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今後の人生に全く希望が持てません。長文です。
私は大学三年生のものですが今後の人生に全く希望が持てないんです。 本当です。 就職活動中で、それが上手く行かないと言うのもあるんですがそれだけじゃないんです。 正直ある程度の大学・外見ではあるので選り好みしなければまあ就職は出来ると思います。 でも就職しても絶対に周囲から浮いてしまうのは分かりきっています。 就活するにあたり自分がいかに空っぽな人間かということに気づいたのがきっかけです。 大学時代何もしてきませんでした。 友達も増えなければ、勉強もしていません。 出来る限り授業をサボり、アルバイトをしてお金を稼ぐことだけに精を出していました。アルバイト先でも浮いてしまいます。 相手から定期的に連絡をくれるような友達は一人もいません。 いい感じになる男の人は格好良くて人間できている感じの人が多いのですが、いつも最初は相手が積極的でも、結局何にもなく終わってしまいます。 私に中身のなさに呆れ(実際に言われたことあります)、そのような人たちには私なんかよりずっときれいで人間力のある人がいるのに気づいたからだと思います。 大抵の人(いい感じになる男性や、短気な関係でしかないであろう人、自分以上に可笑しい人以外)に対し、すごく壁を作ってしまう傾向がありつれない印象を与えてしまうようなんですがと思いますが、大抵のひとが本当は怖くてしょうがないから壁を作ってしまうのでどうしようもありません。 結婚は出来ないだろうし、職場でも辛い立場になりそうだし、今後全く幸せになれる気がしません。 現在は若いからまだ良くても、今後年をとったら全く誰も相手にして切れなくなりそうで怖いです。 本当に好きなのはペットの犬だけです。 それしか私にはいません もうどうすればいいか分かりません。 本当なんです。 お願いします、励ましなど入らないので具体的な アドバイスを下さい。
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もうひとつ言わせてもらいますがね。 たとえば、私は接客において文章化できない、数量化できない価値を顧客に提供することが出来ます。そして、それは何も接客に限らないのです。たとえば、私があなたと会うことがあるとすれば、そこにおいても私はそのようなものをあなたに提供できるのです。こういった類のものは、幾らここで書いても、またネットや、本等で見まくっても感じることは出来ません。 ですから、私は趣味の熱帯魚で、ある熱帯魚屋に行った時に、その若くて、大変情熱もあり、実力も、実績もある店長さんから、何とはなしに、マクドナルドがもたらしたデフレスパイラルによる価格競争の熱帯魚界への影響と、そこに繋がる現地バイヤーの日本離れという話が始まってしまい熱論してしまうのです。たまのたまに顔出す間柄なのですが。 そういう対面でしか得られないものを感じていく必要があると思うのです。
読み終わってから回答を付けると言いましたが、ポイントだけ抑えて答えておきます。 No.30におけるロールプレイですが、身動きが取れない部分に対して、それは課題としてわかっているのですから、どのようなアプローチ法が有り、そして、自分に有効であるのかを探っていく必要があります。私はそうしていました。 それと、No.29ですが、人事の人を騙せたと思っているようでは心は成長しません。人事の人に対しても自分という主体を持って、誠心で以って臨める様になれることが、成長です。それを心がける事が大事と思います。 つまり、”表現の場をひとつ見つけると、他のものへ意識的に向かう力が弱まる”ということを私は述べているのですね。そういうことを意思的にきちんとコントロールできる人を、私は見たことはほとんどありません。 それと、あなたは取るに足らない人間ではありません。それを知ることが必要です。 想像できないのは、今までに触れていないからか、遠い記憶ゆえに思い出されないからなどでしょう。たとえば、iPodです。iPodが出るまではパソコンから曲を転送する携帯プレイヤーが有る事をあなたは知っていたでしょうか?ネットで曲を購入し、パソコンで管理するなんてことをが有るのを知っていたでしょうか?それと同じです。 あなたは無償の愛、無償の受容というものを知らないのではないでしょうか。 つまり、前にも書きましたが、その受容を初めて大きく得られたのが、容姿が綺麗となったからであったから、だから、強烈な不安を抱くほどの執着となっているのでしょう。その容姿に存在証明がかかっているからではないでしょうか。 内面を磨くには、哲学や思想を持って、生きることや働くということに臨むことによって成されますし、至誠の心で人、物、万物に向かい合うことを心がけることによっても成されます。身体を整えることも大事です。 あなたは自分を語る上での論理展開がしっかりしています。それは自分の身体と感覚に対しての感性をしっかりと磨いてきたからだと思われます。過信は禁物ですが、そこに自信をお持ちになるべきと思います。そして、もっと広く語り合うべきでしょう。学問もそれによって導くことが適います。 ですから、自信をお持ちなさいな。
お礼
回答どうもありがとうございます。 プライベートにおけるロールプレイに関してなんですが私も同様に出来なかったことはまた考えて次は出来るようにということを心がけてはいます。 しかし、他の人は今まで自分が遭遇したことのない場面に出くわしてもそれに自然に反応しているような気がするんです。 特に考えてというよりは。 しかし、私は自然に予期せぬことに対処できず、考えなければそれが出来ないのが問題なんだと考えているのです。 人事の方についてなんですが、私はその人たちに悪意が合ったり、彼らを見下していて騙せたと言っているのではありません。 採用が掛かっていると言う意味ではフェアではないと思いますが。 騙したとしか表現できないんです。 グループ面接で他の学生に対する人事の方の反応等を見て、相手がこう振舞えば喜ぶな、こう言えば良いんだなということが分かり、その通りにしたのです。 それは、普段の私とは全くかけ離れた自分で本当の自分だとは思えません。 でもどれが本当の私なのかはよくわからないんですが、私は面接でのような人間としても振舞うことが出来るというのは普段から認識しています。 