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幼い頃から早熟で綺麗だった同級生(女性)。しかし、その後・・・

友人(同級生)のことです。 彼女は子供の頃から際立って綺麗でした。また、小学生の頃からもう感傷性が芽生えてた早熟な女の子でした。同級生たちが作文の中で「昨日、家族で食事に行き、帰りに公園の高台から海を見ました。ちょうど、夕日が沈むところでとてもきれいでした。」「この前、家で兄さんにぶたれました。とても大事にしている蝶の標本箱をかってにいじったのがいけないっていう。本棚においてあったし、そっと見ただけだからべつにどこもいたみはしていないのに。兄さんは無茶だと思う。」 そのような素直で他愛のないことを書いているその年齢で、彼女が先生に出した作文は、 「わたしは北へ行きたい、わたしは北風になりたい、家々の窓から入って、そして凍りついてねむりたい」と詠った詩です。 担任の先生は彼女の尋常ならぬ心のうちをおそれながら、詩才の成長を楽しみにして「幼い詩人よ!」と彼女の将来に期待もしていました。 思春期を経て、お互い地元の高校に入学すると彼女は演劇部に入り、やがて上京し大学(偶然ここでも同じ大学でした)では文学部(私は他の学部)に籍を置きましたが、あやぶまれた心の枯れる病がこの頃から始まったのです。文学部のことだから、欠席が重なっても別に目立たず、また病気の為によく意識が薄れつつあるのを誰も気づかなかったのでしょう。 際立って美しいために、男性の友人達がまわりに寄ってくると、取り巻く連中を別段うるさがりもせず、だれかれとこだわり無く相手になるので彼女の人気は並々ならぬものとなりました。(学内では有名でした) しかし彼らは一様に「彼女は不思議な女性だ。いくら押していっても手ごたえがない」と。彼らを怪しませるだけの心の磨滅が徐々に進んでいいたのです。つまり、だれかれと分け隔てなく付き合えるのは、だれかれという個性的なふれあいが出来ない(不能)だからなのです。 彼女自身の言葉で言うと「みんな影みたい。近づいてきては、私をつきぬけて消えてしまう・・・」だそうです。 やがて生きるのに疲れてしまい、睡眠薬を飲むに至る・・・しかしその都度発見されて何度も蘇生し、そのうち自分から死ぬ気も消えて、あちこちのキャバレーを流れるホステスをつとめ、持って生まれた整った容姿でモデルになり、促されるまま時にはヌードモデルにも立ったらしい。 そして、いつのまにか家から居なくなり、友人・知り合いのアパートを泊まり歩く根無し草になってしまい、今は風の噂に、どこかの施設で療養・介護を受けながらひっそりと暮らしているとのことです。 「孤独」というものには、世間から隔離して自分ひとりの居場所にこもったり、人のいないところばかり選んで彷徨ったりする孤独もあるけれど、世間や集団の中に居ながら、誰とも立ち入った交渉や関係を結ばずに、それこそ実体の薄い「影法師」みたいに群れの間を突き抜けて歩いていく孤独もあるのだと思います。 私は、よくこのカテゴリーを拝見して、そして思います。それこそ様々な要因で一時的に心のバランスを崩されたり、また病気になられたりしてその辛い心のうちをそれぞれに書かれてて実にお察し申し上げます。 今回、私の身近な例でもありますように、大変悲しいことですが彼女の場合、幼い頃から容姿、才能にも恵まれそれこそ「天はニ物を与えた!」とも思えます。また、思春期頃から目覚め始める自我というものの確立が不完全で、いつまで経っても愛されることばかりに頼り、自ら他人を愛することが出来なかったことに起因するのかも知れません。 そして流されるままに落ちるところまで落ちていった・・・ かわいそうですが、それが彼女の生まれながらに決められた「運命」であったとも・・・ 皆さんはどのように思われますか。微細でも何かご意見等を頂ければ喜びます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • aymhfgy
  • ベストアンサー率43% (1472/3372)
回答No.3

読み終わって天才詩人の半生を映画にしてみせて頂いたような気持ちになりました。 私も詩は好きで結婚前は新聞や文芸誌に投稿したりしておりましたが小学校の時の彼女の詩はまさに本物の才能の生み出した作品で驚愕しました。こういう詩は普通の人には書けません。思春期からのあれこれは彼女の意思の力ではどうにもならなかった、天才の宿命のように思います。実に痛々しく、感じました。ご自分の才能にご自分で圧迫され、流されざるを得なかった、その、運命の力の凄みを感じます。 音楽家でもモツアルトなどは幸福な天才と言われただけあり最後は貧乏のどん底で早世したと伝えられていますがあるところは人間的くさい人で周りの人達と普通の会話をしていたようです。でもこれは特例で後、シューマンやラヴェルなど晩年は痛ましく壊れてしまった才能も多くありました。リストなどもよくよく伝記を読んでみればやはり貴公子という面だけではなかったと思われます。シューベルトの歌の底を流れる悲しみと美しさには心打たれますが親しい人意外とは会話できず自分を表現出来なかった苦しみがすべて音楽として結実したように私には思えます。 普通の人にはない才能を与えられた天才はその多くが普通にはない苦しみを負うものだと考えます。詩人であった彼女には普通の人ができることが出来ないという過酷な運があり、天は二物をやはり与えはしなかったという風に私には解釈できます。 しかしまだ彼女の人生は終わってはいません。(ビューティフルマインド)という映画がありました。天才数学者がやはり発病して病院に入っていたけれども奇跡的に復帰したという実話でした。 奇跡がおこり、詩人として復帰することは出来ないでしょうか。あるいはそういう所を住家にしながら少しでも正気を取り戻し、詩を書ける日が来ないでしょうか。実際、そういう美術家もいると聞いています。 死が来るまでその人の一生はわからないと私は思います。 このカテゴリーは普段は滅多にこないのですが今夜はご縁があったようです。来てよかったと思います。思いもかけなかったお話が聞けました。身近な方の実話ということで胸に迫るものがございました。 貴重なお話を聞かせて頂き、有難うございました。

