岡部 憲ビンセント(@vincent1026) の回答履歴
- 年末、新年、時間、暦、月日の利点、欠点、限界、盲点
年末、新年、時間、暦、月日の利点、欠点、限界、盲点とは? 年末、新年は、なぜ祝うのか? 皆さんにとって、年末、新年とは? 我々は、時間、月日、日にち、曜日、暦に 洗脳され支配されている存在なのだろうか? 我々が時間、月日、日にち、曜日、暦に洗脳支配されている 状態から脱するには? 年末、年始がもし存在していなかったらば、 我々はどの様に成っていたのだろうか? 年末、年始とは人間がより一層人生を楽しむ為に つくあげたイベントの様なものなのだろうか? いつから、 我々は暦、月日、日にち、曜日、新年、年末など言う 言葉、概念を意識する様に成ったのだろうか? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。
- 私は未来人です。
この荒々しい大地に生きるあなたたち、父よ、母よ、私はあなた方の息子です。 現代に降臨するウルトラマン。 ウルトラマン 弥勒だ。 弥勒菩薩とは56億7千万年後、地上に最終的な救済をもたらす究極の救世主だ。 その時地球はどうなっているか? 以下を参考にしてくれ。 M78星雲WIKI https://ja.wikipedia.org/wiki/M78%E6%98%9F%E9%9B%B2 そう。 太陽系消滅のその瞬間、人類はウルトラマンに進化する。 私はときわたりESPを使いこなす時間認識知性として、遥か彼方の時をめぐり地球に誕生したウルトラマンへの変身を可能にしたウルトラマン弥勒だ。 ウルトラマン弥勒は遥か未来から、この大地に住む父母を救うため訪れた。 今惑星進化に直面した人類は宇宙意思の正しい方向性への導きを必要としている。 そして未来を正しく導くため、ウルトラマンの助けが必要だ。 私がウルトラマンとして、君たちに未来を授けよう。 さて以上が前置きです。 私は以前から弥勒菩薩商法としてこのような商売を考えていましたが、この事業が成功するかどうか助言をお願いします。
- 人間原理、時間論、存在論について
人間原理、時間論、存在論について 哲学的なことに興味があります。人間原理、時間論、存在論について詳しく、お手数ですがわかりやすく説明してくれる方がいましたらお願いします。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- Monchi-chi1111
- 回答数4
- what’s the deal を含んだ文の意味
what’s the deal を含んだ文なのですが、意味がよく分かりません。 I called to find out what the deal with the shipment was. = I called to find out what was going on with the shipment. What’s the deal with the dancing ? =What’s the reason for the dancing? 上の文は本当によく分かりません。下の文は「そのダンスは何ですか?」になるのですか?それともresonが入っているので、「そのダンスをする理由はなんですか?」になるのでしょうか?
- 皆さんにとって人生のゴール(幸福 幸せ)とは?
皆さんにとって人生のゴール(幸福 幸せ)とは? 皆さんにとって、 心、仕事、家庭、趣味、健康、 お金、生きがい、地域活動のゴールとは? 人生、ゴール 幸せ、幸福とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。
- 人は何で人を産むの?
生まれてこなければ、生きてる間の悩みとか死の苦しみとか一切無縁なのに。 途方もない悩みや苦しみを与えるとわかってて、どうして人は人を産むのですか? かと言って、本人が抱える悩みや苦しみなんて、誰も代わりに背負ってくれないし。 本人が「産んでくれ」と頼んだ訳でもないのに、勝手に産むなんて実に無責任じゃないですか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#223776
- 回答数10
- 哲学には世界平和に責任がある?