しかし、素の自分ではなく、明らかに作ったものではあるので騙したとしか言いようがありません。 kumosuke33さんも私のことを知れば、本当に私がkumosuke33さんが仰っているような幼く疲れるような取るに足らない人間であるということは分かると思います。 母は私がどのような場に立っても助けてくれるとは思います。 しかし、凄く感情的で、自分が一番(えらい、大変等)と思っていて絶対的です。 そして私のことを劣っていると思っています。 内面を磨くと言うことは分かるようで分かりません。 kumosuke33さんの仰っていることの大部分は明らかに出来ていませんが、それだけで本当に内面は磨かれるのでしょうか。 不安です。 内面が素敵な人と言うのは引き出しも多く持っていて、本当の意味で他人にもやさしいような気がします。 また長くなってごめんなさい。 アドバイスありがとうございました。
長文が負担となっていたり、また、私があなたの何かに抵触するようなことを言ったのかもと思い、辞めようとは思っていたので、辞めてましたが、覗いてみたら、そうではないようなので、また、名前が変わりますが、回答を続けようと思います。 とりあえず、今有るのを読み終えた時点で、新たな回答を書くつもりです。 そして、申し訳ないのですが、長くここを見れない、書けないような時には、その旨を書き残して行ってくれると助かります。私にも生活があり、苦闘する人生があるからです。 申し訳ないですが、宜しくお願いします。
お礼
回答ありがとうございます。 本当にkumosuke33様の事等を省みず申し訳ありませんでした。 またkumosuke様になったんですね。 お名前の後に続く数字から考えるとお誕生日を迎えられたのですか。 突っ込みすぎた質問であったらごめんなさい。 私はkumosuke33様からのアドバイスはとても学ぶことが多く、私みたいに全くの他人に対してなのにいつも丁寧に書いてくださっていることに感謝しています。 今後は長くかけないときなどはそれを伝えるようにします。 すみませんでした。 そして、それにもかかわらず本当にありがとうございます。
個人的にも公私共に色々とあったので、あなたのペースやフィーリングに合わせて書く余裕は持てませんでした。悪いことをしたなと思っています。 また、あなたにおいては、まだ、私に対して自分が問題と思っている部分を見せることはできていないと思います。でも、対面においては、あなたの問題と感じているものとも、大人の距離を置いてとはなりますが、向き合える人間もいるのだということを覚えておいて欲しいと思います。たぶん、私のような類の人間ならば、対面でなら、あなたの問題と感じているものとも大人の距離で向きえるでしょう。 そういう可能性を探ることをしてみてください。 ともかく、自分を信じて、自分に批評眼を持ちつつ、また、自分を愛することが出来ることも大事です。自分を信じるが基本となります。 では、私の話は、これで終わりとなります。 さようなら。 お元気で。
お礼
ごめんなさい。 私のいい加減で自己中心的な都合でnoname#57613様をご自身も大変なときだというのに、悩ませ、苦しませてしまって申し訳ないです。 そんなにも関わらず見捨てないで下さりどうもありがとうございます。 本当に申し訳ありませんでした。
大量に書き込んでしまい、申し訳ないです。 今はお辛いこと多いと思います。なかなか苦しい日々だと思います。 そんな日々を何とか生きて行くには、自分の人にはなかなか話せないことを話せる相手を探して行くことだと思います。そして、ありのままの自分を受け入れてくれる人を探して行くことだと思います。 ネットのサイトの功罪の罪の部分を強調して書きましたが、罪の部分に留意すれば、功の部分も大きく生きてきます。ですから、ネットを用いるのも良いと私は思っています。 カウンセラーはカウンセリングの中で自己治癒が行われていくと言います。私もあなたのような人とこうやって話すことで少し癒されているのです。そこにはありがとうと感謝を伝えておきたいです。 あなたの問題と思っているものと良い付き合いが出来るようになることを祈って。
お礼
回答どうもありがとうございます。 noname#57613様とこのような形で関われたこと、なにかを考える間もないほど忙しかったことなどから最近は凄い辛いというよりは、慢性的な辛さを感じることのほうが多いです。 しかしこのような時間が続かないことが私の大きな問題の一つなんです。 noname#57613様のそのようにおっしゃっていただくとありがたいです。 どうもありがとうございました。
これは前分の補足となりますので、個別にお礼を書いてもらわなくても大丈夫です。一緒の扱いとしてもらえれば良いです。 これは本文と余り関係がないですが、参考までに。 http://ascii.jp/elem/000/000/125/125707/ 先に、あなたと同じように周りとその齟齬に苦しんでいる男性が、結局、”その憂さを2チャンネルにすべて持って行けばいいんだ”と言った所に、複数面からの私からあなたに告げる問題を見る思いとなります。 たとえば、ひとつに、養老孟司氏の言われる、”都市化して、脳化した現代人”というものを想起されます。高度に都市化した現代に生きる我々は、本来、人間が生きるにおいて必要な機能を養わないでも、持たないでも、生きていけるようになってしまいました。そこにおいて欠落してしまったものがあるわけです。脳化というのは、それだけ身体を用いて行う必要性が無くなってしまった事を指すものですが、身体性の欠如だけが都市化であるわけではないのですよね。ですが、人においては、身体から生じるものが無数あるにもかかわらず、その身体を使うこと無しに、都市は生活を可能にしてしまったのです。 それが”2チャンネルに行けば良い”にも現れているのです。 また、似ていて違う面から言えば、この”2チャンネルに行けば良い”には、”OKWaveのメンタルヘルスのカテゴリーに行けば良い”の意も重なりますし、他のものと入れ替えても同じ意を持ちます。つまり、これが、私の言う、ネットの功罪における罪の部分であるわけです。そこに行けばだいたいまかなえる。この感覚をネットに持つ(依拠する、依存する)ことには、大きな人間としての有り方の齟齬が生まれるとは思いませんか。 