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現在は無き青函連絡船に乗られた方、どんな印象をもたれました?
現在は無き青函連絡船に乗られた方、どんな印象をもたれました? 青函トンネル開通により1988年に廃止され、 今は無くなった青函連絡船。 青森県から北海道を渡る飛行機以外の交通手段でした。 私は乗船したことはありませんが、 国鉄/JR初期を通して運行された青函連絡船に乗られた方、 どういう印象をもたれたか教えてください。 また乗船時間はどれくらいだったのでしょうか?
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●初めて、青函連絡船に乗ったのが大学3年だった1981年の8月で札幌の某私大を会場とするゼミに参加目的だった事 ●最後の乗船がJR移行以前の1987年3月以前で(1981年8月から)この間に、最低でも2往復半乗船した事 ●多分最後の(函館発)青森着の時だったとの記憶がありますが、札幌→大阪間のルートに連絡線乗船を挟み込んだので、"青森→(所謂日本海縦貫線)→京都→大阪"の白鳥号に青森駅で乗り遅れぬ様焦りに焦った、想いが何故か、20余年過ぎ去った(2008年11/18)現時点でもある事 辺りでしょうか? http://homepage3.nifty.com/sinkun/seikan/seikan01.htm http://yamada.sailog.jp/photos/seikan/jikokuhyou.html http://www.renrakusen.com/modules/menu/main.php?page_id=20op=change_page 更に上掲URLもご参考に・・・・・
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- kuni-chan
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青函連絡船は定員厳守ですから、乗客が多い時は、優先権を持った人からの乗船になります。最初に乗った時(青森→函館)はその事を忘れていて、危うく乗れなくなるところでした。 最優先はその便の乗船券を持っている人。連絡船のグリーン席や寝台券です。 次は接続列車の指定券を持っている人。青森から乗る場合は、函館からの列車の指定券です。 私は両方とも該当しなかった為に整理券をもらい先着順になりました。青森駅や函館駅で列車を降りると、走る人がいる理由がわかりました。 青森から津軽海峡へ出るまでの湾内を航行している時は穏やかで食堂も営業していましたが、海峡に出たとたん波が高くなり、食堂は閉店しました。船底が海面に当たる感じがするくらいです。 帰り(函館→青森)は次便になっても良かったので、優先権を得る為の切符を買いませんでした。結果は予想通り満員で次便になりました。 最後に乗ったのは廃止直前で、名残乗船で満員でした。食堂は長蛇の列で、喫茶室も満席でした。 あと、これは実際に乗っていないのですが、連絡船には貨物船があり、車を航送する場合は乗船する事ができたそうです。
お礼
優先権なんていうのがあったんですか---。
- tosshybon
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多くの方から回答があり、皆さんそれぞれたくさんの思い出があるんでしょう。 私が初めて連絡船に乗ったのは、昭和38年(1963)の夏休み。 大阪から特急白鳥で青森に着き、0時10分発の羊蹄丸(もちろん旧型)函館到着は4時35分。 夜中でもあり、甲板に出ることもできず、古い船の為音と振動と暑さでしかも満員、寝苦しくて早く函館に着かないかなと思ったのが記憶にあります。 その後数回は、船だけ1等の切符を買いました。 新造船が次々にできてからは、居住性がぐんと良くなり、2等でも充分だったかな。 でも寝台とはどんなものか見てみたくて、1度だけ寝台を利用、そのころは所要わずか3時間50分、実際の睡眠は3時間ほどでしょうが、非常に静かで、船特有の振動もなく、ぐっすり眠ることができたと思います。 その時寝台利用者は数人と記憶していますが、係の方が「お名前を」と言って、順に名簿に記入していました。 昼の便も何回か利用しました、食堂ではカレーライスとコーヒーというのが一番人気だと、当時の交通公社発行の雑誌「旅」に記事があり、私もその組み合わせを利用したことがあり、納得したものでした。 関西の人間である私は、青森から乗るときは期待でわくわく、しかし函館からの帰りは、遠ざかる函館山を見ながら今度はいつ来れることかと、しんみりとしたものでした。
