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あと何回桜を見ることが出来るのだろう
40代後半の男性です。 幾つくらいからのことでしょうか。 桜の季節になり、満開の桜の下を歩いていると、毎年のように考えることがあります。 「ああ、今年も桜が見られたなあ。 自分はあと何回この桜を見ることが出来るのだろうか」と。 先日飼っていたプレーリー・ドッグが息を引き取りました。 ペット葬祭場に連れて行ってあげる途中で、桜の花びらを一握りひろって、遺体(死体)を包んだタオルに一緒に入れてあげました。 車の苦手なプレにも桜を見せたくて、今年は近くの桜並木に連れて行ってあげようとしたのに。 葬祭場からの帰りに、手のひらに乗るような小さな骨壷の包みを抱いて桜並木を散歩して帰り、いい歳をしたオッサンが不覚にも桜の下で涙を流してしまいました。 こいつにも桜の花を見させてあげたかったな~って。 余計な話をしてすいません。 皆さんは桜の花を見て「あと何回見ることが出来るんだろう」なんて考えたりすることありますか? 考えるというお答えの方は、いくつくらいからそんな考えをするようになったかもお教えくださると嬉しいです。 その他桜に関わる思いなど、ご自由にお話しください
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桜は、「一年過ぎた」という象徴ですね。冬を越えて、暖かくなって、桜を見ると、何とか峠を越えた、というか、ほっとするのでしょうかね。 私も病気をしてから、桜を自分の余命と結びつけて感じるようになりました。あと何年=あと何回、と。 かなり腎臓の悪い猫を今、看病していまして、11月には瀕死の数値がでており、年を越せるとは、ましてや桜を見られるとは思ってもいませんでした。もう長くないんだから、と、好きなものをあげるという考え方もあるでしょうが、私は少しでも長く生きて欲しいので、処方食、点滴を選んでいます。あきらめてもいいほどの数値が、半分まで下がり、上がり、を繰り返していますが、ごろごろいったり、ニャーと鳴く様子で、今日は調子がいいんだね、嬉しいんだね、と話しています。 いつも、犬猫が、自分より先に死んでいくのは仕方ないこと、と思っていたが「そうじゃない、それは当たり前じゃなかったんだ、自分の方が先かもしれないんだ」と。自分が死んだら、彼らが今までのように幸せに暮らせるかどうか、わからないじゃないか!と。自分は死には縁がないとでも思っていたのか、とか、こんなにまだまだ生きていたいと感じているじゃないか、と。今まで気づかなかった自分のことを改めてよく考える機会になりました。そして、すべての命について、今まで以上に大切にするようになりました。 今年も、桜が咲いたね、と話せることで、1年を感じています。私もいい大人ですが、「来年の桜が見られるといいね、もっともっと何回もみれるといいね」と、猫を抱いて泣きました。
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40代半ばの男性です。 奇遇ですが、今日は長期出張の地にて、 公園の桜をみながら、 『昔は桜が咲くと気分がときめいたものなのに、 最近はあまり美しいとも、楽しいとも思わなくなったなぁ。 そう思うようになったら、人生折り返しで、あとは 桜の花と同じで散るのを待つだけなかなぁ。。』 などと思いました。40代というのつまりそういう年頃なんですかね。 いや、ほんとに40になった頃からです。 うちのワンコは年末から体調を崩して、 先月、死に等しい病気の宣告をされたのですが、 結果的には違うといううれしい結果がでました。 ただ、それでも重い病気には違いなく、今も苦しく療養中です。 今年は桜の花を見に連れて行ってやることもできませんが、 来年くらいはいけたらとは思います。
お礼
同じ桜の花を見て、同じ世代同士でも、色んな思いをそれぞれの人が色々に持つってのが、人間の面白さですね。 >あとは桜の花と同じで散るのを待つだけなかなぁ いやいや 私も他の回答者の方に「後ろ向きになるな」と激励されてしまいましたが「散るのを待つだけ」なんて、それこそ悲観的過ぎますよ。 まだまだ何回でも花を咲かせる気概でいましょうよ かわいいワンコちゃんのためにも 回答ありがとうございました