jupitan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご回答者様ご自身、詩がお好きとのこと。 合わせて音楽家の貴重なお話とても参考になりました。 才能に溢れた人は確かにそうでない人達に比べると遥かに羨ましく感じますが、同時に別な面での苦しみもあるのでしょう。何となく理解できます。 彼女自身、今では遠い記憶の中でのみ詩と戯れているのかもしれません・・・心臓が弱かったのでおそらく長生きはできないと思います。

その他の回答 (3)

  • shikome
  • ベストアンサー率12% (1/8)
回答No.4

美しい人はたとえ自堕落に生きていても、運命だなんだと好意的な物語を他人が紡いでくれるのですね。羨ましいことです。 私は醜いので常識的に生きていても嫌悪されて排斥されます。 美貌の持つ力は絶大ですね。

jupitan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 どうか、そんな哀しいこと仰らないでください・・・

  • hipotama
  • ベストアンサー率50% (116/231)
回答No.2

私の好きな言葉は、「天才は1%の才能と99%の努力からなる」という物です。 人間は生まれ持った才能を持っていると思います。その原石を如何に磨くかが問題となって来ると思います。 彼女の場合は早熟で、その磨き方を会得出来なかったのでしょう。 また、自我の確立が未成立で流れる水の如くの生き方だったと思います。 それも、彼女が生まれ持った運命だと思います。 しかし、華厳の滝に「人生は不可解なり」という迷(?)文句を残して投身自殺した 東大生のように、私のような凡人には理解できないような別な世界があるかもしれません。 質問者がここ投稿するというのは、心の中に何か引っかかる物があると思います。 質問者の人生を横切って行った彼女、何かを残していったと思います。

jupitan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご回答者様のご理解、心に沁みました。 確かに私の心の中に何か引っかかるものがあるのでしょう・・・ あのころ、彼女も私も互いに若かった。そして確かに彼女は私に「何か」を残していったのだと、今考えるとつくづく思います。

  • Us-Timoo
  • ベストアンサー率25% (914/3620)
回答No.1

>思春期頃から目覚め始める自我というものの確立が不完全で、いつまで経っても愛されることばかりに頼り、 >自ら他人を愛することが出来なかったことに起因するのかも知れません 彼女の責任ではないと思いますよ。 そのような「人間としての逸材」を育むことのできなかった周りの責任がひとつ もうひとつは、彼女のことを異性としてだけでなく、ひとりの人間として接することができ、 彼女の人生を決めるきっかけとなる人生の師になるひとに出会えなかったことが、 彼女の最大の悲劇なのかもしれません。 >「彼女は不思議な女性だ。いくら押していっても手ごたえがない」 それは、彼女が「水」のように誰でも受け入れ、誰ともなじむことができるから 周りにはそう思えるだけです。 水は押してもゆれるだけで手ごたえがありません。 そして、どんな色にも染まり、どんなもので溶かして自分になじませてしまいます。 でも、それで水に変化がないわけではありません。 中身は、ちゃんと変わっていっているが、水面は常に変わっていないかのように 平らなままです。 周りには、それが手ごたえがないように感じたのでしょうね。 逆に、船のように水の力を借りながらも絶対に水とはひとつにならない存在だけど、相手に絶対に必要とされる存在か 正反対の油のような濃い人格のひととの交流があれば、他のスパイスと 一緒に攪拌すればドレッシングのようにいい味をだす存在になっていたかもしれません。 ご質問者様自身は、そんな彼女を自分なりの力で、彼女の人生を 変えること・影響を与えることができなかった自分で歯がゆいとか 人間として悔しいとは思われませんか? 私ならそう思います。

jupitan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 水の例えはとても参考になりました。 私は結果的に彼女の人生を変えることは出来ませんでした。常に傍観者というわけでもなかったのですが・・・どうしても何か大きな運命的なものに支配されているようで、結果として彼女をそれ以上の強い力で守ってあげることが出来なかったと思います。また、彼女自身その力にあえて逆らうことはせず、むしろ受動的・流されるようでもあったように思えます。 当時、たまに喫茶店で会って一対一で長く話をしたり、また同じ大学の友人達(男女複数)と誰かのアパートで一緒に遅くまで飲んで夜が明けるまで語りあったこともあります。そういった場面で、彼女が泣きながら私にいろいろと訴えてきたこともあります。その都度、私は真剣かつ真摯に答えてきました。 が、反面で彼女の交友関係は広く私などがとても把握できないところもありました。(また、サークルの先輩=私の先輩でもある人、の中に彼女のことをとても好きな人がいてその人からの愛をなかなか受け入れられない、自分は決して嫌いではないのに、と悩んでもいました。) 人を愛したいのに土壇場ではいつも愛されることを願っている、自分の精神の安定には常に根底にこのことが流れている・・・と言っていました。 では、強く深く愛されれば彼女は幸せになれるか?というとどうもそうではないらしい・・・やがてそんな幸せをもきっぱり捨ててまたどこかへいってしまうのは目に見えていますから。

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