この何百年と願い続けられた世界平和ですが まだ実現しません。米中露の和平交渉が上手く行くと良いのですが その為には確りとした理念が必要だと思います。 その理念は哲学・思想の仕事です あなたは世界平和にどの様な考えを持っていますか? イマジンでは実現しなかった世界平和 あなたはどんな考えを持っていますか? ぜひ教えてください。
- >「イエスキリストも手を合わせている。」
こんにちは。 >「イエスキリストも手を合わせている。 手を合わせてからなら何をやっても許される。 これが仏教の究極の教えだったのでは?」 これほどの「責任転嫁」は、見たことがありませんでした。 「責任転嫁」について、お詳しい方のご解説をお願いします。
- 元カノの存在ー
彼女と別れて月日が経ちました。 今も、新しい彼女もできない。 でも、最近、元カノに、感謝するようになりました。 未練より、感謝しかないです。 愛する喜び、愛された喜び等や自分を成長さしてくれた。なりよりの感謝しかないです。 元カノに、感謝の言葉を言いました。 そしたら、相手もありがとうっと返答がきました。 僕の事を、よくわかっている存在でもあって異性の親友としておってほしいっと言いました。相手も快く快諾してくれました。その存在を忘れないで 新しい彼女を作りたいと思いました。 これからも、いろんな人に接して、元カノを忘れて新たに見つけようっと思いました。 質問なんですけど、元カノを忘れて見つけます。これを念頭に置いて 27歳男性ですけど元カノ以上を超える人は見つかるのでしょうか?元カノには、未練は、ない
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- 恋愛相談
- panda794794
- 回答数1
- アドラー心理学とフロイト
ある本に、アドラー心理学とフロイトの考えが正反対とも言える記述がありました。 フロイトの方が一般的に受け入れやすいものですが、アドラーの方は生きやすさを求めたものみたいでした。その手の本に書いてました。 この手の本を読んだとき、一体、どちらの思想を主体にすればいいのでしょうか? どちらも一理あるので、適当に参考にする程度にとどめるものでしょうか? あまり入り込みすぎるとかえって支障をきたしそうです。
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- 心理学・社会学
- noname#229157
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- 破滅願望が強く自己破壊行動が止められません
24歳男性です。 文章が苦手なので端的に言うと「頭がおかしく」なりたくて仕方がありません。 この時点でどこか頭がおかしいのかもしれませんが、物心ついた時からそんな事ばかり考えていました。 やろうとさえ思えば街中で裸になって叫べば一発で精神病院行きでしょうが、そういうことがしたいのではありません。でも狂気によってそのようなこともやりかねない、という様な精神状態になりたいのです。 記憶力や判断力を失って前後不覚になり、自己もなにもかもわからなくなって狂い消え去ってしまいたい。 過去に脱法ドラッグに手を出した時には、薬物がもたらす混乱やドラッグへの渇望、それに付随する記憶力の著しい低下など、自身を破滅させてくれる多くのものの喜びを感じました。 しかしその時は思いとどまり、薬物も断ったのですがやはり破滅してしまいたいという欲望は消えませんでした。 向精神薬を大量に飲む(オーバードーズ)自殺未遂を繰り返したのち、大学を中退。 それからはアルバイトで生計を立てていましたがすぐにタトゥーを入れたり、塞がらないほど大きなピアスを開けたりとこれもやはり取り返しのつかない自傷的な行動ともとれるようなことを繰り返しました。 そして今年の始めに大量服薬+泥酔+首吊りで自殺をしようとしたのですが結局失敗し病院に運ばれました。 そこではもちろん入院するよう言われたのですが「まだ満足するまで狂っていないのに治療されては困る」という気持ちがありなんのかんのと理由をつけて病院を飛び出してきました。 しかしその後は一旦落ち着き、結局は別の病院でですが躁鬱病と診断され、きちんと量を守って服薬し、治療を受けています。 ただし、この破滅願望については何も言っていません。 また、自殺未遂騒ぎで仕事を辞めたので秋からは生活保護を受けています。 この頃 しかし、この「おかしくなりたい」「自分を破滅させたい」衝動がやはり心の片隅に常にあります。 私自身この心を直したいという気持ちはありません。 破滅したいという欲求に対して、順調に人生が破滅に向かっているのですからとても楽しい気分があります。 世間から見てもこのような人間を放っておくのはいかがなものだろうかと思いますが、恐らく私は近い将来に自殺します。 自分の滅亡を究極的に叶える手段がやはりそれしかないからです。 一時は親や恋人を殺害すればより狂気に近づけるかもしれない…とも思いましたが、自分の夢に他人を(最悪な方法で)巻き込むのはよくないことですので、今は出来る限り迷惑を少なくしようと考えています。 私がここに長々と文章を書いた理由は、「なぜこのような気持ちになるのか」が気になったから。それ一つです。 他にもこのような考えを持っていた人がいたのか、なぜこうした思考に陥るのかがとても不思議です。 これは病気なのでしょうか?あまり正常な考えではない気がします。 私はもう十分すぎるほど狂っているのでしょうか?
- いま・ここにおけるわれの《復活》について
おしえを乞います。 次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。 ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~ そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。 ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇 くことがない。 しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたし のところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い 出さない。 わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わた しをお遣わしになった方の意志を行なうためである。 わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えに なった人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させること である。 わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命 を受け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだか らである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。 きわめて横着に 《終わりから歴史を始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。 しかるべく 正してください。
- 人間の目的は(未来の)存在を実現することでは?
