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自分が「単なる社会の歯車の一つに過ぎない」と思ったことはありませんか?
ゆとり教育が始まったりして、学歴社会にストップをかけようとした時期も ありましたけれども、逆に「一部のエリートとその他の人たちを作る教育だ」 みたいな批判を受けて、また元の教育方針に戻ってきているみたいですね。 (批判しているのは子供を持つ親の人たちかな?) 自分はエリートでも何でもなく、誇れるような学歴もありませんが、そうなると どうしても就ける仕事は限られてきたりしますよね?(募集資格:大卒以上とか) そこで就職しても、一部の高学歴の人たちが考えた方針に末端の社員が従う みたいな構図になることもあるように思ったりします。 そう考えると、何だか自分が、ただの社会の歯車の一つに過ぎない と考えて、何とも悲観的になることがあります。 皆さんはこんな風に考えたりしたことはありませんか? また自分は何だか悲観的に考えてしまいますけれども、皆さんはどうですか?
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こんにちは。 質問者さまは、単なる社会の歯車の一つに「過ぎない」とお考えなのですね。で、まあ悲観的だと。 私も歯車です。でも幸い、最初の歯車にもなれる職種でしたし、途中で廻ってる場合でも、エンドユーザーにとどいて、その反響を感じられる職場だったんです。 だから、楽しかった。はじめとおわりが見えていたから。それに、いいものを作るためには、そこそこのレベルの歯車じゃないと、つかいものにならなかった。よく叱られました。 で、そこでは、社長だって歯車のひとつでした。よく呑み会の席で、「君等がやってくんないと、俺は社長じゃいられないだから」って。そりゃ励ましや冗談もあったでしょうが、ほんとに社員ひとりひとりの働きが、会社の運命を左右しかねないところはありましたね。 それから、私は、歴史をかなり専門的にやったことがあるんです。歴史だと、信長でも家康でも、みんな歯車なんですね。はまるべくしてそこにはまってまわり、次の歯車をまわしてゆく。一般庶民も歯車なら、支配者も歯車。それがとても有機的に結びついて、社会全体を作っている、というのが、実相なのかなと思いましたね。 あと「人間は、人間関係の中で、はじめて人間になる」ということばを聞いたことがあります。 人って、ひとりじゃ生きていけないでしょう。 人間社会が、人を苦しめたりすることもあれば、人を救うこともあると思ってるんです。 ……まあでも、そうはいっても、無力感がなかったとはいえません。自分を生かしてないなぁ、なんて、そのために会社を辞めて学校に入りなおしたこともあります。 で、最近は、「人は社会を離れては生きていけない」「社会で生きて行く限り、多かれ少なかれ、意識するしないに関わらず、人は歯車だ」と思うんです。 それなら、せめて性能のいい歯車(仕事でも人間としても信頼される)になろうかと、思ったりもします。 それにちょっとつかれたら、趣味の仲間と一緒に、いきつけの飲み屋で、また古い友人と、楽しい時間を過ごして、ガスを抜いたりして。 長くなったけど、もう一言。いまの若い人に「やりたいことが見つからない」とか「社会に出ていきたくない」という人が少なからずいるとか、いいますね。 言い尽くされた意見かもしれませんが、私は「やりたいこと」なんて、手を動かさないで見つかるものではないと思います。もっといえば「やってること」のなかでなんとかやってるうちに、手応えを感じるか、認められるかして「やりたいこと」になっていくんだと思うんです。 最初からやりたいことができるなんて、そんな馬鹿な……ねぇ。 それと「社会」は人を抑圧するけど、救いもします。いま、どうしても「抑圧」の方がクローズアップされるけど、社会そのものも、一枚岩じゃないし、もっと柔軟なものだよと、彼等にいいたい気持ちです。 長文乱文失礼。ご参考になれば。
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- tougennka
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人として、この人の社会の中で生きていく以上、高学歴であろうと無かろうと、『全ては交換がきく社会の歯車である事』には変わりないのです。 かの有名な小泉さんだって、居なくなれば別な人が総理大臣をするだけだし、堀江さんも居なくなれば誰か別な人が社長を変わりにするだけです。 これこそが人が、自然を嫌い、恐怖を嫌い、全てから身を守るために作り出した人のための社会と言う世界です。 人は社会の為に生きているんじゃ無いです。 自分の為に、自分が楽しい人生を過ごす為に生きているんです。(迷惑をかけてもいいって言ってる訳ではないので!!) 自分の周り、見てきた物だけで物事を考えるのは人の悪い癖です。 そもそも、学校の勉強、就職、なんて自然の中で生きていくと決めた人にとっては、欠片も訳に立ちません。 自分は、この黄昏の人間の世界は気に入っているので、この中生きていくつもりですけども!! 歯車になるのが嫌でしたら、電気も水も通ってない島や山でも買ってその中で生活して見たらいかがでしょうか??