また、似ていて違う面から語ると、それだけ、この”2チャンネルに行けば良い”には、現代の人がパーソナルに落ちて生きることが可能になった、という面を如実に表していることになります。 ”ムラ社会”というものには悪い意味ばかりを求めてしまいますが、そこにあるのは、農を基本とした自然を相手とした厳しい生活に求められる、共同性の保持を求めるものも言えるでしょう。そして、私の知るところでは、昔の日本はかなり緩い社会でもあったということです。”緩い”、つまり、共同性を確保できれば、他の違いなどに寛容であった社会です。 そして、現代においては、農を営むのが当たり前の民族が、それを必要としなくなり、ひたすら個でのみ生きられる社会形態を有するようになりました。それゆえに、ひたすらに個に落ちる人が増大しているのです。独我の世界でよしとしている人が増大しているのです。”我のみ、我を知れば良い”という世界を構築しても生きていけるようになったのです。生きていける社会形態となっているのです。そして、そのような人が適度に社交性があれば、それを用いるだけで良いとなるし、無い人においても、無くて良いと言える生活環境の整いが成されているのです。働くにおいても、過去の日本のように労を積み重ねて行わなくても金銭を得られる労働形態が多数生まれてきていもするのですよね。これは情報を扱う仕事が生まれたことによるでしょう。つまり、高度情報化社会の恩恵とも言えるし、その逆とも言えるものです。 また、さらに、似ていて違う面から語るとすれば、その方が男性であったという点でしょう。男性と女性の最も大きな違いは、子供を生めるか、生めないか、となります。この点における精神面への影響はとても大きいのです。女性は成長に従って子供を生めるような機構が己が内に整えられて行きます。その存在は、現代的なシステマティックな人間の有り方とは性格を異にしてしまうものでしょう。そこで自分は生物であるという認識を持たざるを得ないのです。しかし、男性は特別な機構を己が内に持つ必要はありません。自分が自然と結び付けられている生物であるという気付き、認識を持つ機会が無く、また、それゆえに、システマティックに、都会的に、生き終えることが可能なのです。ここにおいて、現代の女性と男性の内に閉じる形の違い、頻度の違い、深度の違いが大きく現れるのです。 また、女性は母性というものを備え、”愛したい”という欲求も強く持ちます。そこにおいても、男と女性は大きく違う道を現代において歩んでいるのです。 また、さらに言えば、女性は、集団において、最も自分たちを生かす可能性を持つ男性を本能的に見出します。男の機能が、心身を削って、衣食住を確保し、外から身内を戦い守り、そして、死んでゆくものであるのに対し、女性は、男に外から守られ、内を守り、維持し、そして、子を成し、血を残し、生き永らえるという機能的性格を持ちます。それゆえに、集団においてのリーダーを本能的に見出すのは女性となるのです。 そのような生き永らえることに直結した機能を多数持つ女性のほうが、人本来の生き方、有り方に目覚しい形を多く持つのですよね。 私がこれからは女性の時代としばしば口にするのはそれらゆえとなります。 このような人間理解、社会理解を得ることによって、自分に有る様々との向き合い方を自得する助けとなるのではないかと思い、記述しました。 ちなみに、私が色々を知り、色々を語り、色々にアプローチできるのは、学問や科学というものが、人と自然との関係性を問うたものをその核に持つからです。つまり、人と自然の関係性(もちろん、人の中に有る自然と、そうでないもの=意識や知との関係性とも言えます)を深く知ることが出来たからでしょう。人の行いしものは、ほとんどその形となります。 また、人の造りしものは、すべて、人の論理の下にあります。それゆえ、人の論理を深く知ることが適えば、人の造りしものの大半に(すべてとも言えるのですが、それは遠慮したいのです)アプローチすることが出来るようになるのです。 人のよく知るからこそ、様々なチャンネルを持てるのですよね。 知らないを知ることの必要性、大事さ。人に有る愚かさを知ることの必要性、大事さ。お気付きになられたでしょうか。 知らないを知ることの必要性は、もちろん、医療や、つまり、科学にも向けられるのですよね。人の作ったあらゆる思想、哲学、科学においても、ですね。 などなどの人間理解を得ることは、己と向き合う上で必要なものと思います。もちろん、これだけに止まりませんが。 つい長文を書いてしまった、ということは、そこへの想いがあったという事。そういう事を色々と人に聞いてもらう、交換するなどは、とても人が生きる上で大事なことだと思います。話すことの大事さ、気付かれましたでしょうか。
お礼
回答ありがとうございました。 私は自分自身は独我の世界で生きていきたいと思っているのだと思いますが、2ちゃんねるにはまるというのは自分を本当受け入れて欲しいと考えているのではないか、そして現実世界ではそれが可能でないから匿名性に隠れて2ちゃんねるにはまるのではないかと感じます。 私もこのようなサイトで他者からのアドバイスを欲しているので、人とのかかわりを望んでいるのかもしれませんが…。 私にとっては誹謗中傷を多く含む会話形式から成り立つ2ちゃんねるというものにはまる(彼は一日10時間ほどパソコンをやっているそうです)となるとまた違うのではないかと感じてしまうのです。 お礼はいいということなのにごめんなさい。 そしてありがとうございました。