寂しいこと言うなって、一緒に桜見れるだけ見ようや。 山口のどっかにわしはおるで、見てる空は一緒だべ。
お礼
粋なこと言ってくれるじゃん、この小娘は。 大丈夫、おっちゃん、全然寂しがってないぞ
- mort1759
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ほぼ同世代です。 よく聞く話ですが、全く実感はありません。 散る桜 残る桜も 散る桜 もっと前向きに行きましょうよ 前向きに 駐車場にも はげまされ
お礼
>もっと前向きに行きましょうよ う~ん、 これは少~し違うんですね。 決して前向きでなく、物事を悲観的・後ろ向きに捉えているという感覚ではないのですよ。 物事を悲観的に捉えて落胆しているわけでもなければ、悲しんでいるのでもないのです。 もっと、なんて言うのでしょう。 自分の今まで生きてきた人生を、ふと立ち止まって振り返ってみて、そこに感慨や郷愁や懐かしさを覚え そしてこれからの人生に思いをはせる そんな感覚なのです。 人生があと何年あるか分からない この歳になってみると、もしかしたら、あとほんの数年なのかもしれない。いや来年の桜も見られないかもしれない。 それでも今までの人生を送れたことに感謝しつつ、またこれからの人生が仮に短くても悲嘆することもなく、またゆっくり歩いて行こう そんな感じの「達観」なんですよ もしかすると回答者さんは、まだまだ青春のように突っ走っている最中で、ふと立ち止まるってことがないのかもしれませんね。 ありがとうございました
僕は3月末に、おばあちゃんと後何回桜を見れるだろうか?台場や新橋にいけるだろうか?田原町のファミレスにもいけるのだろうか?東京タワーに一緒に行けるのだろうか?と考えてしまいました。 そう思えば最近おばあちゃんはパーキンソン病にかかり難病と診断されました。 後何年だろうかと考えてしまいますね。 >東京タワーに一緒に行けるのだろうか? まだ一緒に入ったこと無いんですよ。 僕もまだ中学生なので・・・。 「東京タワー オカンと僕と時々オトン」見たいにはなりたくないです。 はぁ、どうなるのやら・・・。
お礼
なるほど、花を見るという行為だけでなく、思い入れを感じる場所についても「また行ける機会をもう一度持てるのだろうか」とか「死ぬ前に一度は行けるのか」 とかも考えるもんですね。 ありがとうございました
- koala0305
- ベストアンサー率21% (117/556)
質問者さんと同世代の女性です。今日、学生時代の友達2人に会ったら、「あと何回桜を見れるんだろうね?」としきりに言って感慨にひたってました。正直言って、私はドライな性格のせいか桜の花へ特別思い入れがないせいか、少し違和感があったんですが、そういうことを考えても不思議のない年齢なんでしょうね。
お礼
ご友人の方はやはり同じ思いをされてたんですね。 う~ん、いくつくらいから、こういう考えを持つようになるのが多いんですかね。 回答ありがとうございました
- zappa-z
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あります。 私は早かったですね。高校生くらいからそんな事考えてました。 毎年近所の桜の綺麗な道路を数箇所、必ず花見ドライブしてるんですが、毎年考えます。来年も見れるかなって。 若い頃は、自分もそうですけれどそれ以上に親の心配ですね「お母さん後何回見ることが出来るのだろう…」って。 それから私の場合、以前は病気や事故より、地震とか災害を心配してました。 父が一昨年の秋に亡くなりました。その年の春も入院していたのですが、病院の周りに見事な桜が咲いていました。 その桜を父と見ながら、来年の桜はもう一緒には見れないかもしれないなと思うと涙が出そうでした。父は何も知らなかったので泣く訳にもいかず辛かったです。 金木犀や沈丁花など香りの強い花も季節を感じさせますが、やはり桜には及ばないんですよね。何故桜に限ってそういう思いに駆られるのでしょうね。短い間に一斉に咲いて一斉に散っていくからでしょうか。 そういえば実際に父の死を経験したら、不思議な事に「あと何回見られるかな」と言う気持ちは薄らぎました。 なんと言うか、ここにはいないけど父も一緒に見ているんじゃないかな…って思えるのです。 だから自分もあんまり考えなくなったのかな…。
