a_hona の回答履歴

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  • なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか?

     仏教の開祖の釈迦を仏陀(ブッダ)という言い方があり、「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味だ、という言い方を何度か聞いたことがあります。  ウィキペディアでも、仏教を《一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。》と、説明しています。  この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。  「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか。  ネットサーフィンして少し頑張ってみたつもりですが、仏教関係の教義や真理は、調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません.  一つの帰結を見るには、この、ブッダについて明確に知ることが必要と思われましたので、質問させていただきます。  よろしくお願いします。

    • noname#212854
    • 回答数25
  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 古代のギリシャとインド哲学の関係について

    古代世界におけるギリシャとインドについていくつか質問があり、自分の手に負えないため皆さんの知識を拝借したいです。 1 「ミリンダ王の問い」という本があるように、アレクサンドロス大王がインドまでやってきてから古代ギリシャとインドの哲学者達は少なくとも接触はあったはずなのに、どうしてその後お互いの交流が途絶えてしまったのでしょうか?ヨーロッパで仏教がちゃんと紹介されたのは1800年頃だと思います。なぜ古代中世の西洋にはインド思想の影響が見受けられないのでしょうか。 2 インド思想(仏教など)は急速に東アジアに広まりました。東に広まったのなら、同じようになぜ西には広まらなかったのでしょうか?インドの哲学者たちはわざわざ中国まで出向いて経典や教えを授けてきた歴史があります。それならなぜ西側にも向かおうと思わなかったのでしょうか。 3 古代ギリシャ哲学の影響力はギリシャだけに留まらず全ての西洋世界の根底になるほどの影響力を与えました。それに比べてインド哲学は古代ギリシャに比肩する高度な論理体型を構築していたのに、宗教面では大きな影響を及ぼしたもののアジアの中心哲学となることはできませんでした。なぜインド哲学はギリシャのようにアジアの中心哲学になることができなかったのでしょうか? 4 これは私が勉強した上での認識ですが、古代世界において古代ギリシャと並ぶ高度な哲学・論理学を構築したのはインドだけです。なぜギリシャとインドだけが宗教ではない高度な論理体型を構築しえたかについて、この二つは両方ともインド・ヨーロッパ語族に属しています。そして印欧語族というのは文法の格変化がとても豊富なため、私はこの点に共通性・そして根拠を見いだせると推測しているのですが、専門家の方がいらっしゃいましたらご意見をお伺いしたいです。 5 五番目の質問は全く根拠がない推測なのですが、ブラフマー(梵)とアブラハムは音がにていると思いませんか? Brahma 、Abraham ブラフマーのお尻の文字だけを頭に持ってくると「a」Brahmとなります。これはただの偶然でしょうか?語源的な知識をお持ちの方がいれば解説をお願いしたいです。 古代、インドにやってきたアーリア人はメソポタミアの地方からやってきました。つまりインドに侵入したアーリア人は元々の段階でメソポタミアの思想の影響を少しは受けていてもおかしくないと思うのですが・・・ 皆さんのお知恵を拝借したいです。よろしくお願いします。

    • lugal
    • 回答数17
  • 直観を磨く方法

    たとえば本屋さんに行きます。 そこにはたくさんの本があります。 お目当ての本は手に取ると魅力のないものでした。ふと通りがかりに魅力的な本を見つけます。しかし、何度もこうして身にならない本を買っているので、迷います。 このとき、買うか、買わないかは、結局経験則より直観によって決まります。 その直観の磨き方にはどのようなものがあるでしょうか。 瞑想?ヨガ?シンプルライフ? くらいしか思いつかないので、いいアイデアをお持ちの方ご回答よろしくお願い申し上げます。 人生は短く、選択肢は膨大です。気になった全ての本を読んでいたら1000歳になってしまいます。