お礼
1963年というと新幹線開通前ですね。 1つの時代が見えました。
- kazukun
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もう30年も前の学生時代のことです。 北海道でバスケットの合宿をするために、歌の歌詞の通り「上野発の夜行列車」で青森まで行き、青函連絡船に乗りました。 船から見た函館の夜景はなかなか風情がありましたよ。 ただ、学生の事ですからこの頃の船内と言うかデッキの上はナンパの場所であり、絶好のチャンスだったのです。何せ雰囲気がロマンチックな事と、時間が限られているし、ほとんどは船を下りれば別れ別れになるので女性の側も比較的気楽にナンパに応じてくれるのです。明らかに誘われるのを待っているように一人で手すりにもたれている女の子もいましたよ。だから、周りはにわかカップルが続々とデートしていて、出遅れた私とその仲間は寂しく男同士で歩き回っていました。 その頃は携帯もありませんでしたから、船を下りてから気に入らない相手からしつこく誘われる事もなかったと思います。 船の中ではデートできませんでしたが、夜行列車の中では女の子のグループと仲良くなり、かなり遅い時間までトランプをして楽しく賑やかに過ごしました。昔はそれでも怒られなかったし、何せ旅自体に時間がかかったので見知らぬ人と酒を飲んだり話をするのは当たり前だったのです。 帰りは飛行機で帰るつもりだったのですが、チケットが取れずに再び青函連絡船に乗りました。今度こそと思いましたが、合宿後で疲れていたせいか生まれて始めての船酔いをしてしまいました。 学生時代の懐かしい思い出ですが、船内で何か食べたはずですが、全く憶えていません。
お礼
懐かしい思い出話楽しく読ませていただきました。
- tjhiroko
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NO.4ですが、ちょっと横から一言だけ。 連絡船の中で出されたラーメンは今でも函館で食べることが出来るんですよ。こちらの「ラーメン海峡函館店」です。 http://r.tabelog.com/hokkaido/A0105/A010501/1001644/
お礼
有難うございました! 北海道へ行ったらススキノではなくてここへ直行!
- SWM5903
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確かに… でかい船でしたね。 普通のフェリーよりは広い感じでしたが。 私は1泊浮かすために往復したりしましたが、海峡ラーメンを食べたり、 シャワーを浴びたりして時間が長い割にはどたばたしてた様な気がします。 今でもフェリーに乗る時、ふとあの時のシャワーを思い出します。
お礼
海峡ラーメン、食べてみたかったな。 美味しかったですか?
- ultraCS
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一泊浮かすのにも利用しましたね。 午前4:00くらいの深夜便があり、これに乗ると言うことで、青森や函館の待合室のベンチで馬韓まで寝たものです。青森は病院の待合室にあるような長いす、函館はよく駅などにある一人ずつのプラスチックの椅子を並べたベンチだったので、寝心地は青森の方が良かったです。シュラフに入って寝ていたのですが、大概許してくれました。 正月などはこの便だと船上で初日の出が拝めました。 一度だけ、冬の嵐に遭遇してものすごく揺れたことがありますが、船が大きかったこともあり、それ以外は思ったより揺れない印象ですね(ヨットやっていたのもありますが)。 通常はグリーン船室を奢りました。これは海軍軍人だった父の言葉で、「船だけは命に関わる、金は出してやるから上等に乗れ」というのに従ったものです。宇高は列車のグリーン車くらいの設備でしたが、青函のグリーンは深いリクライニングだったり、カーペット席も定員が少なくて広々としており、乗り心地は良かったです。グリーンには寝台もあったのですが、こちらは利用したことがありません。 あと、海峡ラーメン(食堂で出る海鮮ラーメンです)なんて名物もありましたね。 東北道の青森開通までは、青函フェリーのトラックのメインルートは野辺地~函館航路でした。国道4号を青森まで行かずにフェリーに乗れるので、特にここの深夜便はほとんど満席でした。HBCラジオの交通情報で「野辺地航路深夜便はいつも通り満席ですが」というのが毎日流れていました。このほかにも、青函海峡では大間~函館(これは揺れた)、三厩~渡島福島などに乗りました。あと、長距離フェリーだと、八戸(新産会館の所から出港していた時代)~苫小牧とか、東京~釧路にものりました。
