AUGQX-MAN の回答履歴
- 忠臣・忠義の逸話を教えて下さい。
87'大河ドラマの『独眼竜政宗』を見ていたら、伊達政宗の腹心の片倉小十郎(景綱)が「政宗の失明した右目をえぐった」「政宗より先に子が産まれたのでその子を殺そうとした」「五万石で引き抜くという秀吉の勧誘を断った」などのなかなかにインパクトの強い逸話が出てきました。 それで興味を抱いたのですが、この二人のほかの主君・家臣の信頼関係や忠義の逸話で『これはすごいよ!』というのをご存じの方がいらっしゃったらぜひ教えて下さい。 時代は特に戦国時代に限りません。逸話の信憑性もあまり問いませんので、よろしくお願いします。
- 古今東西酒豪と言えば誰?
古今東西酒にまつわる話は多く有りますが 酒豪といったら誰が思い浮かびますか? アンケートカテの方が良かったかもしれませんが 独断と偏見で構いませんのでお答えください^^ また何故その方を挙げられたのかエピソードや参考文献なども教えて頂けると楽しく思います 多くの方の話を聞きたいのでよろしくお願いします^^
- 何故井伊家は彦根から国替えがなかったのですか?
徳川譜代大名の武功派は江戸幕府が安定すると、次第に地方に遠ざけられていきました。 井伊、酒井、本多、榊原など、家康が天下取りに行く過程で、忠勤を励みました。 井伊、以外の譜代大名は秀忠以後、何度も転封、国替えになっています。しかし、井伊家は彦根から動くことなく、幕末を迎えました。何人も大老を輩出しています。 藩祖直政が家康の寵愛が深かったと思いますが、それだけの理由でしょうか?徳川幕府草創期の功臣たちは、国替えばかりでなく、改易、断絶になっている譜代家も多いです。 井伊家は譜代随一の禄高ですが、何故、他の譜代家に比べ厚遇されたのは何故でしょうか?
- 薩長が会津藩に送りつけた条件等は何ですか!?
1・薩長を中心とする新政府軍は、会津藩に対し、具体的にどんな条件を送りつけたのですか?周辺の藩が同情するほど過酷なもので戊辰・会津戦争にまで至ったのですか? 2.幕府もオランダやフランスと貿易があった様ですが、西洋の武器は手に入れることは無かったのですか?蒸気の軍艦は保有していたようですが・・ 3・会津・米沢・仙台藩等、降伏した藩は戊辰戦争後、どうゆう扱いをうけましたか?バルトの楽園の映画のように仕官に成る人もいるようですが・・・
- 十字軍の第四回遠征でローマ教皇インノケンティウス3世はなぜ怒ったのですか。
参考書に「ヴェネチア商人の誘導で、東ローマ帝国を襲いコンスタンティンノープルを攻撃してしまう。これに怒った、ときのローマ教皇インノケンティウス3世は、遠征軍全体を破門してしまう」とありました。(1)なぜ、インノケンティウス3世は、怒ったのですか。ローマ教皇権を東方に広めることになり、利益をもたらすのに、なぜ「怒った」のか、教えてください。 (2)教皇によって「破門」されるとどのような不利益をこうむるのか、おしえてください。
- 携帯で表示できない漢字…
私の使っている携帯は、AUのW47Tという東芝の携帯なんですが、 歴史の人物とかの名前で、表示できない漢字があるのですが、 表示するようなことはできないのでしょうか? 例えば、 戦国時代、立花道雪の娘の、立花誾千代ですが、 "誾"の場所がうまく表示されません。
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- a-sa-ki
- 回答数2
- なんで、「始皇后」がいないの?
中国最初の皇帝が秦の「始皇帝」であることは、多くの人が知る有名な事ですが、中国最初の皇后って、一体誰だったのでしょう。 記録上では、たしか、漢の高祖の正室だった呂后だと思います。 しかし、13歳で秦の国王に即位し、50歳まで生きた始皇帝が、その生涯で正室を一度も迎えなかったというのも、なんか、腑に落ちません。 もし、正室がいたとしたら、その女性こそ「始皇后」と呼ぶにふさわしい人物であるかと思います。もっとも、始皇帝が皇帝と名乗る前に亡くなっていれば、生前はもちろん、死後も追尊を受けなければ、皇后とはならないでしょうが、いまの私の知識では、一生懸命調べても、そんな女性の存在すら感じられません。 ちなみに、秦の2世皇帝、3世皇帝の皇后についても、まったくわかりません。彼らは若年だったかもしれませんが、即位後にそういう正室がいてもおかしくないと思います。 「始皇后」の存在について、何かしらの知識をご存知の方がいらしたら、ご教授願えませんでしょうか?また、私と同じくご存知でない方でも、この場で情報交換しませんか?
