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心の狭さの解消法って…
自分で考えても堂々巡りで辛かったので、皆様に意見を伺うことに致しましたm(__)m 私はマイナーな漫画・アニメ・ゲームが好きになることが多いのですが、 それに友達もハマると、嫌な気持ちになっちゃうんです。 きっと独り占めしてた気になってるんだと自分でも自覚してるんですが、どうしてもモヤモヤして、気づいたら素直に趣味を楽しめなくなっていく自分が居るんです。 その相手が自己主張激しいって言うのもあるんですが…、 どうやったら「仲間が増えて良かった」程度に、ラフに発想の転換が出来るようになると思いますか? 深く考えずに、気楽に楽しめるようになれますか? 皆さんは、こういった感情を抱く事ってありますか?私が独占欲強いのでしょうか? 目を留めて頂けた方、少しでも多く意見が聞きたいです。 よろしくお願いします!!
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補足2です。 ◆建前と本音 人は、俗に言う「建前」と「本音」があります。建前とは、頭の中で考える考えであり、本音とは腹底の心での考えであります。つまり、人というのは特殊な例を除き、二つの心を常に持ち合わせているわけなので、一つであるという勘違いをしないように注意したいところです。 さて、建前がやたら多いという人が世の中にいますが、一緒にいてどうでしょうか?何を言いたいのか分からない、何を考えているのか分からない、本心隠してええ格好しようとしている、キレイごとばかりでつまらない、と思われると思います。 逆に、本音がやたら多いという人も世の中にはいますが、一緒にいてどうでしょうか?ジコチューだな、とか、本能でのみしゃべってるな、とか、周りの事などおかまいなしだな、とか思われると思います。 建前の多い人、本音の多い人、両方とも困った人であると言えるのではないでしょうか。結論から言うと、相手や状況、話の流れ具合等をしっかり勘案した上で、「建前」と「本音」を自分で選別して、行動、発言していくことが大事であると考えます。当然、会話では、いちいち考えて選別して、では間に合いませんので、瞬間的な判断が要求されます。何を話すべきか、何を伝えるべきか、今伝えるべきなのか、等々を瞬間的に判断するのです。これは、少なからず、経験も必要です。経験も必要という事は、当然、失敗もある訳ですが、この失敗を怖れず、チャレンジすることが重要になります。本音を言うべきところを、建前を言って失敗すること、建前を言うべきところを、本音を言って失敗すること、これは、ある種、場の空気を読んでいかに適切に判断するかが問われてくるわけで、あとは場数という経験を積み重ねることで、こういった失敗を減らすことは可能になるかと思います。簡単ではありませんが、これを意識して行っていけば、建前と本音の使い分けというものが、淀みなく行えるようになっていけると思います。 建前と本音をうまく使い分ける為には、経験も、必要と述べました。それでは、他に何が要素として必要なのでしょうか。それは、まず、自分を知ること、そして、周囲に興味、関心を持ち観察すること、この2点が挙げられます。 自分をもし知らない人であれば、今自分が何を考え、何を思い、何を伝えたいのか、すら分からないので、仮に言葉として伝えたにしても、それが建前であったのか、本音であったのかさえ、怪しくなってしまい、結果として、うまく表現できなかった、失敗した、という結果に陥る可能性が大となります。また、自分を知らない、という人は、自分に対して自信もないので、周囲への興味、関心というよりは、自分が周囲にどう見られているか、どう評価されているのか、に執着してしまい、結局、場の空気を読めない、という結果になってしまうと想像され、周囲への観察は疎かになります。 自分を知るには、善いことをすること、と、失敗したらしっかり反省すること、が必要になります。 善いこととは、人に席を譲るとか、大きな声で挨拶をするとか、困っている人を助けるとか、であります。そして、どんどんやっていくうちに、あることに気がつくと思います。それは、人に対して善いことをすると必ずと言っていいほど、見返りを求めている自分がいることに気づくということです。何か親切をして、普通に御礼の挨拶を貰えればいいのですが、逆に挨拶なしで立ち去られると、怒りに似た感情が吹き上がり、さらには、相手を罵るまでになってしまう事があります。善いことをしておきながら、腹底の心で悪い感情を造り上げているとは、善をしているのか、悪を造っているのか、分からなくなってきます。人は、善いことをしますが、純粋な善はできない、というのが真実です。真実な善ができない中で、それでも善を続けていく事で、見返りを求めている、悪たらしい心が見え、自分の本性、つまりは自分を知ることができるようになります。この嫌らしいかもしれない本性を積極的に受け入れていく事で、自分を明確に知っていくことができます。 自分を知るには、もう一つ重要な要素として、失敗したらしっかり反省すること、というのがあります。人は、失敗する時に、得てして、利己的で悪たらしい心が作用する場合が多いものです。そういった醜い心で犯してしまったが為に、割と責任を認めたらず、結果としてしっかりした反省に至らないケースが多いのです。ですから、反省に至らない人というのは、自分の醜い心を見逃す場合が多く、自分を知るチャンスを逃すことになるのです。これは、非常に勿体ないことです。ここは、勇気を持って、積極的に失敗の責任を認め、失敗を受け入れることで、反省をし、自分の利己的で悪たらしい心を嫌というほど見つめて貰いたいものです。そうすれば、確実に、自分と向き合え、自分の本心、本性を知ることができるのです。 善いことをすること、反省をすること、は一日、二日程度で良いわけではありません。永遠に努力していく事が大事であるし、し続けなければ全く意味も、成果も得られません。日々、続け、自分の本性を知らされていく中で、当然自信もつき、人と接していても臆することなく渡り合えるようになっていくものと推察されます。そうなれば、あとは経験のみ。建前と本音をどういう雰囲気の時に、どういうタイミングで、どちらを出していくべきか、が感覚的に分かっていき、いつのまにか建前・本音を選別しきる達人になっていることでしょう。 ◆自分のせいにしても、少しも辛くない! 