お礼
ありがとうございます。「自分の周り、見てきた物だけで物事を考えるのは人の 悪い癖」というのは、全くその通りかもしれないですね。たしかに社会的に 成功した人(あまり好きな言葉じゃないけれど、いわゆる勝ち組と呼ばれる人) であったとしても、結局は社会を構成している一人に過ぎないわけですからね。
- Baltic
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いい大学を出ているからといって、 何でも自分の思い通りにできるほど、 世の中甘くは出来ていないように思います。 人間はみんな歯車だとすると、自力で回す モータがついているか、ついていないかの 違いでしょうか。 モータがないと、隣の歯車に逆らわずに 回るしかありません。モーターがあると 自分の好きなように回ることができます。 モーターのエネルギー源が学歴だとは思いません。 悲観的になるのは学歴社会が原因というよりは、 夢とか情熱、希望が持てないのが原因なのでは ないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。たしかに自力で回すモーターの動力源は「学歴」じゃ ないですね。他の回答者さんのお礼にも書いてますが、やっぱり精神的なもの なんでしょうね。
- tiltilmitil
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まさか。歯車一つ欠けたら機械はまともに動かないけど、自分一人いなくったって社会にゃなんの影響もないでしょうから。歯車なんてとてもとても。
お礼
ありがとうございます。「自分一人いなくったって社会にゃなんの影響もない」は 自分もふと考える時があります。でも決して自暴自棄になるということじゃなくて 「無理やり社会にはめ込まれている」というような感覚・・閉塞感みたいな ものだと自分は感じることがあります。
私は大学院生です。大学は地方大学ですが大学院まで行けば高学歴なほうでしょう。でも無力さは感じますよ。大学教授だって感じていると思います。人一人ができることは世の中社会から見ればほんとーにちっっぽけなものだと思います。どんな場所にいても誰でも一度は考える事でしょう。 膨大な研究史の中から見れば私の研究なんて誰の眼にも留まらない、社会の役に立つわけもない研究です。そう思ってやめたくなるときが何度もありました。 でも、あるとき考え方を変えました。私は自分のために研究をしようと。ほんとに「社会から」見たら取るに足らない研究だけど少なくとも自分にとってやる意味はある。社会から見たら自分はどんな存在かなんて考える必要ないって思いました。自分がやっている、それだけいいと。「自分から」の視点に切り替えるのがポイントです。 そう思い直してからはそんなこと気にならなくなりました。社会のために自分がいるんだと考えるのではなく、自分がいるから社会があるんだと考えてみてはいかがでしょう。そうすれば歯車なんて思いません。自分が主人公ですから。大事なのは自分が充実感を得られるかです。
お礼
ありがとうございます。「自分から」の視点に切り替える、というのは確かに 自分に欠けているところかもしれません。どうしても社会全体から見て自分は どこにいるのだろうか?と気にしてしまうことから、悲観的になってしまうのかも しれませんね。
#2です。少し補足です。 も一つ書けば、一生働こうなんて毛頭思ってません。 少しでも早く稼業から足を洗って、インドネシアで日本語学校をやる のが人生の目標です。趣味の集大成がそれですね。 そう思うと、歯車結構ですよ。 人間の死ぬときとは、心臓が止まったときではなく、忘れられた時だ と思ってますし、負ける時は、自分で負けたと心底思った時ですよ。 時代の閉塞感にまけてたまるか、です。頑張れ!
