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友人が言う「知らぬが仏」の本当の意味というのは
本当かなと思いました。彼が言うには自分が行った善行は、それを意識しないから善行なので意識したとたんに忽ち善行ではなくなるそうです。逆に善行を受けた人も、受けたのが善行だとわかると途端にありがたいものではなくなるとも言っています。昔あるお坊さんが施しを受けた後、お礼を言わずに立ち去ろうとするので不思議に思って聞いたところ、お礼を言ったとたんにありがたみが消えると言ったという話も思い出します。陰徳あれば陽報ありも同じかなとも思いますが本当のところはどうなのでしょうか。
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「知らぬが仏」・・一般に、世間の悪事や親しい人物の 背徳などを知らなければ幸せで居られると、解釈されがちかと思います。 しかし私は、貴殿のご友人の意見に与します。 親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」であったり、 一遍(や空也)の「踊り念仏」に通ずるものが有ります。 明示的に仏に仕えているものより、そんな事知らない人こそ 成仏するべきだ。 や、 我も仏も区別を考えず、ただひたすら踊ること。 など、権威的な古来の仏教に「否」を唱えた先人の姿勢こそ、 「知らないこと」それこそが「仏の境地である」と示唆していると思います。
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- sr1903
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- sakura-333
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善悪の判断がつかない状態でやっているということなのでしょうかね… 悪いことをした時は計画性とかも量刑に影響するみたいですけど。 有難味に関しては捉え方というか深い部分もありそうな無さそうな感じではありますが、謝ったから悪行が帳消しになるわけではないですし。
お礼
私にも本当のところが全く分からないので困っています。
- 5mm2
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「善意の押し売りは見苦しい」と言ってるのでしょうか。 口に出そうが出すまいが、善行は間違いなく良いことです。 大事なのは、ありがとうの感謝の言葉を忘れないことです。 「知らぬが仏」の本当の意味は「神のみぞ知る」です。
お礼
なる程ですね。神のみぞ知るというのはそういう意味にもなりますね。閻魔様はお見通しというのもありますが。
- yaasan
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行為は人の意識によって変わるものではないと思います。同じような行為も受け取り方によっては気持ちも変わるとは思いますが、善行はどこまでいっても善行であり、善行をしたと思ったら、善行が消える訳もなく、悪行に変わることもないと思います。受けた側の意識も同様です。 ですから、ちょっとした意味を上手に曲げた解釈だと思います。本来の、知らないうちは仏の心でいれる、という意味だと思いますね。
お礼
いわゆる客観的という事でしょうか。
- fujic-1990
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なるほど、それで「御礼率ゼロ%」の質問者が多いのか・・・ なんちゃって (^_^;; 。 たしかに、お友達のように思っていれば、何かしてあげて御礼を言われなくても、給料をもらえなくても、罵倒されても腹がたったりしないのでしょうけど。 本当にそんなふうに考えていると思える人に出会ったことがないので、そのお友達も本当にそう思っているのかなと疑ってしまいます。 善行か悪行かは、客観的なものです。川で溺れている子を助けるのは善行であり、人を川へ突き落とすのは悪行です。意識したら、善行が善行でなくなったり、悪行が悪行でなくなったりはしません。 > 善行を受けた人も、受けたのが善行だとわかると途端にありがたいものではなくなる 「俺には権利がある。だから、なにかしてもらったのは当たり前のことだ。感謝する必要はナイ」とか? 