他人のせいではなく、自分のせいにすると、人は、とても生きやすい人生を歩めます。これは、紛れもない真実であり、これに反する事ほど愚かなことはなく、しかし、人は、故意のいかんにかかわらず、得てして、他人のせいにしてしまう傾向にあります。 自分に災難が降り懸かります、そして嫌な感情になったりします。こういった場合、人はどう対処しようとするのでしょうか?こういう状況に置かれた、あるいはこういう状況に陥ったのは、自分のせいではなく、他の誰かのせい、周りの環境のせい、社会のせい、生い立ちのせい、等々、なんでもいいから責任転嫁し、自分の負担を少しでも軽減しようとします。これが正しい、正しいに違いない、仕方ない、という思いにしがみつき、自分の思いや行動を肯定しようとします。そんな中、もし、「お前のせいだ!」と直言されたなら、どうな思いになるのでしょうか? 「え~、私は悪くないのに、どうしてぇ~! でも、私が悪いの?!」 ここで、自分のせいであると認め、受け入れていない人は、とてつもない苦しみの中に落ちていきます。とても辛い状態です。災難の責任は、自分ではない、と思っているので、他人から責任の所在を指名された事は、青天の霹靂であるし、認めたくない事実です。しかし、これが現実。なぜ、私が責任を負い、苦しまなければならないのぉ~!、という蟻地獄に引きずり込まれていきます。 ここで、何が起きているのか。この人は、実は、自分を美化し、自分は災難の責任を負わなければならないほど、惨めで情けなく能力がない人間ではない、という間違った妄念にかられて、現実の自分を受け入れられなく、そして、必要以上に現実の自分を責め立て、攻撃し、一人上手のように、消耗していっているだけなのです。美化した自分と、現実の自分のギャップに苦しみ、なおかつ、その現実の自分を認めたくないために、自分を責め立て、追い込んでいる、愚か者にしか過ぎない、という事です。 では、どうすれば苦しみから回避できるのでしょうか? それは、まず、必要以上に自分を美化しない事、そして、災難が起きたら、自分にも責任がある、と引き受ける、あるいは認める事、が大事です。そして、災難を引き起こした等身大の自分を、事実として認め、受け入れ、必要以上に責め立てない、ことです。自分が災難を引き起こしてしまう位に元々、愚かしい人間である、という事が分かっている人は、「な~んだ、今回の1件は馬鹿な私のミスから起きたものなのか。ハハハ、しょうがない自分だなぁ。ま、しかし、仕方ないよね、飾っても意味ないし。周りには迷惑をかけたから謝っておかなきゃ。」という感じで、素直に事実を事実として受け止められます。こういう姿勢で人生を歩んでいる人は、なにか災難が起きても、苦しんだり、辛い思いをしたり、引きずったりすることは、極力少ないと推察できます。 人は、浄い存在ではなく、不浄な存在です。その不浄な自分を事実としてしっかり受け止め、受け入れてあげる事がなによりも大切なことです。そうなれば、何かハプニングが起きたとしても、一喜一憂することなく、現実の自分と向き合い、一つ一つの問題をクリアできる逞しい生き方ができるようになることでしょう。 ◆過去は変えられるのか? ふっと過去の記憶が蘇ってきて、嫌な思いにかられる時があるかと思います。もう忘れたかな、と思う頃に、無遠慮に登場してくる嫌な記憶。打ち消したい、忘れたい、封印したい、という嫌な記憶というものに限って、いつまでも忘れられなく、その記憶に支配され翻弄されてしまうのは、よくある話かと思います。その記憶一つで、その後の人生全てが影響されてしまっている、変わり果ててしまった、という人もいることでしょう。 嫌な記憶とは、過去の自分の苦い経験ですが、その過去は変えられないのでしょうか? 過去の苦い経験、苦い事実自体は当然変えることはできませんし、消去することもできません。しかし、その苦い事実に対しての心の捉え方は、どのタイミングにおいても変えることは可能です。人は、その苦い事実を経験した時の感情や心での捉え方に依存されてしまう傾向にあるので、なかなか変えられなく、苦しんでしまうことがよくあります。ただ変える、と言っても、自分の都合のいいようにデタラメに変えたり、ねじ曲げたりすることでは、苦しみから逃れるという意味では、なんら意味を持ちませんので、正しい変え方を知ることが大切です。 過去の苦い事実に対しての心の捉え方をどう変えたらいいのでしょうか。この苦い事実に苦しんでいる人の大半は、恐らく、この事実から逃避しているか、この事実を他人のせい、環境のせい、社会のせい等にしているか、自分の責任ではないとしているか、周囲の人達と比較し自分は情けない存在であると自ら責め立てているのか、のいづれではないかと思います。これらは、全て事実に対して真摯に向き合うことを拒否しているものであり、事実を事実として認めていないという事です。まず、事実を事実として受け止め、そして受け入れ、その苦い事実の原因は自分にある、つまり自分の責任する、ことが必要です。 事実に対して真摯に向き合い、自分の責任である、という事を受け入れ、しっかり認識できれば、過去の苦い事実に対しても、捉え方が変化していきます。他人のせい、環境のせい、親のせい、等々、その苦い事実の原因を他に求めていた時は、「恨みの心」が支配的で苦しんでいましたが、一旦自分のせいである、と潔く全てを引き受けてしまえば、恨みや呪いといった悪々しい心は確実に軽減されていき楽になるはずです。 「な~んだ、あのことは自分のせいであったのか。色々な人のせいにしていたけど、馬鹿であったなぁ。恨んで恨んで苦しんでいたなんて、なんて愚かだったのだろう。事実から逃避して、苦しんでいたなんて、勇気がなかっただけだったんだなぁ。」 過去の苦い経験も心での捉え方が変われば、それほど大したものではなくなります。つまり、心の捉え方として、不条理ではなく、条理に捉え直せば、言い換えれば、他人のせいではなく、自分のせいとするならば、過去は変えられる、という事になります。 トラウマがある、とか、フラッシュバックに悩まされる、とか、現代社会ではよく聴かれる話ですが、根本的に、ものの捉え方の間違いから起因している場合が大半である、と言ってもいいかもしれません。 人は、事実に対して真摯に向き合い、反省し、自分の責任とする、という行為を極力嫌い、避け、愚かにも周囲を恨んで生きています。逃げて逃げて逃げまくり、自分で作った虚偽の捉え方で苦しみ、一生を「恨みの人生」で終えていく、これが愚かな人間の生き様そのものと言ってもいいかもしれません。 ◆プライドとは何であるのか? プライドとは、自尊心、誇り、と日本語では表現されると思います。自尊心とは、「自分の思想や言動や才能や仕事について自信を持ち、他からの干渉を排除する心」ですが、簡単に言うと、自分を尊ぶ心です。自分を尊ぶとは、自分は素晴らしい、すごい奴だ、と理想化し、思い込む事だと思います。ですから、プライドとは、自分で勝手に思い込むものであって、実体はなく、妄想と言えるのです。その証拠に、「あなたのプライドって何ですか?」と唐突に質問されたら、恐らく明確には答えられないはずです。せいぜい、過去の栄光を並べ立てるだけだと思います。 人間は、弱い所があるので、こういった虚飾のプライドにしがみついて、生きていかないと、心許ないと思う性質があるのです。しかし、プライドを持って、良いことなんて何もなく、逆にマイナスの要素と言えるでしょう。プライドを持つ事で、相手の意見は聞けなくなり、相手もプライドを鼻にかけた態度に嫌気をさし当然のごとく距離を置き、いつのまにか孤独に陥る場合もあるのです。このプライドの持ち方がさらに過剰になると、協調性のない奴だとレッテルを貼られる可能性もあるので注意が必要です。 人は、プライドを持つと、実際より高い自分を設定します。これは、理想の自分です。こういうような人が、周りの人に馬鹿にされたり、弱点を指摘されたりすると、実際の自分に気づかされたり、実際の自分と向き合わなければならなくなるので、惨めな気持ちが出てくると同時に怒りも出てきます。「本当はそんなダサイ人間じゃないんだ。すごい奴なんだ。」と。実際の自分を見せつけられた事で、相手に見下された、嘗められた、と短絡的に判断し、怒りの矛先を相手に向けることで、プライドを保とうと無駄な抵抗をしたりします。 この怒りの原因は、どこにあるのかというと、実は、己の中にあるのです。勝手に、自分を理想化して、実際の自分とのギャップに驚いているだけなのです。まさにプライドを持ってしまったが為の弊害と言えるでしょう。実際の自分と日頃から常に付き合っていれば、相手に馬鹿にされても、怒りはさほど起こりません。自分は、愚かしい存在だ、失敗もするし、嘘もつくし、時間も守れない、そんな人間だ、と捉えられれば、そして認められれば、相手に何を言われようが、気になることはありません。しかし、完璧な人間であるに違いない、自分は誇りを持った立派な人間なのだ、と勝手に理想化してしまうと、相手の攻撃にいちいち目くじらを立て、心穏やかにはいられないでしょう。 なぜ、人はプライドというまやかしの魔術に依存し、填ってしまうのでしょうか? 人は、とにかく弱い存在であり、日々不安で不安でたまらない生活を送っています。周囲の人の中で、自分より自信がありそうな人や、強みを持っている人がいたりすると、急に自分の存在への疑問が湧いてきたりします。自分には、周囲に誇示できるだけの何かがあるのだろうか、このまま生きていって大丈夫なのだろうか、と、様々な不安に苛まれ苦しみの中に落ちていってしまいます。そんな中にあって、プライドという魔術は、不安な自分を一過性ではありますが、他に対して優位性を確保してくれると同時に、ちょっとした自信もつけてくれるのです。一種の“優越感状態を満喫”と言えますでしょうか。しかし、もともとが実態のない虚栄心とほぼ同等であることから、このデタラメのプライドというものは、時と共に脆くも崩れ去るのが運命であると言わざるを得ない虚構そのものなのです。 正直、なけなしのプライド、不毛なプライドは即刻捨てるべき、と考えます。今まで、プライドを持って雄々しく生きてきた人にとって、今さら自分の分身を捨て去ることは到底出来ないとは思いますが、このプライドという代物は、百害あって一利無し、という迷惑千万の疫病神と言ってもいい存在です。つまり、生きていく上で障害にはなるが、決してメリットはない、ということです。よく世間では、「プライドを持て!」と、当然のごとく言われたりしますが、あれは無責任なアドバイスであって、全く根拠のあるものではありません。プライドを持つことで、自分を実体以上に見立て、自己暗示しているだけです。この状態に填ってしまうと、自惚れ、過信、奢り、傲慢、といった悪い心が芽生えてしまい、周囲に迷惑をかけると同時に、自分の人生にも暗雲をもたらすことになります。 不安を解消するために持ってしまうプライドの代わりに持つべきもの、それは自信です。自信をつける為には、周りの意見を聞ける謙虚さが必要であり、間違いを犯したら、すぐに頭を下げて謝れる姿勢が必要です。これは、プライドを持っていたらできないことだとお分かり頂けると思います。 このプライドというバリヤーを外すことで、真の自分を知り、そして自信に繋げていくことが、この世知辛い世の中を不安なく闊歩していく為の唯一の道であることを改めて認識して頂ければと思います。 ◆人に伝えることは難しい 人にある出来事を伝える時、我々は最適であろうと思われる言葉を選び、そして伝えます。それで、相手が頷いたり、理解を示したのならば、その時点で相手にうまく伝わったのだな、と概ねの領域で判断します。ここで、敢えて概ねという曖昧な表現にした理由ですが、それは相手が頷いたり、理解を示したという意思表示をしたとしても、”雰囲気として了解しかねる”、という気配を醸し出している場合が多々あるからです。この顕著な反応、つまり了解しかねる、ということから、「いかに人に物事を言葉を使って伝えることは難しいものか」が垣間見れるのですが、得てして人というのは鈍感な動物であったり、独りよがりな動物であったりするので、「伝わっているに違いない」、「たぶん伝わったでしょう」で、その場を処理してしまいがちです。 「男というものは、浮気をしてしまうものだが、浮気をしていいわけではない」 上記を背景等が全く設定されていない中で、人に伝えたとします。その場合、受け手の人はどう解釈するのかというと、「男の言い訳」、「倫理的な解釈」、「男を説教する時に使うセリフ」、「女性の嘆き」、「女性からの警告文」等々、様々な捉え方をするものです。このセリフを伝えた当の本人にすれば、ある意図一つをもって伝えたにもかかわらず、相手の立場、相手の性、相手の思想、等々の様々な要因によって、如何様にも変じてしまい、誤解釈されてしまう場合もあるのですから、ある意味怖ろしいことと言えます。