昭島に20年間住んでいました。懐かしいですね。
以前は確か「南享保三井造船前」という名前ではなかったでしょうか。
「南享保」は地名で,「南享保新田」という小字(こあざ)です。
その北側には「北享保新田」がありました(ちょうど,武蔵野2丁目が砂川側に飛び出しているあたり)。
小字とは何か,ご存じかも知れませんが,一応説明しておきましょう。
昭島市の場合,あの近辺は今は「武蔵野」という地名になっていますが,もともとは大神町でした(今も昭島駅の北口などに大神町はちょっとずつ点在してますが,もともとは多摩川ぞいの地域から,上川原町を間にはさんで,砂川の近くまでつながっていたのです)。
東は郷地町から西は拝島町まで,南北に細長い9つの町がありました。(上川原は細長くないけど)
これらは,江戸時代は郷地村とか福島村というように,それぞれが村でした。
それぞれの村の中心部は旧奥多摩街道沿い(築地と上川原は少し北に外れていますが)にありました。今も旧家やお寺や神社がたくさんある一帯がそうです。
そして,村より小さい単位(地名)として小名(こな)というものがありました。
昭和3年に拝島村を除いた8つの村が合併し,昭和町が生まれました。このとき,従来の村は町村よりも一つ下の単位である「大字」(おおあざ)になり,「小名」は「小字」(こあざ)になりました。
その後,戦後になって,青梅線の南側に東町~松原町の5つの町が作られ,その後北側にも新しい町名が生まれて現在に至ります。
(なお,全国的に見ると,「江戸時代の村」が合併によって「大字」になったのは明治時代が多いです)
この地名の由来は,ご推察の通り,享保時代に開発された土地を意味します。
江戸時代の三大改革の一つに,「享保の改革」があります。
暴れん坊将軍で有名な(もっともドラマはフィクションでしょうが)8代将軍,徳川吉宗が行なった改革です。
彼の就任前,幕府は財政難に苦しんでいました。そこでいくつかの改革を打ち出すのですが,その一つが農産物の生産高を増やすための新田開発です。
新田といっても,昭島~砂川地域の新田は,台地の上ですので,水田ではなく畑です。
昭島地域の人も,砂川地域の人も,新しい農地を求めて,雑木林の中を開墾していきました。
余談です。
今の昭島の地図ですとわかりにくいのですが,青梅線の北側に「つつじヶ丘」や「武蔵野」がなかったころの地図を見て頂くと,昭島市と立川市との境界線が,昭島市側の町の分布ときれいに対応していることに気づきます。
今の武蔵野2丁目のうち,西半分は砂川側につきだしていますが,東半分は手前に引っ込んでいます。
これは,南側(昭島地域)の農民と,北側(砂川村)の農民が,それぞれ両側から開墾を進めていって,ぶつかったところを境界にしたためと推察されます。
武蔵野2丁目の西半分は旧大神町,東半分は宮沢町でした。つまり,それぞれ当時の大神村・宮沢村の農民が開墾を進めていって,そのスピードの違いと思われます。
もっと東側の中神・福島・郷地についても同様です。
このへんの歴史についてもし興味がおありでしたら,昭島市民図書館(東中神駅5分)の2階に郷土資料がたくさんあり,ベテランの司書さんがいろいろと教えてくれると思いますので,よかったらお運び下さい。
話がそれてしまいました。
もう一つの「変更が唐突」というご質問については,残念ながら分かりません。
今も三井造船の研究所はありますよね。
検索してみたらホームページもきちんとありました。(参考URL)
わざわざ変更するからには,何らかの理由があったのでしょうが…
立川バスさんに聞いてみた方が早いかも知れません。
すみません,つい懐かしくなって,長々と書いてしまいました。
(怪しい記憶に頼って書いている部分もけっこうあるので,自信なしにしておきます)
お礼
どうもご丁寧にありがとうございました。 享保時代に開墾された土地であるということは予想できたのですが,いまさら「享保」という名前になっても一般の方は混乱しますね。