  • 漬かり度とその計り方

      漬かるとは何かについて哲学的に考察したいと考えている。 そしてこの漬かるとゆー概念を哲学の概念として確立したいと思っている。 まず漬かり度とは、人がどの程度漬かっているかの度合いと定義する。 漬かった人達にはある共通の特徴があることが認められる。 従ってその漬かりの特徴を備えているか否か、その漬かりの特徴がどの程度かを計ることによりその人の漬かり度を計ることが出来ると考える。 ただし心理学において漬かり度の計り方に関する理論は未だ存在しないよーである。 ではその漬かりの特徴とは何か。 漬かった人達を観察することによる経験的判断から次のことが言えそーである。 まず漬かった人達には以下のよーな諸特性が見受けられる。 1. 結論逃避性 何かを語るときいたずらにだらだらと断片的なことを語り、結論を示そーとしない。 自分でも結果として何が言いたいのかよく分かっていないからそーなるのであろー。 2. 無希求性 無を求める傾向がある。 全ては無であるとか、世界は存在しないとか考える性癖がある。 ではこの世は無なのかと訊きただすと、いや無ではなく空であるなどと言って逃げよーとする。 無と空の違いも分からんのにである、阿呆らしい。 3. 思考停止性 論理的に議論を進めてゆくと必ずあるところで思考停止に陥り、それ以上の議論が成り立たなくなる。 これは脳内に一種のモードスイッチがあって都合が悪くなると簡単に非思考モードに移行できるよーな構造になっているのであろー、セコイな。 4. ・・・・・ 5. ・・・・・ 6. その他いろいろ これ以外にも漬かりの特徴を示すものはいろいろあると思うが、どのよーなことが考えられるか皆にも訊いてみたい。  

  • 「苦悩」について。

    「苦悩」について思うことを教えてください。 私は 目標達成への道を大きく疎外された時に感じる負の感情だが 目標を達成した時には喜びを増大させるものだと思っています。