以下、「背理法」的な考察になりますが、 > 陰徳あれば陽報あり 「意識しないから善行なので意識したとたんに忽ち善行ではなくなる」のなら、陰徳を意識したら陰徳でなくなるわけですよね。ただの徳(陽徳)だ。それは納得できます。 「受けたのが善行だとわかると途端にありがたいものではなくなる」のなら、陽報も陽報だと意識したらありがたくなくなる(陽報でなくなる)、ということですかね? 少なくても、陰徳を陰徳として認識せず、自分が陰徳を積んでいると思っていない人には、陽報が来ても「それが陰徳を積んだせいで訪れた陽報だ」とは認識できないわけです。「陰徳あれば陽報あり」とは言えません。 第三者(坊さんを含む)が見て「あの人は徳を積んでいるね」と認識できるような「徳」は陰徳じゃないですよね。つまり第三者も「陰徳あれば陽報あり」とは言えません。 自分ではなく、第三者でもないなら、「陰徳あれば陽報あり」と言ったのは誰でしょう。誰も言っていないはずです。 なのに「陰徳あれば陽報あり」という言葉はある。なぜでしょう。 出発点の、お友達の理解が間違っているからです。本人が意識しようがしなかろうが、善行は善行です。悪行は悪行。第三者が見ていようがいなかろうが、善行は善行です。悪行は悪行。極めて客観的なものです。 善行を施されて有り難いと思ったら、「ありがとう」と言うべきなのです。 余談ですが、お坊さんの例ですが、坊さんが「布施」に対して礼を言わなかったのは、布施が仏様が言う「物に執着しない心、捨てる心」を実践する行為だからです。 つまり、極論すれば仏様に「私はアナタの教えに従っています」ということを見せるための、「自分の為」の行為だからです。坊さんへの善行ではないと感じられます。 さらに余談ですが、イスラム教では「金持ちが天国へ行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と言って、金持ちが天国へ行くための要件としては「貧者へ施し」を与えることだ、としているそうです。 なので、イスラム教徒の貧者(全員だとはいいませんが)は、金持ちから施しを受けても「感謝はしない」そうです。「自分は、施しを受けることで金持ちが天国へ行く手助けをしてやっている」という意識だからなんだそうです。 くだんのお坊さんもそんな意識だったのだろうと推測します。
お礼
色々教えていただきました。私自身矛盾の塊のような存在です。
- sutorama
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絵がうまい子どもがいたとして その子は純粋に、好きで絵を描いていただけでした しかし、あるとき、大人が言います「絵を描くのが上手だね」と・・ それを嬉しく感じてしまうと、もう後戻りできません その瞬間に、純粋に絵を描くことが好きだった心が、消えてしまうのです 大人は馬鹿なので、何でもかんでも、子どもを褒めます そのせいで、純粋な心をつぎつぎと、破壊していきます このことに気づけないのが、今の世の常です 次からその子どもは、誰かに「褒められたくて」絵を描きます その子はいつか「なぜ最近、褒められる絵が書けなくなった」ことに悩みます そのときまた、偉そうに絵のアドバイスをする大人が、現れるでしょう 「君はなぜ絵が好きなの?」と聞いてくる大人が現れるまで・・・現れたとしても、もう戻れないのです その責任を大人がとらないままなので、その子もいつか同じ大人になります 私が思う「知らぬが仏」です 大人になった今でも、無責任に、挨拶代わり程度の感じで、自分を褒めてくる人がいますが、邪魔で仕方がありません 彼らの中には、褒めることで、仕事をお願いしてくる・任せることを無意識でも当たり前だとしている場合が多いのです 子どもを褒めるなとまでは言いませんが、責任は取ってほしいものですね
お礼
保険に入れば牛肉がもらえるというのもどこか共通しているのかなと思いました。
- 芙蓉の華(@purimuro-zu)
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「知らぬが仏」 自分にとって悪い事でも知らなければ仏のような心でいられる と いう事だと思っていました。 知人が貴女の事をあの人が悪口を言っていたわよ と いう人がいますが、わざわざ知らないでいる人に知らせない方が良 いと思います。知らなければ仏のような心でいられるのですから 「言わぬが花」という言葉もありますね。 その彼がおっしゃったこともそうかもしれません 言葉にはいろいろ意味がありますから 解釈の仕方もあるので参考になりました。 「隠徳あれば陽報あり」は 「隠れて良い事をしている人にはそれなりの良い結果が現れる」と いう事で意味的にはちょっと違うと思います。 また本人だけが知らないでみんなが知っている事を揶揄することにも使うことも有るらしいですね。 例 「奥さんの浮気をみんな知っているが、彼だけは知らない 知らぬが仏だな」などでしょう。