No.27へのお礼の返事として。 私はまったくプロではありません。しかし、自分自身の思考と実践の積み重ねにより闇を抜けたことにより、プロよりも実際力がある面があります。しかし、本当のプロには私など及びも付きません。とは言え、今の世に本当の意味でのプロは、わずかしかいないのも事実だと思います。 このようなサイトで、あなたのような問題なので、あえて書きますが、私は今まで行ったことが無いもので、普通の人はしっかりとその技術を収めないと行えないものも、即座に行えるようになったりします。さらに言えば、私の記憶力は走馬灯と同じようなメカニズムです。でも、それほどまでに膨大に出てくるわけではありません。でありながら、私は資格は自動車の免許ぐらいしか持っていない身であります。そんな私なので、周りは畏怖と尊敬の入り混じった目で私を見るようになっています。 あなたも実際に私と会うようなことがあれば、驚かれること多いでしょう。 ですが、私はそんな私をたいしたものだとは思っていません。そのギャップがまた辛く感じられたりします。 人間というものに有る可能性を感じられたでしょうか。 あなたの感覚が、また、確かなのを感じる思いです。その男性の有り方は、つまり、他者性の低い人、欠如に近い人と言えます。私の過去の知り合いにも、似たように、”ずっと悩んで考えて来たけども、考えても無駄だから、今はもう考えることを止めた。”と言ってました。そして、所属する宗教の走狗となりながら我々を引き込もうとし、しかし、自身は”俺はその宗教に疑問が有る”などとのたまうのです。しかし、仕事を終えた後の毎日を、ほぼ、その宗教の仲間と過ごしている、依存形質を強く形成しています。しかし、普段はその身分を隠し、変な雰囲気の人として皆の日常に隠れています。 あなたの話した彼の言い分と、私の過去の知り合いの言い分にある、”考え尽くしたけども何も解決策は出なかった”というものですが、それは、以前あなたに話した、”自分の頭に中にある限られた情報(リソース)によってアウトプットされるものは、その情報の量に制限され、ゆえに、その形はループし続けるものとなる”という形のものです。それが、私の言う”知らないを知らない”ということになります。 この高度情報化社会においては、小さい頃から圧倒的な量の情報に身を浸すことになり、そうすると世の中のことはすべて知っているというフィーリングを持った若者を量産することになります。しかし、彼らと少し話してみればわかることですが、彼らは何も知りません。そして、その若者に見られる現象は、決して今においては、若者だけのものではないのであります。ほぼ全世代に浸透したフィーリングとなっているのですね。 ”自分が知らないという事を知らない”、”自分に有る愚かを知らない”、この傲慢が流布しているのが現代と言えると思います。 あなたはその出会いの中で、自分と、人間としての有るべき姿を見失わなかったと感じます。それはあなたに有る大きな可能性と力を示すものだと思います。これからの出会いに期待し、一期一会にある想いを忘れずにいれば、何かを掴めると思います。 No.28へのお礼への返事として。 確かに自分を大きく悩ませ苦しませる不明なところに意味づけできるネーミングを行うという行為は、霧が晴れるような部分がありますよね。私はそれを否定しようとは思いません。そこにある意味の大きさを知る私であるからです。 しかし、ここで出会った当初のあなたは人格障害というフレームに有るネガティブフィーリングを一身に背負っておられたような雰囲気が有るように見受けられました。 そういう部分ときちんと距離をとって正視できるか、つまり、簡単に言うと、きちんと自分に有る問題と向き合えるかという部分がかなり大事だと、私の経験は言っているのです。 たとえば、”認知の歪み”という”歪み”という捉え方は、私を長年苦しませました。”歪み”という言葉に有るネガティブフィーリングを一身に背負って、それを咎(とが)と感じるようになっていたのです。しかし、生きる上では必要以上のネガティブを背負う必要は無いわけです。ただ、距離を置いて正視することが求められるのですよね。隣に置いておいて、いつも有るものとして、友達のように付き合っていくことが大事であると、私は感じています。 あなたが取り立てて難しいと感じているものへは、自己肯定と自己承認の道を探るのが良いと思います。根があれば、動じないのです。 また、長くなりましたが、構わず自分のペースで読んで考えてもらえればと思います。 カウンセラーは、スクール・カウンセラーをまず訪問してみることを勧めます。費用がかからない場合もありますので。 あなたは私が考えていたよりも、ずっと、核がしっかりされている方だと感じています。後は自分の良い部分も、悪い部分も(凄く悪い部分が有るとの事ですしね。まぁ、皆それなりに有るものですよ。)、それらで括れない部分も含めて、向き合うことを忘れずに、高い志向性を抱いて、日々の瞬間瞬間を生きて行けば、必ず何かを掴めると思いますよ。 自分を信じて・・・・。
お礼
回答どうもありがとうございます。 そうですね…。私はそのような人に出会ったことがないのでnoname#57613様がどのような方なのか全く想像がつきません。 そうですね。 それとその人は自分が問題であること自体には問題意識がないけれども、自分が問題で世間でやっていけないことにのみ問題意識をもっていて、世間で上手くとまではいかなくてもまあやっていけるのならば問題意識はないといっていたので根本が違うんだと思います。 私は人格障害であることなどの問題の一部分ではなく、自分というもの全般について悩む・・というか困っているのです。 慢性的に悩んではいるのですが、気分の波が激しく質問させていただいたときはかなり苦しかったのでそのような雰囲気を感じさせてしまったのかもしれません。 自己肯定感と自己承認ですか。 基本的に出来ていないとは思うのですが、私の場合はそれが他者からの評価や自分の気分によって出来ている気分になってしまうことがあるからここまで来てしまったのだと思います。 お礼を書いていて意識的に捉えられました。 ありがとうございます。 回答どうもありがとうございました。
No.26のお礼への返事として。 私事ですが、仕事が休みで、気ままに時間を過ごせています。この気ままな時間を共に共有できる人間がいると、また、世界の見え方も変わってくるでしょうね。あまり、悲惨な人生にばかり足を取られていると、8歳の姪に色々背負わせてしまうので、私も自分に有る希望を忘れないで歩み続けようと思う、今日この頃でした。 今回、あなたの書かれた、人の色々を気にしない人への感想は、なかなか的を得ていると感じました。あなたは私が思っていたよりも人間としての核がしっかりされている方なのかもしれませんね。 つまりなのですが、人の色々を気にされない方というのは、自分本位であることが多いのですよね。確かに人間的には良い人、優しい人であったりするのです。が、自分本位であるために、自分の心しか追っていない面があり、話が合わないとか、行動が理解できないという部分をはらむのです。 これがその人の評として合っているかはわかりませんが、人の色々を気にしない人は、かえってそういう構造を持つことが多いのですよね。 