お礼
お礼が遅くなり本当にすいません。 単純に見落としのミス(ドジ)です お父様のお話、大変心にせまりました。 おっしゃるとおり、桜という花が他の花よりもさらに感慨を覚えるなど同じ思いです。 お礼遅くなった点、重ねてお詫びします。 ありがとうございました
- hirarno36
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考えますね。春夏秋冬、日本に四季がありますが桜は春を代表すると言っても過言ではありませんから。私は油絵で風景を描いています。桜は時期と天気が合致しないと(まるで今日のようです)描けません。また大変難しく描く度に技量がないなぁと落胆。あと何度チャンスがあるだろうか・・・ パッと咲いてパッと散る桜。短い命の桜の花に日本(人)ならではの潔さを感じます。
お礼
そうなのです。 本来四季おりおりに、それぞれの季節の花や風物があるのですが、なぜか桜にはより一層の特別な感慨を覚えてしまうのですね。 桜を描くという道に完成を求めるというお話しをうかがって、この道40年50年という名人職人が「まだ満足のいく作品を作ったことがない」と話している姿を連想しました。 ありがとうございました
ありますねぇ(-_-;) 厄年を過ぎてから痛切に感じます(-_-;) もっとも、「あと何回」ではなくて「明日見られるだろうかな」が多いですが(脳梗塞や脳内出血、心筋梗塞が…そのくせ痩せる気がないんだからなぁ)(-_-;)
お礼
ああ。 そうか。 「あと何回」どころか、「明日見られるだろうか」ということまで、本来思いをいたすべきなのですねぇ。 なるほど。 一歩踏み込んだ考えを持つことができました。 ありがとうございました
昨年はガンの再発の為~その治療を開始 治ってやる!と思っていましたが 最近また悪化 来年の桜は見られるだろうケド、次はどうかなぁと思っている最中です。 3年前、ガンがわかってから考えるようになりましたね 40才だったので~もしかするとあと40年生きるのか?長いなぁと 考えていました。 ガンがわかったときに 遠くにゴールの旗が見えてしまいました。 距離は遠く、時間がかかるのは判りましたが 確実に折り返し地点を過ぎたのだと悟りました。
お礼
闘病のご苦労如何ばかりかとご推察申し上げます。 私自身いつからか、自分もまたガンの宣告を受けるという「順番」に当たらないという保証は無いのだと思うようになりました。 自分だけはならない、というようなものではなく、たまたままだ順番が来ていないだけなのだと思えてなりません。 ゴールの旗が見えていないだけで実はすぐそこにあるのかもしれず、また逆に見えていると思いきや、それが実は長い回り道の先にあるかもしれない。 これが人生の妙ですね。 回答ありがとうございました
お礼
お話しをうかがっていて、共感を覚えることばかりで、改めて涙が出ました。 と言うのも、実は私もネコを飼っていまして、本当に家族同様に暮らしています。 このネコもいつか老いて、いや老いる前に病気になって、その死に直面させられるかもしれない、という恐怖感をいつもいつも潜在的に覚えているのです。 しかしおっしゃるとおり、このネコより自分が長生きするという保証なんてどこにも無く、私と妻と、そしてネコと。 誰が何時その命の尽きる番になるのかなんて、誰にも分からないのです。 全ての命はいつか尽きるもの。 そして愛する者が命を失うことほど辛いことはありません。 しかしだからと言って その辛さがあるからといって、それでも人はやはり愛する者を求めずには生きていけない だからこそ愛する者を慈しまなければいけないし、また全ての命は尊いのだ そんな風に理屈でなく、実感として感じられるようになりました。 これだけでも、私の拙い人生も少しは価値があるのかな、なんて考えます 回答ありがとうございました