- なんで、「始皇后」がいないの?
中国最初の皇帝が秦の「始皇帝」であることは、多くの人が知る有名な事ですが、中国最初の皇后って、一体誰だったのでしょう。 記録上では、たしか、漢の高祖の正室だった呂后だと思います。 しかし、13歳で秦の国王に即位し、50歳まで生きた始皇帝が、その生涯で正室を一度も迎えなかったというのも、なんか、腑に落ちません。 もし、正室がいたとしたら、その女性こそ「始皇后」と呼ぶにふさわしい人物であるかと思います。もっとも、始皇帝が皇帝と名乗る前に亡くなっていれば、生前はもちろん、死後も追尊を受けなければ、皇后とはならないでしょうが、いまの私の知識では、一生懸命調べても、そんな女性の存在すら感じられません。 ちなみに、秦の2世皇帝、3世皇帝の皇后についても、まったくわかりません。彼らは若年だったかもしれませんが、即位後にそういう正室がいてもおかしくないと思います。 「始皇后」の存在について、何かしらの知識をご存知の方がいらしたら、ご教授願えませんでしょうか?また、私と同じくご存知でない方でも、この場で情報交換しませんか?
- 三種の神器はウソ。
一般的に三種の神器は、「天叢雲剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉」をもって三種の神器と言います。 「しかし、それは間違っている。」と、ある有名な関西の神社の宮司から聞きました。 「天叢雲剣は尾張氏の守り刀であり、尾張一族が熱田神宮の奥深くに守り隠しているもの。 八咫鏡は火災により焼け曲がり、祭事には仕えないため、伊勢神宮の奥深くに守り隠されたるもの。 御所と伊勢の祭事にはそれぞれ、代わり鏡が作られ、一枚ずつ収められているが、それは祭礼用の鏡であって、神器ではない。 八尺瓊勾玉こそ朝廷の至宝。軽々しく三種の神器などと言うこと自体、無学を現すことである。」 「三種の神器がなければ、天皇の地位に即位できないという俗信が流布していることだが、そのような伝承はありません。これまでも、そのような儀式はなし、そんな儀式をしなくても、天皇の即位に障りない。どうして尾張氏の守り刀で天皇家の命運が決まるのか?多少でも学識があればわかるものでしょう。」 「天皇に即位するときに用いるものは、須賀利御太刀と内侍所の御鏡です。」 とのことです。 1、「天叢雲剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉」が三種の神器だと書いてある文献は存在するのでしょうか?そもそもこの3つが三種の神器だと言い始めたのは、いつの時代からですか? 2、天皇の即位に必要なものは「須賀利御太刀・内侍所の御鏡」なのでしょうか?
- 「泣く子と地頭には勝てない」という言葉の意味するところについて
いつもこのサイトで皆様のご意見を伺い勉強させて頂いております。 さて、泣く子と地頭には勝てないという言葉があります。 この場合に地頭に勝てないのは、農民なのでしょうか、それとも 貴族や寺社などの荘園領主なのでしょうか? またいつ頃からこの言葉が世間的に広まったのかをご教授願えると 大変有り難いです。 どうぞよろしくお願いします。
- 締切済み
- 歴史
- keiichi2002
- 回答数2
- 「徳川さん」っていますか?
大名家と同じ名前だけど大名家とは関係ない上杉さん、武田さん、前田さんなどは沢山いらっしゃいますが、家康から続く徳川家とは何の関係も無い「徳川さん」っていらっしゃるのでしょうか? また、豊臣家は滅亡したのでいらっしゃらないと思いますが、織田さんはいらっしゃるのでしょうか? いらっしゃらないのであれば、理由は何でしょう? 庶民にまで氏名が与えられたのは明治に入ってからですよね? 「時の最大権力者に遠慮した」というわけではないと思うのですが。 徳川さん、織田さん、いらっしゃるようでしたら、申し訳ございません。
- 今日の西武対ソフトバンク戦
今日の西武対ソフトバンク戦の西武の先発ですが、 何故、ルーキーの松永なのでしょうか? 涌井か西口が良いのではないでしょうか? 今日負けたら、流れがソフトバンクに行くと 思うのですが。