もうひとつですが、外見内面共に素敵な男性とありましたが、私は思うのですが、その方もまだ人の本当の心を掴むような人ではなかったのだと思います。余りに中身がなくて呆れるという人は、その中身自体を見ないで接近しているとも言えるし、その中身が有る事にも気付けなかったとも言えるのです。 まず、その方の内面に関しては、あなたが思うほど素敵な方ではないと思うのです。と書いて、そんなことはないと憤るかもしれませんが、ですが、本当に内面の素敵な人、素晴らしい人とは、そこまでを読み取って行きますから、そういう人を知っている私ですので、その方は内面はどうか・・・・となります。 ですから、その方との思い出を悪いものとして余り抱え込まないで、自分を見つけられなかった人の一人として、また、もっと自分を見つけてくれる人は世にいるのだと信じて、これからを歩まれてはどうでしょうか。 あなたはなかなか勘所を心得ているようですね。自分を表現するというところには色々な形があるのですよね。 そう、文字情報に限定されれば伝わるものはだいぶ少なくなってしまいます。そして、電話となっても、また、少ない。で、会っていればそれで多いといえるのかと言うと、それは、もう、相手次第であり、相手がそれを読み取れる人でなければ、会っていても、隣にいても、会っていない、隣にいないと同じとなる人も多くいますし、まぁ、感じられる人であっても、その一回ですべてを把握するわけでもないのですよね。ただ、ひとつ付け加えておきますと、世の中にはあなたの知らない感得力を備えた人もいるのだということですね。そういう人がカウンセラーなどをされると、また、精神科医などをされると、とても凄いものですよ。 また、私はこのように上から授けるという形を取りますので、この形のコミュニケーションに限定されているとも言えるでしょう。ですから、あなたにおいては、色々な形の何かを得られるコミュニケーションを求めて行くことを、これから常に探るようにされると良いと思います。 私から何かを得られたと言うのならば、もっと他にもたくさん何かを得られる人がこの世にはいるということを示しているでしょう。そういう人たちは私とは同じであることは無いのですから、であれば、また、感じられるもの、得られるものも、性格が違ったり、形が違ったりするわけですよね。私から得られたという喜びなりが有ると申せられるのならば、もっと、色々なものを得られることを想像されれば、その先に少し愉しみを感じられるのではないかと思うのです。 受容される場所は、また、そこを去らねばならぬこともありますし、別れとなることもあります。そのようなものだと思っていただければと思います。真の自分とまで行かなくても、場所によって部分的に自分の今まで出せていない自分を出せていければ、それだけでも収穫ではないでしょうか。 また、真の自分という辺りに、私と同じ心性を感じますが、まぁ、変質してしまった私においてはどれが真の自分であるのかも、またわからなくなりつつありますが、ただ、ためらわないあなたを、そして、ありのままのあなたを受け止める世界は、私は結構あると思っているのです。 そう、真の自分をさらけ出せるのかという部分で、また、思いましたが、あなたは私とのやり取りのおいても、自分の自分自身が受容できない部分や、人が受容できない部分を、出せないで有ると思うのです。そういう部分を小出しにしながらも、周りとなじませて行くという作業も、ロールプレイであり、そして、仕事の現場において強くそれが行えるのでもあるのだということ、そして、そういう場所を求めていくこと、また、今居る場所においてもそれが行い得るのかという模索も行っていくことが肝要かと思うと伝えておきたいと思います。 私は正直に言いますが、幼少の頃の自分のままに生きて来たら、殺人まで犯すような可能性のある人間になったと思うのですよ。池田小事件の宅間守の色々を見て、自分と似ている部分多いととても感じましたし、また、昨年に襲われた暴漢君の心を見ても、彼は”悪気は無かったのに責められた”と言って、私を背中から急襲して、首を絞め、喉を潰そうとし、目を突こうとした、つまり、殺害にまでをそれを理由として行い得ることを、それだけの理由で自己肯定して行ったのですが、もちろん、それぐらいの甘ったれにやられる私ではないですが、彼の心性には幼き日の自分の一部を見る思いでした。 私は精神を病んで地獄で地獄をさらに見るような思いを延々と続けて来ねば、その殺人を行い得る心性から逃れられなかったのではないかとも思うのですよ。私も人格障害には複数の適応が見られたし、自己愛性人格障害にも入る自分がいましたし、その自己愛の強い自分を幼い頃から嫌って、憎んでいましたが、また、私が”愛”というものを真にその身に感じたのは30を過ぎてからでした。 でも、今、私は、同年代、また、それだけでなく、ほぼ全世代を幼いと言って、諭す側に回っています。 あなたにそこまでになれとは申しません。ですが、私もそこまで来れました。人と自分を大事に思い続けることが大事なのではないかと思うのです。 会話というのは、受け止め手が大事なのですよね。また、教育などにおいてもそうであるのです。受け止め手の器量や度量、力量がないと、会話を重ねても何かを得ることは成らないのです。そして、あなたや私のような困難においては、さらにそこで求められる力量は深みを増すのです。あなたが居る普段の世間には、まず求めるのが難しいかもしれません。 ただ、人を見て、自分を見る、ということを繰り返すことで、そういう力量の無い相手でも自分を知る道を持つことが出来ます。人の心を追い、同時に、自分の心も追う。これが行えると強みとなります。 あなたにおいては、これから、現実的に他にも私のような受け止め手が必要となるでしょう。それがカウンセラーになるか、精神科医になるか、もっと違うものになるかはわかりません。ですが、求める必要はあると思います。 それと、ここに限らず、自己を表現する事を行うと良いと思います。どんな形でも良いのです。ただ、今のあなたは批評や批判に耐えられないと思いますから、そういうものから己を守る、守れる範囲でとなりますね。才能を発揮するにも、自分の捻じれをなじませて行くにも、感情を整えるにしても、辛さを癒すにしても、心をなごませるにしても、ためらいなく表現することに近づけられることが肝心となります。 