ですから、自分の思い込みによって、自分が意図することが正確に、間違いなく相手に伝わる、伝わるに違いない、伝わって当然だ、という考えは、非常に危ない思想であり、その思想を省みない人生は波乱含みであると言えるかもしれません。 人生を渡り歩くためには、どうしても人との関わりは避けて通れず、しかもその中で、人に伝えなければならない事も多く発生してきます。自分は、ちゃんと人に伝えているとの思い込み、勘違いは、時として大問題を引き起こしたり、トラブルの要因になったりするので、見過ごすわけにはいかない問題と言えます。だからと言って、人に伝えないということを選択するのがいいか、と言えば、当然そうではなく、伝えるべきことは伝えなくてはなりません。ここが、非常に難しいところであり、人間として悩ましい問題なのです。 では、こういった悩ましい問題である、人に伝えること、に対してどう対処していけばいいのでしょうか? まず、心得として、自分が思ったこと、感じたこと、伝えたい意志というものは相手に正確には伝わらないものだ、という認識を持つことが重要なことです。最初から、うまく伝わらないものだ、と捉えていれば、人は、一つ伝える時に、様々な言葉や、様々なジェスチャーを使うなど様々な工夫をし、努力をしようとするものです。譬えるならば、ボキャブラリーの乏しい子供に、身振り手振りや表情等で、一生懸命伝えようとするお母さんのように、と言えます。大人なのだから、これ位の物言いで伝わるはずだ、というのは、あくまで自分の勝手な解釈であり、自己中心的と言わざるを得ないかもしれません。 相手に正確には伝わらないもの、と述べましたが、なぜそういうことが起きるのでしょうか? まず、人は思ったこと、感じたことを伝える時、その思いを言葉に変換しようと、自分のボキャブラリーの中から探し出そうとします。そして、これだ、と思う言葉を使って伝えますが、時には適当な言葉が見つからない場合もあります。そんな時はどうするのか、というと、その思いに近い言葉を使うとか、修飾語を多用してみるとか、例え話にするとか、雰囲気で伝えるとか、をすると思います。ここで言えることは、自分の思いというものが、必ずしも言葉に合致するわけではない、もっと言ってしまえば、言葉に変換できるない場合が大半である、ということなのです。ですが、言葉に変換できないということを全面的に肯定してしまうと、社会生活上、支障がでてくるのも事実ですから、人は、曖昧な表現でも良し、とし、その表現を持って人に伝えているのです。その曖昧表現に慣らされてくると、「あの人は、私がちゃんと伝えたことをなんで理解してくれないのだ!」と、相手に対して攻撃的になり相手を責めますが、実は、自分が自分の思いを正確に伝えてないことがそもそもの原因なのです。 思いを表現するのも、自然を表現するのも難しい。空の色を言葉で表現するとどうなるでしょうか?空は青い、で終わってしまう人もあれば、空は蒼白色にて時々刻々変わるもの、と詩人っぽく表現する人もいるでしょう。突き詰めて言ってしまえば、空の色を言葉で表現することは不可能であると言えます。しかし、人間のエゴイズムによって、空はこういうものだ、と様々な形で表現され、その刷り込みによって、あたかも空の色を知っているかのように過信してしまうのがこの世の中です。 人に伝えることは難しい、このことをまず認識することが大切であると考えます。自分の思いを、知っている限りのボキャブラリーの中から探し、その最適と思われた言葉で相手に理解しやすいように伝える、そして、相手の表情や雰囲気によっては、補助的に言葉を足してフォローする、こういった努力は最低限必要なことだと思います。しかし、これだけの努力をしても、伝えるということは、必ず相手のいる話であり、相手の受け止め方次第であるので、必ず伝わったとの過信には注意したいものです。
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補足します。 ◆人の本性は? 人は、本音と建前を持って生活しております。本音だけ、建前だけ、では、当然人生はうまく渡ってはいけません。本音と建前をうまい具合に使い分けしないといけないのですが、相手次第で受け取り方が違う事情から、トラブルになる事も多いかと思います。さて、ここでスポットにあてたいことは、人間の本音とは一体どういったものなのか、という事です。 人の本音とは、本心、本当の心、腹底の心、と言えると思います。この本心というものは、普段気をつけて見ているものではありませんが、キレイなものなのでしょうか?それともキタナイものなのでしょうか? 例えば友人がいきなり、「彼氏ができたの!」、と喜び勇んで報告してきたとします。目の前では、私が世界中の幸せを独り占めしているかのように笑っている友人がいるわけです。「へぇ~、良かったね!」と、あたかも一緒になって喜んでいる表情を見せつつ、内心は、というと、「どんな奴がこんな娘を好きになったんだろう」という悪たらしい事を平気で考えていたりします。これが実は何を隠そう、人間の本心です。決して、キレイなものではなく、キタナイ心と断言しえる醜悪な心なのです。思ってはいけない、いけない、と思いつつも、悪い心が蠢動してしまい、言動や行動に時として露呈し、大失敗を犯したりします。 人を裏切ってしまう心、人に嘘をつく心、人を蹴落とす心、人を罵る心、人を妬む心、人を謗る心、人を卑下する心、人を軽んずる心、自分だけが得しようとする心、等々、数え上げたらキリがない位、人は、本心では悪い事を考えています。浄い心ではなく、真実は、汚い心なのです。自分の心くらいはキレイであって欲しい、という妄想で、汚い、という真実を拒否しがちですが、これが私の本心なのだ、というように、真摯に受け止め、受け入れ、認めることが肝心なことなのです。 ここで注意が必要なのは、本心が悪ならば、悪事を働いてもいいだろう、と短絡的に考えてしまう事です。これは、間違いです。本心が悪である事が認識できれば、その悪を発動させないように注意しながら、日々の生活をしていくのが必要です。もし、自分にとって悪い縁であると分かったならば、その悪縁を遠ざけ、自分の悪性を発動させないように行動する事が大切なのです。 人はよく妄念によって、何事に対しても美化したがります。自分の心は浄い、あの人の心は浄い、というように、心に対しても、間違った美化をしてしまいます。それでいて、自分の本心が汚いという事に気づくと、美化した本心とのギャップに苦しみ、最終的には汚いという事実を押し隠す事をしてしまいます。