば青年犯罪の被害者になってしまうかもしれない。例えば、予期せぬ天災の被害に遭ってしまうかもしれない。そういう低確率だけと確かに存在する悲劇に人生の歯車がかみ合わずに回避させてくれる、人とは違うその上の”崇高なもの””絶対的なもの””強いもの”に守られるような気がするんです。 この考えこそが、私が自分の意思とは無関係な幼少の頃に宗教を教えられたゆえんなのかもしれません。
お礼
kayoppe88さま ご返信をありがとうございました。 kayoppe88さまのお母様は、そのご意見を受け入れられていらっしゃいますか? 私もkayoppeさまのご意見に賛同です。しかし親はきっと理解出来ないでしょう。少なくとも私の親は理解が出来ないです。 そして、私が宗教に戻らないのは、自分の信心が弱いからと、自分を責めるでしょう。 そういう、”相手を想っているという押し付け”で私はいつも苦しんできたように思います。 それを理不尽と、嫌悪してきたように思います。 他人なら関わらずにすませられるのに、身内であるゆえ、むげに出来ないのが、さらに善意の悪を感じています。 ・・・愚痴のようになってしまいました。失礼しました。 kayoppe88さまの、”各人が別人格。責任を持つのは各々”という言葉に救われました。 ありがとうございました。