お礼
普通に考えてもいろいろな解釈が可能ですね。この友人はちょっと考えすぎなのでしょうか。
- RESOLD
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性善説に近い、善人は生まれながらにして善人であり当人がする行為は善行であるという考えに近いと思います。 質問の意図からずれるかもしれませんが宗教で考えてみます。 さて、仏教の世界を見てみましょう。 鎌倉時代、法華経で有名な日蓮は「南無阿弥陀仏」と真言さえ唱えれば極楽に行けると民衆に説きました。対して他宗派は「厳しい修行や毎日の信心が大事である」と日蓮を批判しました。 唱えるだけなのか修行が必要なのかは置いておいて、宗教の世界では信じるものが救われるのです。 天は助くる者を助く、とは聖書にもある西洋の古いことわざです。 しかし昔は生来の悪人は決して助からないという宗派も多くありました。厳しい修行もしてない人間は救われないと。有名な西遊記の三蔵法師はこれに疑問を持って天竺に向かいます。 今となってはマイナーな考え方です。 さてこの違いはなんでしょうか。 思うにこれは宗教キャンペーンが促進していった結果に過ぎないのです。世の中、悪人は助からないとしたら「自分は昨日虫を殺した」など多くの人がその宗教に入ってくれません。しかし、「信じれば救われる」としたらどうでしょう。皆、今日から頑張り善人になれば極楽に行けると思います。これで宗教側からすると入信者も増えてがっぽがっぽ、うはうはですね。 さて、どの宗派に人が入ったかは置いておいて救われたい人がたくさんだったので、結果善行を積む人が増えたとします。 世の中的には結果いいことですね。ある人の善行で、またある人が救われていきます。その人の意識は置いておいて。 いろんな人の思惑があって今の時代の道徳やらが出来上がります。幸いなことに表向きは悪を是とする世の中ではありません。 仮に自分は極楽に行きたいから善行をした、と言っても全く問題ない行為です。少し昔の日本も皆そう思って生きていました。今も宗教人口から言えば、意識して良い行いをするのは世界のデファクトスタンダードといっても過言ではありません。神父様が聖書を説くのもそれです。 当人が意識するかはあまり関係なく、結果世界がうまく回ればよい、とそう思います。
お礼
ついプーチン氏のことを考えてしまいました。
- ミッタン(@michiyo19750208)
- ベストアンサー率15% (3892/25656)
知らぬが仏とは、『当人だけが知らずに平気でいるさまを憐れみ、嘲って言う』と解釈しております 陰徳あれば陽報ありとは、『人知れず善行を積んだ人には良い報いが目に見えて現れる』とも >本当のところはどうなのでしょうか。 んー? どうでしょう? 当たらずとも遠からず、でしょうか
お礼
感覚的にはこの友人の言っていることに賛成できるというような感じでしょうか。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5116)
>陰徳あれば陽報ありも同じかなとも思いますが本当のところはどうなのでしょうか。 彼の話は、「知らぬが仏」とは別の解釈だと思いますね。 ただ、間違っている事はありません。 「知らぬが仏」は、色んな意味を含んでいますからね。 どれが正解かは、誰にも分かりません。 一般的には・・・。 「色んな事を知らない方が、仏の様に無心になれる」事でした。 が、この意味するところが「相手をあざ笑う事に用いる事」に時代と共に変化したのです。 「君は、知らない方が良いよ」⇒「知らぬが仏だ」 言われた方は、気分が悪いですよね。 同意語として、次が有名です。 「聞くは気の毒、見るは目の毒」 「世間知らずの高枕」 反対語としては、次が有名です。 「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」 「知は力なり」 同意語と反対語を比べれば、本当の意味が理解できるかもね?
お礼
たいへん参考になることを教えていただきました。
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お礼
大変ためになるお話を伺えました。