空しいです。おかしいですか。
年末にカンボジアへ行きました。
アンコールワットは、期待に違わず素晴らしかったです。
カンボジア人ガイドのお話も面白く、また色々勉強になる点が多く充実した旅行でした。
遺跡に着きバスを降りると、カンボジア人の子供がたくさん寄ってきました。4~5才くらいから7~8才くらいまでの子供達です。
カンボジアの写真など観光記念になるような品を持っています。
「ワンダラー」「ワンダラー」と言って寄ってきます。
日本を発つ前に日本のガイドブックを読むと、そのような子供から何か買ってやると切りがないから無視して買わないようにした方がいい、と書いてあったので、私は努めて無視して買いませんでした。
そのときは別にそれほど心苦しいとは感じなかったのですが、いまは違います。
カンボジア人ガイドから色々カンボジアについての話を聞くにつれ、だんだんカンボジア人の生活事情が分かってくるにつれ、心境の変化が生じました。
カンボジアは、まだまだ貧しい国であり、そこに住む人々も貧しい生活を送っている、ということが分かりました。
平均寿命も大変短く、男性は54才、女性は58才だそうです。
不衛生なものを食べているからだそうです。子供も早く死ぬケースが多いそうです。
「ワンダラー」「ワンダラー」と言ってものを売りにくる子供達も、生活のためにそうして働かざるを得ないんです。
そのような写真類は要らないので、要らないものを買う必要はないと言ってしまえばそれまでです。
でも、たかが1ドルです。日本円に換算すればわずか90円です。
90円を惜しむ必要があるのかどうか。
要る要らないという判断基準ではなく、そのような子供達の生活のために役立つのだと思えば、何も惜しむ必要はないし、無視することなどないではないか、といま考えています。
あのとき、どうして買ってやらなかったのかと後悔しています。
また、カンボジアは地雷の多い国でも知られていました。
現在は、ほとんど撤去されたそうです。
でも、地雷のために命を落とした人や手足を失った人がたくさんいます。
ある遺跡を見て回っていたら、一人のカンボジア男性が地面に座っていました。
麦わら帽を仰向けに置いて「こんにちわ~」「地雷に当たった~」と言っていました。
でも、誰一人としてお金を置いてやる人はいませんでした。
私も一度は過ぎ去りましたが、思い返してその男性のいる場所まで戻り1ドル札を帽子の中に置きました。
「ありがと」「さよなら」という言葉が返ってきました。
空しかったです。
私自身、いろいろな悩みを抱えていてストレスの溜まる生活を送っています。しかし、経済的には恵まれている方だと思います。
今回のカンボジア観光で、世界には本当に貧しい人々がたくさんいるのだということを、肌身に感じました。
そして、自分だけが幸せでいいのか。
他の恵まれない人々も幸せにならない限り、自分も本当の意味では幸せとは言えないのではないかと思い始めています。
自分一人に出来ることは限られています。
でも、出来る範囲で世のため人のために役立つような生き方をしたいと思っています。
いままでよく他人から「人が良すぎる」と言われました。
そのため何回か騙されたり、旨い話や甘い話に引っかかったこともあります。
毅然と断るのが苦手なんです。
今回、空しい気持ちになったり、後悔したり、自分だけが幸せでいいのか~などなど、感傷的とも取れる心境になったのも、自分の「人の良さ」から来るものなのかどうか、いま疑問に思っています。
皆さんは同じような心境になったことはありませんか。
私は、感傷的すぎるでしょうか。
文章が長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき有難うございます。
お礼
感激です!僕は修行僧暦6年足らずですが、三年程前から、いつか一介の寺の住職になったら、俗家の軒先を一軒ずつこの足でお経を唱えながら托鉢して、集めた浄財でカンボジアやアフガニスタンに埋まってる地雷に苦しむ人達を助けたいと願ってたんです。本当に有り難うございます。(__) 衆生無辺誓願度 合掌。