たとえば、書くにしても、日記や、また、ブログにするのなら、コメント欄やトラックバックの機能をオフにするとかの工夫をするとかしてとなりますが、良いと思います。ブログなどは(注目すべき機能はWEB日記としてですね)をためらいなく書く(もちろん見られると言う意味での規制がかかりますが、それが良いのですよね)は自己治癒作用があると思います。それは日記と違って人が見るという自分にクローズな、以前の自分の有り方とは重ならず、それは翻せばクローズな自分から少し開放されるという部分でもあり、また、見られるということで書くものを整えると言うところで社会適応訓練ともなる部分がありからです。クローズから開放されるという意味では、このサイトで今行っていることとも似ているでしょう。サイトの形に縛られず、そして、原初から有る人がものを書く形とほぼ近いわけですから、有用でしょう。行う場合はこのようなデーターも視野に入れて臨まれると良いと思います。 http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/04/14/19212.html と、これはひとつの可能性として読んでもらえればと思います。 また、絵を描くなども良いし、とにかく、自分のクローズにしているものをオープンにする試みとして、そういう”表現”を持つ、表現手段を持つのは良いと思うのです。 我々が用いている医療が世間一般で常用ツールとして用いられるようになったのは、日本においては、ここ100年ぐらいではないでしょうか。と言うかですね、これだけ医療にのみ委ねるようになったのはもっと少ない年数だと思うんですよ。そういうフレームに人生のすべてを委ねてしまうのは如何なものかと思うのですよ。人生のすべてとは、心とか、精神とか、魂とか、もろもろすべてです。私は幼少の頃より、他の複数のものにより、医療にずっとかかってきていますから、また、抜けたあとも新たな、場合によれば死に至る病も発覚していますから、医療の拙さ、未熟を知っているのです。また、逆に医療の持つ力も知っているのですよね。 自分の心や人生まで、医療的価値観によって縛り付けて未来無きものとするのは如何なものかと思うのですよね。だって、抜けた後の私を医療関係のすべての人が捉えることは出来ませんでしたよ。理論的説明は出来ないが、そういうことが有るとは聞いている、でした。才能の開花に至っては、そういう人は・・・・となるのです。 ですから、人に有る可能性を信じて、そこから来る、己に秘められたの可能性を信じて、歩み続けてみてはどうでしょうか。今駄目と思っても、明日は違う自分が幾つか有るかもしれない。その先にはさらに違う自分があるかもしれない。 だって、私と話すまで知らなかった自分、見つけられなかった自分、整理できなくて見えなかった自分がいたでしょ?ということは、この先、もっと新しい自分を見出せるかもしれないということでしょう。 ですから、自分を信じて・・・・。 それに、私ぐらいの人間でも、まだまだ、あなたの知らないこと、知らない世界を知っていると思いますからね。そして、その私でも、まだまだ、知らないこと、知らない世界があると感じていますから。 ですから、世界を信じて・・・・。 ちなみに、私は愛犬にも、姪にも、甥にも、自分の距離で甘えさせたり、遊ばせたりします。自分が主体となって人とコミュニケーションする(愛する、甘える、教わるなどもコミュニケーションですよね)ということをさせる。もちろん、その中で悪いことをすれば叱り、駄目なことは駄目と言う。それは自分が主体となって家族や社会に責任を持たせるという形です。 あなたや私のような親や家庭を持つと、常に、24時間365日、周りの意に沿って動くことになる。そうすると、本来生きる上で不可欠な、自分に有るものを軸とした、自分に有るものを主体としての、判断、意思、感情というものが育まれないことになる。しかし、そうでありながらも自己(エゴも含めて)というものは常に内に存在する。その自己と、周りを主体としたものが、分裂して己の内に有ることになるのです。 つまり、この事から、自分を主体として愛したり、愛せられたり、甘えたり、甘えられたり、話したり、話せられたりなどなどの生活全般、仕事全般、と言うか、生きる全般を、行える人と環境を求めることが大きな意味を持つことになるとは思わないでしょうか。 そういう意味も含めて、ご自愛下さいと言っているわけですね。 どうか、ご自愛下さい。
お礼
回答ありがとうございます。 お休みですか…羨ましいです。 姪っ子さんですか。 noname#57613様は掴み所のない方ですね。 憤るということはありませんが、外見内面ともに素敵だと感じていた彼は私の中では本当に理想的な人でした。 彼が内面が完璧だとは思っていないし、悪いところも知っていますが本当に私にとっては理想的な人でした。 彼以上だと思う人に出会って彼よりも好きになることはあっても、やっぱり彼ほど理想的な人はいないと思います。 凄く自然体で生きている人で、私は彼にもあわそうと思って必死でしたが、それがわかって(他の人に対してもそうであることも含め)嫌になったんだと思います。 彼はそれを理解しなくてもいいような環境にいたからあんなに素敵なんだと思います。 いろいろな形のコミュニケーションですか…。その重要性は分かりますが、それをどうやって求めていけばいいのかわかからないんです。 そうだと思って飛びついても自分に対する問題意識を持っていなかったり、それを諦めているような場合がほとんどです。 よく考えると私はまず真の自分ってなんだかわからないんです。 noname#57613様とのやり取りでも自分の受容できない部分を表現できずにいるということですか。 正直私には分かりません。 ただ意識できなくともないとは言い切れないと思います。 私が思うのは宅間守被告であれヒトラーであれ至極残虐なことが出来る人間というのは、もともとすごいパワーを持っていて、しかしそのパワーが様々な要因で間違った方向に行ってしまったのではないかということです。 そして、noname#57613様がそのようなことを感じてしまうということは、それが良い方向に働くことにより昇華したということなのではないでしょうか。 自分のクローズにしているものをオープンにする試みですか・・・。 なんか今は色んなことで混乱してあまり考えられないので、そのことは覚えておきます。 ご助言ありがとうございます。 相手が自分の距離で接するようにするですか・・・ それが子供のときに出来た人というのは自己不信等を余り抱えずのびのびと育っていきそうですね。 私もペットには「あなたはここにいるだけでいいのよ」と語りかけるようにはしていますが、試すようなことを何度もしてしまいます。 まだまだですね。 今回も回答どうもありがとうございました。