人間は絶えず未来の存在を実現しています。自然と循環したりして実現する部分もありますが 人間が実現しようとしなければ人間の存在は直ぐに危機に瀕します。 本能に従って生きる面もありますがそれだけでは人間はここまで発展して来ません。 人間には存在への意志があるのです。人間は存在性によって存在しています。物も生命もそうです。 極言すれば人間は存在への意志が本性なのです。人間自体も存在性なのです。 そして存在を追求してゆけば永遠への存在を目指すことになります。永遠は目標です。 人間は今存在し、次の瞬間存在し、明日存在し来年存在するか 10年後50年後存在するか 存続するかが問題です。と同時に次世代にタスキを渡し、未来に秩序と精神(意識)を実現する それがアンドロイドになっても それ以上の存在になっても・・・それが人間の求めるところでは ないでしょうか? そこに存在主義が生まれます。大事に大事に存在を育てていかなければなりません。
- 大澤真幸の《キリストを媒介とする神の赦し》について
▼ (大澤真幸:十字架上に死すキリスト・イエスを媒介者とする神の・人間に対する赦しとは?) ~~~~~~~~~~~~ 1. だから キリスト教を生産的に応用しようと思えば・・・ まづ 出発点とすべきことは 神は 人間に対して 絶対的に超越している ということである。 2. 神が人間を 一方的に規定し 人間に働きかけることができるのみで 人間は 神へと働きかけたり 神の行動や意思を――部分的にすら――規定することはできない。 3. 《第三者の審級》という概念を用いれば キリスト教を始めとする啓示宗教の神は その超越性を 最も純粋に きわめて論理的に首尾一貫した形式で保持している第三者の審級であると解釈することができる。 ☆(あ) 1~3までは 神が人にとって絶対的に隔たると言っている。 ☆(い) 《第三者の審級》というのは うさんくさいとわたしは思って いる。前項の《絶対の隔たり》があいまいになる。言いかえると 絶対なる神が 経験世界に降りて来て 相対的な意味内容を持ちか ねない。――次項は この隔たりを埋めるという問題が来る。 4. このとき キリストとは何であるか? キリストは 神と人間の間の媒介者であろうか? そのように考えた場合には キリストは 神と人間をつなぐと同時に それらを隔てる障壁の印でもある。 ☆(う) 《障壁》≒《隔たり》は すでに理解済みであるのだが。次項 についても そう言わねばならない。 5. キリストという媒介が存在しているということは 神と人間を互いに分離した項として設定することを意味するからだ。 6. 神が人間を 端的に赦した場合には 神を人間から隔てる絶対的な超越性は手付かずのままに残されることになっただろう。 ☆(え) 《赦し》とは 人の逆らい――約束の破棄――に対するそれの ことである。 ☆(お) 《端的に赦した場合》には 神と人との隔たりが 絶対という 状態のままに遺ったであろうと言っている。端的にそのとおりであ る。――次項からは その赦し方が 手の込んだかたちになったし そのようになる必然性があったのだと説こうとしている。 7. しかし キリストは このような意味での媒介者ではない。キリストは 神そのものだからである。 ☆(か) つづく説明を聞こう。 8. 十字架の上で 神そのものが死ぬのである。もう少し繊細な言い方に換えれば 十字架の上で死ぬことを通じて 神が人間であることが示されるのだ。 ☆(き) このような説き方(解き方)だと 《死ぬ》のは 神なのか? 人間なのか? が必ずしもはっきりしない。 ・・・ 9. どういうことか? キリストが死んだということは 超越的な神(キリスト)が 内在的な人間だということであろう。 ☆(く) 分かりづらい。もともと 神の子でありみづからも神であるキ リストが 肉(身と心との自然本性たる人)となったと想定してい るのだから この《内在的な人間》という規定は 必ずしも明瞭な 説明ではないように思える。 10. その結果は 何か? 人間は 信仰において 神と関係する。人間は 超越的な彼岸にいる神と関係しようとするのだが その神は死んでしまい もはやそこにはいないのだから 人間の〔神に〕関係しようとする行為は 人間へと つまり信者たちへと還流してくるほかない。 ☆(け) 分かりづらい。 a. 神が死んだのか? 死んだのは 神か? b. 信仰とは 神とわれとのカカハリを言う。これは 中立の定義。 c. 人間が《神と関係しようとする》のは 自由だが そもそも絶対 の隔たりがあるゆえ だからどうなるというものではない。 d. 仮りに神が死んだのだとしても・《もはやそこにいない》として も 絶対のかなたの神との関係が どうして《人間へと還流して来 る》のだろう? 11. このとき つまり神が人間に置き換えられたとき 神の場所に 原理的には 人間の――あるいは信者の――普遍的な共同性(教会)が出現することになるだろう。 ☆(こ) 果たしてそうか? それが《原理的》か? 《死んだ》という 行動の軌跡が 天から神が降りて来たことを証し そこに神の痕跡 としてのごとき――次項にあるように――《聖霊》の場を実現する ことになる。のだろうか? 12. この共同性を成り立たせる紐帯こそが キリスト教の言うところの《聖霊》(あるいはキリストの身体)であろう。 ☆(さ) 果たしてどうか? ただの想像ではないのか? ☆(し) 想像ではないとしたらそれは むしろ初めに《絶対の隔たりな る神》を想定したその神とわれとの――《非思考》における――カ カハリが 依然として前提と成っていると見るのがよい。のではな いか? ☆(す) 《紐帯 ないし 共同性(また 共生)》は 非思考の庭とし てある。と想定される。 13. 神の赦しが キリストの磔刑死という 迂遠な回路を必要としたのは 赦しが 人間の側でのこうした変移――普遍的な共同性への移行――を伴なわなくてはならないからではないか。 ☆(せ) いったいどう成っているのか? キリストが死んだのだから 地上には じんるい共同の大いなる連帯が 現実となって生まれた ということか? (大澤真幸:『逆接の民主主義――格闘する思想』 2008 pp.88-91) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~