事実に背いて生きていくという事、これは自分に対して嘘をついて生きていく事になり、精神的なストレスを多く抱える結果となります。 人の本性とは何なのか、その真実をしっかり見極めて、認めていく事が大切です。自分の本性を知ると、少しずつですが、自信がつき、人生に対しての不安も軽減するので、悪性たる自分の心から逃げずに受け入れるよう努力して頂きたいと思います。 ◆自信が持てないのは、なぜ? 自信とは、「自分を信じること」だと思いますが、人はなかなか自分に対して自信が持てないものです。その原因の一つとして考えられるのは、周りの人間が立派に映ってしまう、そう見えてしまう、あるいはそう見てしまう、という人間特有の妄念(迷いの心)があるからだ、と言えます。こう見てしまうと、自分自身は情けなく、心許なく、小さい存在だ、と卑下してしまうので、当然自信なんてものは持てなく、自信がない、になってしまうわけです。これは、妄念自体に誤りがあるので、それを是正すれば、自分を卑下しないようになり、少なからず自信を持てるようになります。 自信が持てないもう一つの原因を考えていきたいのですが、それは何なのでしょうか? それは、自分の本当の心、本心(本音)を知らないからです。具体的に言えば、自分が何を思い、何を伝えたく、何をしたいのか、を明確に知らなく、ぼんやりしているからでしょう。今まで自分を知る努力をしないで、知る時間をとらないで、やり過ごして生きてきたので、今の自分が何者であるのか、が分からなく、地に足が着いた状態でない事から、自信すらも持てないわけです。 人は、自分が思っているほど自分の本心を知らないものです。いやいやそんな事はないですよ、と言ってみても、いざ何か意見を求められた時に、言葉にすらできない場合があるものです。それは、普段からしっかり見つめていないので、自分の思いが言葉にならなかったり、思いが言葉としていくつか浮かんでるものの、どれが本当の思いかが分からないので選べなかったり、という事です。 人間の本心とはどういったものなのでしょうか?キレイなものなのでしょうか?実は、人間の本心というものは、決してキレイなものではなく、汚いものなのです。人を憎む心、陥れる心、謗る心、妬む心、自分だけ得をしようとする心、欲まみれの心、自己中心的な心、いじめる心、等々、到底受け入れたくない心が、まさに人間の本心なのです。この本心を真摯に見つめ、しっかり受け止め、受け入れられるか、が必要不可欠なのですが、人間は自分に対して、キレイである、という妄念を持ちたがるので、なかなか受け止められません。どちらかと言うと、自分のおぞましい本心から逃げ、見ないように回避したがり、実際そうしてしまうものです。 あの人なんてフラレればいいのよ、あの人なんて降格すればいいのに、あの人なんて傷つけばいいのよ、あの人なんてバナナの皮の上に乗って転べばいいのよ、というような事を、腹底の心で平気で考えているのが、人間です。建前は素敵な微笑みを浮かべ、人の良さそうな顔して話している人でも、腹底訪ねていけば、おぞましく怖ろしいことを考えていたりします。人間の本性、真実の自己とは、そういうものなのです。 人間の本心は、悪たらしいものですが、どうすれば知ることができるのでしょうか?それは、周りの人に対して、親切や善いこと、を実行することです。当然、親切や善いことは、周りを一生懸命観察しないと、適切な行為には繋がりませんので、関心・興味をしっかり持つように日々努力することです。その親切や善いことをする中で、腹底の心で何を感じたか、何を思ったか、をしっかり振り返って下さい。この繰り返しで、自分の本心が少しずつ見えてくるはずです。様々な悪い心が見えてきますが、逃げずに受け止めて頂きたいと思います。 例えば、電車で年寄りに席を譲ったとします。その年寄りが御礼の挨拶もせず、むすっと席に座った場合、心の中でどう思うでしょうか?私なら、「せっかく、わざわざ譲ったのに、御礼の一つも言えないのか、このくそばばぁ!」と、腹底の心で思い、不快になるでしょう。これが、本心です。つまり、善いことをしているのに、腹底の心では、それ以上に悪い事を平気で思っている、怖ろしい存在、これが人間というものです。善いことをしても、ついつい「見返り」を求めてしまうのが、悲しいかな、人間なのです。ただ、こういった悪たらしい腹底の心をしっかり見つめ、汚い心だけど、これが自分の心なのだ、と受け入れるのが非常に大事です。所詮、人間の心はキレイなところはありませんから。 どんどん善いことをしていくと、見返りを常に求めている自分に気づけるようになります。もしかしたら、純粋な善などできないかもしれない、と思えるようになります。それぐらい、善をすれば、自分の本心はだいぶ見えてきている状態にあると思います。 ここで、注意がまた必要です。悪々しい自分の心ですが、これを開き直って、悪いことをしていい、という勘違いをしないで頂きたい、と思います。悪い心があることを認めつつ、悪いことをしないように行動をする事が大切なのです。自分が悪い要素を持っていると知れば、悪い縁を絶ちきり、悪い行動にならないようにします。例えば、アルコール依存症の傾向があると知った人は、飲み会を避けたり、冷蔵庫にアルコール類を置かないように配慮したりして、アルコールの縁を絶ちきります。これで、アルコール依存症になることを回避しようと努力します。 人は、自分の本心が分からないから不安を抱え、自分に自信が持てません。しかし、決してキレイではないかもしれない本心、を知れば、人は自分に対して自信を持てるようになっていきます。自分を知って自信のある人生にするのか、自分を知らずして自信のない、不安な人生にするのか、それは偏に自分の選択一つにかかっているので、怖いかもしれませんが自分を知ることを選択して欲しいと思います。 ◆自由と平等の二つが欲しい?! 人は、生きる上で自由と平等を欲するものである。しかし、自由と平等というものが、この世の中で同時に得られることがありうるのでしょうか? 資本主義社会は基本的には、自由主義社会であると思います。そして、共産主義社会は基本的に、平等を目指した社会であると思います。それぞれの社会は、人が苦悶し、どうしたら人間らしい生き方・生活になるのか、を追求した結果、文明国家に発生した社会様式なのだと推察します。 その追求の結果、資本主義社会では、自由は法律の範囲内では得られたかもしれませんが、貧富の格差を引き起こしました。