>小学校というのは『しつけ』をする場でもあるのではないでしょうか。お尻ペンペンに代表される『しつけ』さえも許されないのでしょうか。
「しつけ」は必要です。
欧米でも、幼児に対しては「お尻ペンペン」など結構常用されているようです。
ただし、「痛い目に遭わせる」のが「しつけ」ではありません。
基本は「できたらほめる」と「できなかったらできる方法を示す」とうことです。
抽象言語が未熟な就学前の児童に、「深刻さ」を伝えるために指をつねったり、緊急の事態に体を拘束したりすることはやむを得ないかもしれません。
しかし、そのような場合でも、なぜいけないかという理由と「良い子に育ってもらいたいためにした」ということは(たとえすぐに理解できなくても)言葉で明確に伝えておきたいものです。
よく「昔は殴ってしつけるのが当たり前だった」という方がいらっしゃいます。(教員にも)
そのような意見をお持ちの方は、次のような反論も御一読いただきたいと思います。
(1)人権意識が高まっていることは多くの犠牲の上に得られた進歩です。
先生と子どもの意見が対立したとき、小学校であっても(低学年であっても)先生が100%正しくはありません。
暴力によらず言い分を通すことができるのが「正しさ」であり、指導する側はそのような「正しさ」を身につけるべきです。
そして、それは「目上の者を敬う」という指導と矛盾しません。
(2)「しつけ」は家庭と学校だけでできるわけではありません。
昔は学校の内外に「異年齢子ども集団」があり、そのミニチュア社会の中で、集団遊びを通じて、社会性を身につけ、常識を身につけてきました。
今や、そのような子ども集団は都市でも地方でも崩壊しています。
「家庭が厳しかったからしつけが行き届いた」は間違いではないと思いますが、現代でも同じようにやれば良いという問題ではないのです。
(3)不利な条件の中で、「すぐに」「100%」子どもに言うことを聞かせたい場合、(広い意味での)体罰の誘惑は強烈です。
そのような誘惑に流されて威嚇を行うとき、表面的な「従順」の陰で、子どもたちのストレスは蓄積し、ますます指導の通りにくくなる下地を用意しているケースが多いと思います。
子育てに不利な条件は(2)以外にも様々あります。
学校教育で言えば、世界的に見て飛び抜けて多い1学級あたりの児童数や国連の機関から2度も指摘を受けた過度に競争的な受験制度などが指摘できます。
子どもをとりまく大人が一生懸命協力し合わなければ普通に子どもが育つことは難しいでしょう。
お礼
ありがとうございます。「殴らなければわからない連中もいる」私はむしろこっち派なのかもしれませんね。 学校教育のイロハも判らないのですが、『教師と生徒は対等』という考え方に基づけば、確かに言い分を通すための威嚇でしかないかと思いますが、小学校というのは『しつけ』をする場でもあるのではないでしょうか。お尻ペンペンに代表される『しつけ』さえも許されないのでしょうか。 親が『しつけ』を放棄して、学校でも『しつけ』が敬遠され、子供たちはいつしつけられるのでしょう。 私の少年時代は、どこの学校でも生徒は引っ叩かれていましたが、かといって、私の世代が『安易に暴力に頼っている』とは到底思えません。