お礼
ありがとうございます。たしかにmj9さんのような大きな目標を持っていたら 「自分は歯車に過ぎないのか」なんて考えている時間の方が勿体無いですよね。 「負ける時は、自分で負けたと心底思った時」という言葉は肝に銘じておきたい と思います。再度回答を書いていただき感謝です。
40代、自営業の人間です。会社には所属していませんが、質問者さんのように「自分は社会の歯車の一つに過ぎないのではないか?」と感じることはあります。 なぜ歯車の一つと感じるかといえば、自分の思い通りに世の中は動かないということを強く感じるからでしょう。自分が決めた通りに物事は進まない。他人が決めたことに従うしかなかったり、自分とは関係のないところで世の中の重要なことが決められていたり、そういうことから「自分は、世の中で自分に割り当てられた仕事を決められた通りに遂行するだけのものでしかないのか」と感じるのではと思います。 では、そう感じるのは自分だけでしょうか。おそらく誰しも、それぞれの立場で似たようなことを感じるはずです。そして、誰もがそう感じるということは、世の中が全ての人間のために健全に機能しているという証しなのだと思うのです。 逆に、「自分は世の中の歯車などではまったくない」と断言できるのはどういう状況でしょう。それはすなわち、自分の思い通りに世の中が動く、自分が決めた通りに世の中が変化する、自分が世の中を動かしている、そういう状況でしょう。そして、自分以外に誰も敵対する存在がない。それはすなわち、自分が世の中の独裁者的な存在であり、その社会が万人のためではなく自分だけのために機能していることを意味します。 全ての人間がそれぞれ異なった考えで生きており、それらの人間がすべて一つの社会で協力していきていく、というのがこの社会の根本です。である以上、その社会は全ての人間にとって等しく役立つように機能しなければいけません。ということは、1億人の人間がいたなら、自分のために1億分の1だけ機能し、それ以外の1億分の9999万9999は自分以外の人間のために機能する――かなり荒っぽくいえば、そんな具合に社会は動かないといけないはずですね。そりゃあ、「世の中は自分のために動いてないな」と思うはずですよ。だって、たったの1億分の1ですから。だけどそれは、世の中がまさに正しく機能している結果なんですよね。 むしろ特定の人間だけが「自分は社会の歯車なんかではない」と感じられるような社会のほうが問題なんだろうと思うのです。すべての人間が「社会の歯車だ」と思うのであれば、その社会は健全です。私はむしろ、質問者さんが「自分だけは社会の歯車なんかじゃないんだぞ」と思われることのほうが心配です。だってそれは、「自分が社会のために回っている」のではなく「社会が自分のために回っている」と思っているということですから。あなたのために回っている世の中なんて、私はイヤです。 あなたが「社会の歯車にすぎない」と思っている。それは、あなたがあなた以外のさまざまな人間のためにきちんと生きているということでしょう。あなたが、あなただけのためにしか生きていないとしたら、そうは感じないことでしょうから。
お礼
ありがとうございます。Kyon2_PaPaさんの回答は、今までの自分の考え方と 違う方向からのものなので、読んでいてとても考えさせられました。 特に「自分の思い通りに世の中は動かないということを強く感じるからでしょう」 の部分から、自分が悲観的に考えてしまう原因が隠されているように思えてきました。 もちろん自分は独裁者でも何でもないのですけれども、自然と自分中心で 物事を捉えたりすることは多いと思います。でもそれは決して自分だけじゃ なくて、それぞれの人が自分を中心に物事を考えて、悩んだり苦しんだり することもあるはずですよね。 でもKyon2_PaPaさんの言葉を借りるなら、それが健全な社会と言えるのかも しれないなと、思うようになってきました。
- YellowBaby
- ベストアンサー率21% (20/91)