つまり、同じ人に生まれながら、才能や努力のない人は社会の底辺に這いつくばり、場合によっては偏見の目で差別されたりします。これは、平等という観点に立つと、決して平等とは言えない姿に映るかと思います。 社会主義社会では、どうかと言うと、平等を追求するあまり、自由を制限しなければいけないシステムになってしまい、人としての本能を削ぎ落とす結果となりました。いくら努力して働いても給料は同じ、という中で、意欲がなくなる状態になりました。しかも、歴史からすると、ある一部の特権階級だけが潤うという歪んだ形で行われているだけに、一般庶民からすれば、不満の残るシステムと言えます。 代表的な社会システムを挙げましたが、どうも自由と平等を同時に獲得する生活は難しいと言えそうです。 人は、生きていく中で、自由と平等を求めます。しかし、真実から言うと、自由を求めれば、平等は失われ、平等を求めれば、自由が奪われます。世間では、「自由で平等な社会」を喧伝し、あたかも同時に両方を享受しているかのように認識されがちですが、実は、どちらかしか得られないのが真実です。 会社で、ある業務に対して、自分の意見を通したいので自由にさせてくれ、と打診した場合に、会社の方針として、それは認められないという場合があります。会社の秩序を守るためには、一人の自由が制限されるわけで、なかなか自由を得られないのが現実です。会社の方針は、皆平等に守っている訳ですから、平等の前に自由は阻まれたという格好になります。もし、この社員がそれでも自分の意見を通してくれ、と強く要望し、仮りに会社が呑んでしまうと、他の社員からすれば、なぜあいつだけ優遇されるのか、と平等の破壊に不満が続出する結果になります。この例を見るように、自由と平等は一見、同時に獲得できそうに見えるものの、実際は同時には得られないのが真実なのです。 人は、生きていく中で様々な制限を受けて生活しています。つまり、自由は容易には得られないものである、との認識が必要なのです。また、人は生きていく中で、確実に平等を阻害されながら生きています。平等とは、ある種、仮想の世界であり、差別を受けてしまうのが当たり前、との認識が実は必要なのです。 勝手な妄想や理想によって、現実を美化したがるのが人間ですが、その美化するが故に苦しみを己に返しているのが、愚かな我々人間であることを、よく理解しておく必要があると思います。自由がない、平等ではない、と日々愚痴をこぼしている人が大半ですが、所詮、人間社会で自由と平等を求めること自体が無理であり、その認識がしっかりあれば、理想と現実のギャップに苦しまない生き方になるのではないかと思われます。 ◆自分は正しいか? 人は、様々な経験や情報をベースにして、物事を判断しますが、判断基準は自分の考えにあることが多いかと思います。そして、自分自身に自信がある人やプライドの高い人などは、得てして、自分の結論に対し、自信があり、正しい、と思っている場合が大半であると推察されます。 例えば、本音を言うと人を傷つけてしまうので、本音を言うのはいけない、と思っている人がいるとします。こういった人は、本音とは違った建前ばかりで人間関係を作ろうと思うので、日々相手のご機嫌を伺いながらの生活になります。当然、相手に気を使うので、精神的負担というストレスを受け、しかも本音を言えないおかげで、口数も減る傾向にあります。これは、正しいことなのか、と言われれば、当然、正しくありません。しかし、本人にしてみれば、生きていく術として、これは正しい、と信じ、執着しているので、他の人から仮りに指摘されても、なかなか自分の間違いに気づかなかったりする場合が多いのです。 自分の考えが正しい、と執着してしまう理由は、「浄」という妄念に縛られているからです。浄とは、浄い、という意味で、自分の考えは浄いもので、正しい、とする迷いの心なのです。この浄という妄念が働いている事に気づかないと、人は得てして、「正しい病」にかかり、他の人の意見を全く聴かない、自己中心的な状況に陥るのです。 人は完璧な存在ではありません。ですから、自分が正しい、と見るのではなく、自分は正しくない、と見るのが正しい見方になります。自分は正しくない、とは、「不浄」であるという事です。なかなか、人間は自分を不浄な存在、不浄である、と認め、受け入れることはできませんが、一旦不浄である、と認めると、謙虚な姿勢で物事を見たり、人と接することができるので、認める勇気が生きていく上で大切です。 人は、不浄な存在、それを欲目でついつい浄であると美化してしまいますが、それは妄念であると認識した上で、しっかり自分を見つめ注意していく事が、人間関係を築く上で大切なのです。
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心の狭さの解消ですが、まずは自分を知る事が大切です。自分が何を思い、何を感じ、何を伝えたいと思っているのか、それを知る事が大切です。自分が分かれば、人間が分かったという事になります。人間が分かれば、相手の気持ち、心が、ある程度、分かるようになります。相手の気持ちが分かれば、それに対して、配慮ができるようになるので、必要以上のストレスを感じない人間関係ができるようになります。 己知らずで人生は歩めません。目をつむって運転するのは危険です。大抵の人は目をつむって人生を歩んでいるようなもので、だから、人間関係で衝突するのです。己を知り、開眼することで、人間関係の衝突も、減らすことが可能になります。 「反省」がキーワードになりますが、反省という行為を行うことで、自分への振り返りをする時間にして下さい。反省を習慣化することで、己が少しずつ分かってきます。 反省なくして成長なし、反省することは、自分を知ることであり、人間を知る上での必須事項です。 下記に論文を掲載しますので、参考にしてみて下さい。 ◆他人のせい(所為) 人とは、どういうものでしょうか。物事をミスなく完全に遂行する能力を、常に持っている存在でしょうか。人間は、不完全な存在です。どんなに偉大だ、と言われた人でも過去に必ず失敗を犯してきています。人が生きる、という事は、「失敗」を重ねていく、という事だと思います。何から何まで、完璧にこなし、「失敗」をしない人が、もしいたならば、その人は人間でないか、大嘘つきか、のどちらかでしょう。 人は、失敗した時に、すぐに言い訳を言うか、他人のせいにするか、をする事で、自分のせいである事を回避しようとします。