No.25のお礼への返事として。 お礼文が遅れてしまっても構わないので、自分のペースで臨んでもらえれば、と思っています。 また、思いますが、あなたは割りと自分のペースを持っていて、保てる、保つ人なのだと感じます。その”ペースが有る自分”というのを対人コミュニケーションにおいて自認して行えていない面が、あなたの混乱のひとつとなっているやもしれません。 あなたの対人コミュニケーションには、”こうあらねばならない”、”こうしなければ、ならない”という面が強いと感じるのです。それは、あなたの対人コミュニケーションに対する志向や理想などがあるのと、それと、自分の短所、欠点、罪などと感じている部分から来る負い目から来る反作用的な過去から形成された形であると同時に、決定的な寂しさ、孤独感から来る、人への飢餓感がもたらす形でもあると言えると思うのです。 そして、その”~ねばならない”感覚ゆえ、自認できていない自分に有る自然な形が、かえって、コミュニケーションにおいてプログラムの進行を阻害するようなものとなっているのだと思います。 つまり、私が思うに、今のあなたのコミュニケーションはあなたの頭脳で組み立てられたプログラムに沿って行われているような流れがあると思うのです。 しかし、人である以上、すべてを予測どおりに運ばせることは出来ません。そして、運び過ぎると時間が経てばつまらないものとなるし、運ばないことによって生じるエラーも、あなたになぜそうなるのかという混乱を生むのだと思います。自認できていない自分がエラーを生んでもいるからです。 出来るだけ良いところだけを見せる必要はないのです。相手が誰であっても”ありのままの自分”をベースとして、社会性に合わせてアウトプットの形を変えるだけで良いのです。そのために自認を深める必要があるのですよね。 つまり、凄く性格の悪い自分、=人が受け入れない自分が有り、それをどのように人にも受け入れてもらえなくても、”有る”として許容してもらえる形として出せるか(アウトプット)、などの試みを続けていく必要があるのです。 魂を磨き、心を磨き、精神を磨き、礼も磨き、そして、身体も磨く。そういう心を常に忘れることなく、己に課して、先に抱く想いを絶えず追い続ければ、その内に色々なものが生まれて自分の中に生まれてくるのです。 人間には先天的なものと、後天的なものがある、ということです。つまり、それらのこれから生まれてくるものが後天的なものであるわけなのです。 己の想いや、己の心、己の身体、己の幸福、己の利益を追うばかりでなく、常に、等しいぐらいに、他人の想いや、他人の心、他人の身体、他人の幸福、他人の利益も、独りよがりなものとしてではなく、想像し、想い、おもんぱかる事を行っていくことによって、人は心身を成長させることが出来るのです。 そして、それを最も行えるのが”より良い仕事をしよう”という部分であるのです。 人の心を追い、知り、共感を深めていくことによって、1か0だけでなく、1.2、1.5.1,7などの間にあるものにも気付き、そして、己の中にも少しづつ見出して行けるのです。 たとえば、今、あなたは感情も、ひとつの出来事に対してバラバラな方向で複数出ると思うのです。普通の人もひとつの出来事に複数の感情を生じさせているのですが、主観で捉えているのはだいたいひとつとまとめて感じられているのです。一致感とも言えるものでしょう。あなたが自分の感情を論理的に配置できないのは、その一致感を持てないためとも言えると思います。 それらをまとめて行くのにも、先に述べた”磨く”作業をしながら、仕事で”より良い仕事をしよう”と行っていくことが有効なのです。 そして、慢性的に感じている辛さは、今のあなたも、そして、これからのあなたも、見つけてくれる人たち、そして、受け入れてくれる人たちを得ることで和らいで行くでしょう。 絶望に打ちひしがれる日があっても良い、でも、少しづつ、また起き上がって、自分の望む世界に向けて半歩でも良いから歩んで行くことが生きるという上で肝心な事となると思います。 私は今あるあなたの絶望を知っています。私に知るものですから、他にも知る人多いのは、必定でしょう。今はそういう人と語らうこともあなたを助けると思いますよ。 そして、その内に、普通の人たちとも気持ちを分け合える日が来ることと思います。 己に高い志を抱いて、一瞬一瞬を噛み締めて生きれば、必ずあなたの心に明かり射す日が来るでしょう。 ご自愛ください。 と、また、長くてすいません
お礼
回答ありがとうございます。 私の行動でnoname#57613様を苦しめてしまい申し訳ありません。 何となく誰かに言うと全て(今回だと就活)がダメになってしまう気がして・・・。 本当にごめんなさい。 まさにご指摘の通りです。 私は関係を保たねばならないもしくは関係を気づきたい人と接するときに常に意識して行動てしまいます。 こうしたいからこうしているというよりは、次はこういう反応をすれば相手が喜ぶからとか、変な行動をしちゃいけないからこうするという感じです。 そして、その限界が来たときや何か間違えてしまうと全てがいやになってしまいます。 さらに最近はどの人にどう接していたか、そしてどれが本当の自分なのかが分からなくなってきています。 ありのままというのはよく分かりませんが、自分よりおかしい人といるときの私はそれ以外の人といる時よりは気疲れはしませんが、最悪的に性格が悪いと思います。 社会性にあわせてアウトプット…それは出来ていないと思います。 全てが違います。 しかし、そのように中庸的なことが出来ないことに全ての問題は通じるのだと思います。 より良い仕事ってなんですか? 私にはどうやって魂や精神を磨くのか分かりません。 嫌味やあてつけではないんです。 本当に分からないのです。 私は人の心を追ったり知ったろすることはする努力はしているし少しは出来ていると思うのですが、共感という部分になるとそれが出来ないみたいです。 本当です。 私は確かに一つのことに関する評価もすごく変化して困っています。 受け入れてくれるような人に本当に出会えるのでしょうか。 どうしたら出会えるんですか。 そして、出会えたとしても、私が他者を受け入れることが出来可能性はかなり低いのですが、その人たちを受け入れることが出来るのでしょうか。 なんかぐたぐたでまとまりのない文章になってしまいごめんなさい。 回答ありがとうございました。