私もNo.5様と同じ様に、寧ろ使い捨てだと考えています。 でも悲観はしてません。 私の働く職場は、男社会の年功序列。 女性社員は皆契約社員の様なもので、産休も育休もありません。 ですから、未婚の女性社員は皆コマです。 採りたい時に採って、妊娠したらポイ捨てのコマ。 会社が使い捨てと考えるなら、実際私がやめた時どれ程困るか思い知って欲しい。 後悔して欲しい。 私はひねずに仕事してるんです。 やめた後まで「やっぱり使い捨てだった」などと考えられるのは心外です。 そんな思いで一生懸命仕事してます。 いつか後悔させてやれる様に。
お礼
ありがとうございます。YellowBabyさんの回答を読んでいると、自分の同僚 にも同じように考えていた人がいたことを思い出しました。 でもその同僚とYellowBabyさんで決定的に違うのは、その同僚はひねてしまって あまり真剣に仕事をしないまま辞めてしまったところですね。
- teiou68k
- ベストアンサー率28% (202/721)
考え方次第。少なくとも私は悲観的になったことはないです。 >一部の高学歴の人たちが考えた方針 じゃぁこの人たちは社会の歯車ではないの? 専制政治でもない限り、社会における全ての人は「歯車」だと思いますが。
お礼
ありがとうございます。たしかに自分の考え方次第ですね。teiou68kさんが 回答されているように、自分が「社会の歯車」と考える根底に、何となく 今の学歴社会があるように思っていましたけれども、たしかに高学歴の人でも 考え方によっては「歯車」ですよね。考え方が浅かったと思っています。
歯車というか使い捨てですね。
お礼
ありがとうございます。自分はまだ「使い捨て」というところまでは考えて いないのですけれども、歯車であると悲観的に考えていくと、そう考えるように なるかもしれないです。でも皆さんからの回答を読んでいくうちに、自分の 考えは段々変わってきています。
歯車も歯車なりに創意工夫して自分の持ち場でスキルアップさせればいいのではないでしょうか?組織も大ききなればすべては掌握できませんし、スペシャリストは必要となるのでは?ま、それがイヤで独立したりする方もいますが、それもいいと思います。それぞれの職業観だとおもいます 私は能ある歯車として与えられた職場で働きたいですね。でも、最近だんだん摩耗していますが・・・とほほ
お礼
ありがとうございます。aobajamさんが回答されているように、企業の各部門の スペシャリストって、言っちゃえば究極の「(会社の)歯車」ですよね。 でもスペシャリストの人たちって、外から見れば「エリート」とも言えるわけで そう考えれば悲観的になる必要はないのかもしれないです。
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お礼
ありがとうございます。d-dropさんの回答を読んでいると、自分でもよく 分かっていなかったことですけれども、自然と「歯車」という言葉を使った理由が 見えてきたように思えてきました。自分は「歯車」という言葉に、「社会の 構成員として無理やりはめ込まれている」みたいな意味を含ませたかったのだろうと。 よく雇用対策などで、「雇用を創出する」みたいな言葉が使われたりしますよね。 それから大企業などが新たに新しい工場を建設したりした時にも「地域の 雇用を確保する」みたいに言われることもあると思います。 自分はこのような言葉を聞く度に、「無理やり社会にはめ込まれている」 という感覚を持っていました。 勿論、今までの自分の努力不足もあると思いますけれども、例えその仕事を 自分がしたいと思えなかったとしても、「その仕事しかできない」自分がいる。 何ともいえない閉塞感のようなものを感じていたのかもしれません。 自分でも書いていて意味がよく分かりませんが、悲観的に考える理由が d-dropさんや皆さんの回答を読んでいるうちに見えてきたように思います。