意識的にする場合と無意識にする場合とがありますが、いずれにせよ、人間の醜悪の極みの部分・一面と言えると思います。相手の人からすれば、その人の醜態たる態度は、嫌らしくしか映らないのにもかかわらず、その張本人は当たり前のように、言い訳や他人のせい、を主張します。 なぜ、人は、明らかに自分の失敗であるにもかかわらず、自分の失敗を認められないのでしょうか?幼稚園・小学生時分は、恐らく、大人である今よりは、失敗に対して真摯に向き合い、素直に、「ごめんなさい」ができたのではないかと思います。ところが、大人になるにつれて、失敗したら自分の責任と認め謝る、という、当たり前の事が容易にできなくなっているのです。様々な要因は考えられますが、自分の失敗と認めるのが、「恥ずかしい」、「怖い」、「苦しい」、「嫌だ」、「プライドが許さない」、「評価が落ちる」などが挙げられると思います。 他人のせいにし、自分のせいと認めなかった場合は、一瞬、自分の責任を回避できたので、楽な気持ちになれたと思いますが、実は、これは錯覚です。実は、自分の責任を他人に転嫁する事で、自分の心の中に記憶として残り、何かのきっかけで、他人のせいにしてしまったその記憶が再び現れたりして、自分を苦しめ、一生引きずったりします。自分のせいなのに、他人のせいにした行為は、当然、不条理な行為です。ですから、その不条理を自分の記憶として、残す事は、自分の中で解決された事にはならず、未消化状態にある、と言ってもいいかもしれません。 他人のせいにして、人生を歩んできた方は、頭の中が結構モヤモヤしていて、大事な問題に直面した時に、しっかりした判断ができない人なのではないかと思います。これは、何事も他人のせいにしてきた為に、物事の善悪が分からなくなってきていて、判断一つにも対応できない、のだと思います。一つ一つの問題に責任をとってこなかった、という人生の蓄積から、判断できない、とも言えるでしょう。 他人のせいにする事で、もし一生苦しむのであるなら、これは大変なことです。それでは、どうしたらいいのでしょうか?答えは簡単です。自分のせい、にすればいいのです。つまり、何か失敗したり、自分に災難が降り懸かってきた時は、自分の至らなかったせいで、こういう結果が自分に起きた、と受け止め、受け入れればよい、という事です。人というものは、不思議なもので、積極的に自分の失敗を認め、受け入れる、と、後に残る事はなく、スッキリするものなのです。(スッキリとは解決している、という事です)「な~んだ、私が悪かったのか。それでは仕方ないよね。自分が馬鹿だったんだから。自分に怒ってもしょうがない。」という感じになります。表面上、失敗を認めつつ、内心、あいつの責任も少しはあるよな、と思っていたなら、スッキリすることはありません。全面的に責任を認めることが、重要なのです。 人間というものは、存在しているだけで、周りに影響を与えていて、時に悪い影響も与えています。本人が、悪い影響を与えようとしていなくても、相手がどう捉えるかは相手に判断が委ねられているので、時に相手を怒らせる場合があります。この場合、相手が勝手に怒ったと捉えるのか、私が気に障るふるまいをしてしまったと捉えるのか、の二つが考えられますが、自分の責任と捉えるのが正しい、わけですから、後者の私が気に障るふるまいをしてしまった、になるわけです。 絶対に、私は悪くない、と思っても、まずは自分に落ち度はなかったか、をしっかり検証して下さい。1%でも落ち度があれば、それは自分のせいにすべきことです。もし、相手にも落ち度があれば、自分の落ち度の反省の弁を述べつつ、指摘してあげればいい事です。他人のせいにする前に、自分のせいではないのか、の謙虚な姿勢が必要であり、これが真実の生き方というものなのです。 ◆反省ができない人間 「反省」とは、どういう意味であろうか。 『自分のした言動を省みて、悪い点を認め、改めようと考えること』 概ね、上記のような意味であろうと思います。ところが、人間というものはなかなか反省できないものであります。表面上、とか、口先だけでは、「反省してます」と、殊勝な態度はとるものの、内実は裏腹である場合が多いものです。 日常において、反省しなければならない機会は数多(あまた)存在します。例えば、人と会話していて、ついつい失言をしたり、お酒が入って暴言を吐いたりすることなどです。明らかに、自分が悪く、相手に謝らなければならない、のにもかかわらず、自分の責任として相手に謝るのが嫌な為だけに、その事実を無かった事にしたり、無視したり、あるいは、相手が悪かったんだ、とねじ曲げたりして、反省をしない場合があります。これは、単に自分が悪かったんだ、という自分の責任(罪)を認めたくない、受け入れたくない、という自己中心的な考えに基づくものと考えられます。 自分の責任と認められない人は、苦しみの人生が待っているので、この苦しみから脱却するには、まずは、自分の責任と認めることが肝要です。次に、自分の責任であると認められると、その事象について振り返り(回想)をします。振り返りをしていると、「あの時、あ~いう事を言ってしまったのは良くなかったなぁ。相手を傷つける言葉だったかもしれないなぁ。」と、自分の言動の悪い点が見えてきます。悪い点が見えてくると、これからは、そういった軽率な言動は慎まねば、との考えに至ります。この一連の行動を、「反省する」と言えると思います。 人というものは、縁が来れば、悪い行動をしたり、悪い発言をしたりする所があります。反省して、自分の悪い部分をしっかり知っていく事は、その悪い部分を認識しながら、その悪い部分が発動しないように注意しながら、生活することができるようになる、という事です。自分が悪さをする人間であるという事を知っている人が、極力悪さをしないように注意するのは、実は、こういった人は、反省がしっかりできるタイプだからです。逆に、反省ができないタイプは、自分の悪さ加減を知らないので、何度も悪い言動をしたりして、失敗を繰り返す、愚か者であったりします。 表面上の反省は、何も意味を持ちません。次回に繋がる反省だけが反省と言えます。ここで、注意しておきたいのが、自分の中だけで完結させる反省です。心の中で、十分反省したのだからいいのではないか、というものです。これでは、反省したことにはなり得ません。では、何が欠けているのでしょうか?それは、相手への謝り(謝罪)です。相手の前に行き、声を出して謝る、これが必要不可欠です。この行為をした事ではじめて反省が完了したと言えるでしょう。