参考のためにある例を。 私が最近出会った女性に、こういう人がいました。 その人は自分のキャリア(仕事や学歴など)に対して高い、いや、その構造から言えば高過ぎるとも言える、プライドを持ち、しかし、そうでありながらも、自分の人間性や、異性としての女性として、そして、自分の人生に対して、自信を持てないでいる人でした。 私は彼女の言葉の端々から、また、その身の振舞い方などからも、なぜか、自分の行動が、決断がうまく行かないという、人生的な精神的苦痛を抱えていると感じました。そして、それはその後を見ていて裏付けられて行きました。 彼女は局面局面での自身の決断により、なぜかうまく行かぬ、そして、なぜか精神的苦痛を抱えてしまう、となってしまっているのですが、なぜ、自分の人生が苦痛を伴うものとなっているのか、その理由がわからないことにも精神的な圧迫を感じていたのです。 では、なぜ、彼女が自身の決断により、そのような流れを持つのでしょうか。その理由は先に挙げた二点から語ることが出来ます。 まず、そのキャリアゆえのプライドの高さです。キャリアというものはその中身が重要であるわけで、経歴の長短、格付けの高さ自体は実際力を有しません。たとえば、私のようなキャリアがなくても実力の有る、実際力の有る人間を目の前にしたら、そのキャリアによるプライドなどは何の役にも立たず、ただただうろたえるのみとなります。これは、あなたの場合、その容姿への執着と、もたらされた成果と置き換えることが出来ると思います。 そして、自身に対して自信がないという面であります。自信が無いことを基盤として、人生の、そして、生活の、局面局面の決断を下して行ったものは、自身のネガティブ感覚に引きずられたものとなり、自分が本来望むフィーリングとは異なった結果をもたらして行くのです。 これは私やあなたに有る構造と同じものでしょう。自己評価の低さとはこのような形をもたらしてしまうのです。 そして、しかし、自身を見つめる目を持たなければ、彼女でなくとも皆、なぜうまく行かない人生と感じるのかは、その理由にも気付かないで過ごして行く事になります。 であるのですが、ひとつ付け加えておきますが、私は今においての自分に未熟を感じておりますゆえ、ここに書かれたものにも当然未熟が存在すると思っていますから、私の書いたものが正しいというわけでもないのであります。つまり、これらが感情を論理的に配置するというものの理解への導きとなるようなものとなれば良いと思って、先人と言える私から提示しているのに止まるのです。 つまり、この点が、私がこのカテゴリーにおいて活動をするのは、あなたを限りにしたいと思う理由のひとつでもあります。未熟と知りながら、その未熟を展開し続け、しかし、その未熟性に読み手が気付かれないような状況は、私としては心苦しいものがあるからであります。また、他の方が未熟を自身に感じないで、その未熟を披露されるのを見ていて、また、触れていて、苦しいものがあります。特に精神のものは、命が、人生がかかっている場合がとても多いからです。非常にシビアな問題であるからです。ミスリードが命取りとなることもあるからなのです。 ですから、あなたのように必死があり、自分の限界を超えてあらん限りを読み取ろうとするエネルギーと意思を有している方にのみ語りかけようとするのでもあるのです。 つまり、ここは私の居るべき場所ではない、という事になると感じているのです。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね。 それもとても納得します。 しかし、私は容姿にやいしてだけではなく他の事にも執着を持ってしまうほうで、例えば私は現在通っている大学には一浪して入りましたが、そこでは何となくですがやっていけないという思い(自分が画変だからです)と現役で私の入ったところよりも全然レベルの高い大学に行ったコに対する引け目から仮面浪人をして失敗をしたりとかです。 このようなことも今回のお話で少し分かってきました。 ありがとうございます。 私は本当に見た目に対する執着心が強くて困っています。 外出先では鏡を見るためだけに何度もトイレに言ったり、少しでも自分の姿が映るようなところでは自分の姿を確かめずにはいられません。 また、手鏡もしょっちゅう見てしまいますし、それを忘れてしまうととても不安になります。 そして、自分が醜いと感じると全てのことが嫌になってしまいます。 ウンザリはするけどなおせません。 私は思うのはその程度は違うとしても未熟ではない人なんていないと思います。 そして、そのような中でもよりあるところで優れている人がその部分で困っている人を助けていくのはいいことなのではないでしょうか。 そして、noname#57613様はメンタル的な問題であったりその他の点で他者よりも様々な経験や優れた考えを持っていると私は感じています。 確かにメンタルの部分というのは非常に難しいものではあると感じますが、私はnoname#57613様とこのような形で出会えたことにとても感謝しています。 今後の活動についてはnoname#57613様ご自身が決められることだとは思いますが、私のような人もいるということは知っていただきたく書かせてもらいました。 アドバイスありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 文章化、数量化できない評価と言うのはプラスであれマイナスであれ対面でしか感じられないものなのかもしれませんね。 気が付きませんでしたが、言われてみると納得です。 しかし、対面であってもプラスはともあれマイナスのものであってもそれらを持つ人と言うのは、自分にとって何らかの形で相手の存在が特別である場合以外は少ないのではないでしょうか。 なんか批判的になってしまいごめんなさい。 ありがとうございました。