お礼
回答者さんはトラック運転手だったのでしょうか? 貴重なご意見でした。
- hama4
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もう20-30年前になりますかね。毎年夏になるとよく北海道に行ったものです。 私は関西の人間ですので、当時大阪-青森間を走っていた急行「きたぐに」で青森に着き、19時ごろの連絡船に乗って函館着は23時ごろだったと思います。毎年だいたいこの時間でした。 青森港出航時、ドラの音と蛍の光の音楽が流れる中、しだいに桟橋が遠ざかっていく風景はなかなか旅情がありました。 また、北海道からの帰りはいつも、函館14時ごろの連絡船で青森着は18時ごろでした。 夏場の青森行きの便は、仏が浦がよく見えるように航路を東よりに変更して運行されたこともありました。仏が浦の奇岩がごろごろしている風景が間近に見えていました。 青森着が日没のころになり、船から見る夕日も印象的でした。 トンネル開通初日で連絡船最後の日、私は青森-函館間を、連絡船で1往復、トンネルで1往復した後、連絡船最終便を青森港で見送りました。大変な人出で壮大なお祭りさわぎだったことも覚えています。
お礼
夕日を船から見るのは感動だったでしょうね--。
- yasuponpon
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80年代に5,6回乗船しました。初めて乗った時は大阪から急行銀河や特急はつかりなどを乗り継いで行きました。初めての北海道ということもあり、やっとここまで来たと感動したことを覚えています。当時は飛行機は高額で北海道といえば、青函連絡船というイメージがありました。列車の到着時刻に合わせて運航されており、列車から降りた大勢の乗客が桟橋に向かって歩いていました。貨物列車も慌ただしく積み込まれ、珍しい光景を眺めていた記憶があります。旅情たぷりでいい雰囲気でした。午前0時を過ぎてから出航する便もあり確か4時間ぐらいの所要時間だったと思います。各船ごとにオリジナルグッズが販売されていて、船名の入ったステッカーを購入し未使用のまま今もあります。バイクで乗船しようとしてバイクは載せられないと言われて、やむなく並行して運航されていた東日本フェリーに乗ったこともありました。車で乗ったこともありました。やはりフェリーではないので積載量が10~20台と船の大きさのわりには極端に少なかったことを覚えています。色々な思い出がありましたので、廃止になる時は残念でなりませんでした。今はもう昔の話になってしまいました。当時が懐かしく思います。
お礼
旅情はあったでしょうね---。 船内の食事はどうでした?
- URD
- ベストアンサー率21% (1105/5238)
1986年に乗ったのが唯一ですが、薄暗い大部屋にごろ寝でとても旅情を誘うようなものではありませんでした。 青森、函館駅のターミナルで薄汚れた狭い通路を並んで歩かされる様は、アウシュビッツの収容所にでも送られはしまいかと子供心に感じたものです。 国鉄の青函連絡船なきあとは東日本フェリーが青函航路を続けていましたがこれもやはりイメージは同じようなものです。 唯一、1年ほど前から運航を始めた同社の高速フェリーだけは近代的で清潔な設備でしたが燃料高騰のあおりで先月限りで運航をやめてしまいました。揺れや騒音も少なく、いい船だったのに乗る人が少なくてはどうしようもないです
お礼
成程、そういう見方もありますか。
- sumiwaka
- ベストアンサー率22% (462/2090)
子供の頃、何度か乗りました。4,5回乗りましたかね。 父の仕事の関係で、青森県の方に住んでて、その頃、母の従兄弟が函館にいた関係で、函館に行く時乗ってました。 子供心に、お城みたいなおっきな船と思って乗ってました。 揺れがすごくて、その揺れに合わせて、兄や妹と一緒にコロコロって転がって遊んだ記憶があります。 親から酔うからやめなさいと、何度注意されてもやってましたね。 そのうち子供だから疲れて寝ちゃうのですが、降りる頃、たたき起こされた記憶があります。 あと、鮮明に覚えてるのは、窓に、ザブーンと波が来て、きゃあ楽しいって喜んで、どこかのおばちゃんが、子供はいいね、楽しくてって言われたことをなぜか覚えてます。 乗船時間はどれくらいだったのでしょうかね、遊んでは寝てしまうでしたから。もう35,6年前のことです。
お礼
他の回答者の方もそうですが、同じように遊んだ方は多いです。
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お礼
役立つホームページつき! 感謝します。