謝った時点で、自分の責任である事を自分に知らしめた訳ですから、謝る行為を外すことはできません。 反省し謝罪する、という行為は、現代において、非常に軽視されていて、どちらかと言うと嫌われていると思います。しかし、この行為の素晴らしい所は、それをする事を積み重ねていく事で、自信がついていくことです。もし、自信がないという方は、謙虚に反省することから始められるといいと思います。 ◆人は裏切るものなのか? 人は、ご立派な存在でしょうか? シンプルに答えますと、愚かしい存在です。約束をしていても、相手を軽視して破ってみたり、出来もしない約束を、自分の見栄の為だけにしてみたり、します。約束を破り、謝るのならいざ知らず、言い訳を並び立てる始末ですから、どこからどう見ても、愚かしい、としか言いようがない、それが人間です。 「信用していたのに、裏切られた!」という話はよく聞きますが、これは、人というものは裏切らない、という考えが、その人の中に少なからず存在していたから、起きたという事です。友達と雑談している時は、「人って、裏切ることもあるよね。」と分かったように発言したりしますが、実際に、その人の心の奥底を訪ねていくと、裏切らない人もこの世の中にはいるはずだ、という甘い考えがあったりします。「この人だけは特別。絶対に裏切らない。」という、美化した考えです。 人の真実の姿は、ご立派ではなく、愚かしい存在であるので、”裏切るという行為”をする事ができます。親子、夫婦、友達、会社の同僚、等々、様々な場面で裏切り行為は行われています。では、なぜ裏切るのか?それは、最初から裏切ろうと思っていたからか、自分に都合が悪くなったからか、のどちらかであると思います。例えば、ある友人にお金を200万円貸したとします。10年来の友人なので、必ず返してくれるという信頼を持っていたとします。ところが、ある日、その友人は忽然と姿を消してしまいました。信頼していたのに~、裏切られた、と思う訳ですが、その友人はお金を返すことより、とんずらを選択する方が都合が良かった、と言えると思います。都合次第で、いくらでも裏切れるのが、人というものです。 人を信用してはいけない、人を信頼してはいけない、という事を言っているわけではありません。もし、少しも信用・信頼をしないならば、社会生活を送ることはできません。ここで、述べたいのは、「人は、都合一つで裏切ることができる存在である」という認識を持つ必要があるという事です。あの人だけは、裏切らないという固定観念を持って、仮に裏切られてしまうと、そのショックは計り知れないものになるでしょう。そうならない為にも、事前に真実を知っておくことが大事です。人を美化し、理想化するのは勝手ですが、理想と真実(事実)とのギャップが大きければ大きいほど、人はそのギャップに苦しみます。ですから、自分で創りあげた理想を打ち壊し、真実を知っていく事が重要です。 ◆他人の評価は気になるものか? 自分は、周りにどう見られているのだろう? 人は、人と接する中で生活を送っています。ですから、人からどう見られているだろう、とか、どう評価されているだろう、とかが気になったります。時には、それが気になり過ぎて、人前でカチコチになったり、だんまりを決め込んだり、人が怖くなったりもします。こうなってしまうと、人間関係がどうだ、という問題以前に、自分をどうにかしなくては、になってしまいます。 さて、ここで問題にしたいのは、他人の評価をそれほどまでに気にする必要があるのか、他人の評価が当てになるものなのか、という点です。ある部下が、出世街道まっしぐらの上司に対して、「私は、あなたについていきます。」と賞賛したとします。ところが、その上司がある失態を犯し、降格させられました。その部下は、翌日から手のひらを返したように、その上司に対して冷たい態度をとるようになりました。これは、その上司が出世街道にある時は、部下にとって都合が良かったので賞賛、つまり良い評価をしていた訳です。しかし、その上司が降格となり出世街道から外されたと分かるや否や、冷遇、つまりは悪い評価を下した訳です。この部下の評価基準は、自分に利益があるか否かの「ご都合主義」で行われているわけで、彼の評価は全くと言ってよいほど、当てにはなりません。 お酒を飲んでいる時は褒めちぎるのに、普段は何かとけなす人もいます。人の評価というものは、気分一つ、状況一つでも変わるものなのです。逆に、自分が他人を評価する場合はどうでしょうか?自分の利益になるかどうか、損得勘定でどうか、自分がその人を好ましいと思っているか、というように、自分の都合で決めている場合が大半だと思います。欲目を入れないで、絶対的な評価をすることなど、人間にはできないのにもかかわらず、人は、他人の評価に戦々恐々となり、気にしてしまうものなのです。 他人の評価は当てにならない、という事をしっかり認識していないと、その評価に一喜一憂してしまい、振り回される結果に陥ります。これは、正直、愚かしい事です。当てにならないものを、当てにして、勝手に落ち込んでいるわけですから、まさに一人上手です。所詮、人の評価にしか過ぎない、当てにならないものだ、と分かっていれば、いちいちくだらない他人の評価など気にならず、堂々と自分の人生が歩めるはずなのです。(他人の評価は聞かなくてよい、という意味ではありません。人間関係を壊せ、という意味でもありません。他人の評価は当てにならないので、振り回されるのは馬鹿らしい、という真実、を知って欲しい、という意味です) ここで、最後に注意したいのは、他人の評価の中に、良い指摘が入っている場合もあるので、そういった内容にはしっかり耳を傾けなければならない、という事です。他人の評価も、一参考意見としては、自分の為にはなるので、無下にするわけにはいかなく、自分の成長の為には、大切にするべきです。 ここで述べたかったことは、偏に、他人の評価に振り回され過ぎて、自分を見失い、相手に合わせる事でしか、自分の存在を認められない、という状況に陥るのは、愚かしい事ですよ、という事です。
お礼
意見ありがとうございます。 予想以上に本格的・理論的な意見をいただき、正直スッと飲み込みきれていない部分もあるのですが、何回も読んで、自分で考えて行こうと思います。 特に、最後の「◆他人の評価は気になるものか?」の項目は、今私が自分自身に1番問うべきだった内容に思えて、とても参考になりました。 ちょっと気楽になった気がします。 ありがとうございました!!