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 元カレが許せません

    長文失礼します。いくつかトピ違いを出したので、同じものを見たという方はごめんなさい。 私には許せないことがあります。 それは、結婚するという条件で私の処女をあげたのに 最終的に私とは違う女の人と結婚すると言い出した元カレ、以下Sの事が許せないのです。 私のスペックは 年齢:18歳 職業:大学生 Sのスペックは 年齢:35歳 職業:職安?市役所?公務員だと思われる で、17歳差です。 私とSとの付き合いは私が中学生3年生の頃からありました。 もともと親同士が仲が良いので親戚のような関係でした。 私が保育園児の時は少し遊んでもらったりしてもらいました。 ですが、Sは隣の島根県で勤務していた為なかなか会うことはできず、中学2年生になるまで私にちゃんと会うことはありませんでした。 私は月1で地元に帰ってくるSと関係を深め、中学3年生の頃には恋人という関係を築いていました。 中学3年生でしたがキスもしました、もちろんSとです。 私が高校1年生になり、Sの誕生日が近づいてきたので"誕生日プレゼントは何が欲しいか?"聞くと、"私とセックスしたい"と答えてきました。 私は将来結婚する人じゃないとセックスはしたくない→処女はあげないと考えていたので"結婚する人じゃないと処女はあげない"という事を伝えました。 するとSは"結婚しても良いよ"と、答えてくれました。私の記憶が正しければ、メールでも直接会った時も本人の口から「良いよ」と答えてくれたのを覚えています。 Sの年齢的にも私以外の恋人は作れないだろうと思ったし、第一17も年上の大人が嘘を付くはずがないと思い、私はSの誕生日に私の処女をあげました。 Sとのセックスは毎回避妊をしてもらえず、次の日が生理と分かれば7割ぐらいの確立で中出しされました。 高校生活を送っていた私は妊娠してたら…と不安でしたが、結婚を約束してセックスをしているのだからちゃんと責任を取ってくれるはずだ、妊娠してたらしてたで愛しいSとの子だし大切に育てようとも考えていました。 ですが、高校3年生の新年(2013年)、1/1にSが"私と結婚できない、分かれて欲しい"と言ってきたのです。 結婚できない理由は私が短大に進学するというものにありました。 短大で2年、社会人になってまともに働けるようになるまで2年、合計4年待てないというのです。 私はSの口からこの言葉が出たとき「何言ってんだコイツ」と、思いました。 私はSの事を愛していたのでわかれるのは嫌だ!という気持ちを伝えましたが、Sは頑固なので聞く耳を持ってくれませんでした。 それからセフレのような関係が何回か続きました。 私はSの家(いつも会う時はSの実家)に行くと後ろから抱きしめられてたり、キスされたり、セックスしたりしてました。会うペースは付き合ってた当初と同じ、だいたい月1か月2(土日を含むと2~3日になる)です。 私から求めたのではなくSから求めてきたのでまだSの事を愛してた私は「私と同じでまだまだ好きなんだ」、「結婚するという約束で処女あげたのに酷い」、「私の目の前から消えな いで」という気持ちがあったので、Sと離れたくない一身でセックスしていました。 ですが、最近分かったことがあるのです。 実はSは私と付き合っているにも関わらず、婚活パーティーや友人からのつてで32歳の女性と出会い結婚を前提にお付き合いを申していたというのです。 要は、"その女性と結婚したいから分かれて欲しい"ということです。 4年も待てないなんてただの建前にしか過ぎなかったのです。 ちなみにこの女性との出会いは11月頃らしく、私に分かれて欲しいと伝える1月より前の出来事です。 結婚する約束で処女、セックスをしていたのは2013年の1/1まで有効なのはわかりますよね? ですが、2012年の11月に結婚を前提にお付き合いを申したのという事は"私と結婚する気なんてサラサラなかった"ということになりますよね?約束を破ったということになりますよね? 私を騙してセックスしたということになりますよね? それにその女性を紹介した友人によると、"もし今付き合ってる人がいたらやめてね"と、言われていたらしく、Sは私がいるというのにも関わらずその女性と会い、結婚を前提にお付き合いを始めたのです。 私はとてもとても悔しいです。あんなに愛してたSに裏切られ、騙された事がとても辛く悲しいです。 結婚まで取っておきたかった処女を、結婚するからと言って騙され捨てられ、その女性と今度結婚。 おこじゃすみません!激おこプンプン丸通り越して激おこスティックファイナリアリティプンプンドリームです!! ストレスため過ぎて痔にもなりましたし、自律神経失調症と思われる症状や、のどに異物感を感じるようになりました。 みなさん私のこの怒りと悔しさはどうすればいいですか?泣き寝入りするなんてできないです、したくないんです。 ちなみにコレは釣りではありません!本当のことです! 私はこれからどうすればいいのかみなさん教えてください、助けてください。

  • 自分に呆れました。

    こんにちは。大学4年の女です。 わたしは大学1年次からあるサークルに所属しており、尊敬する先輩や同期、後輩に恵まれました。 規律に厳しく、でも暖かい。そんなサークルです。 しかし、わたしはいままで「人のため」というよりは「自分」を主語にサークルに励んできました。 2年次に、尊敬する先輩からとても褒められたことに浮かれ、でもそれを「自信」にサークルを楽しみ頑張ってきました。 「自分が一番目立つ」「自分が褒められたい」「自分が・・・」という感じです。 その「一回の褒め言葉」に、浮かれていたんです。 暖かいサークルなので、今まではこれで上手くいっていました。事実、とても楽しかったです。 しかし、4年次になって後輩達の「出来る」ところを目の当たりにして、いかに自分が愚か者だったかを思い知りました。 2、3年の後輩達は、「自分たちが」ではなく「仲間のために」という言動が多く見られます。後輩想いで、サークル想いです。 そんな後輩達をみて、「ああ、自分が2、3年だった頃と比べるとなんて出来ているんだ」「わたしは自分のことばかり考えて、勝手に楽しんでいた。浮かれていた。」と思います。後悔と、今更気がついた自分に辟易としています。 なので、「これからは自分が教わった知識や、楽しさを伝えよう。サークルに貢献しよう」と4年生ながら、今頃恥ずかしいですが決意しました。自分に何が出来るかをメモし、実行している最中です。 ここからが本題です。 「自分にできること。貢献できること」を実行している最中なのですが・・ どうしても、1・2年に尊敬されている3年生たちに嫉妬してしまうんです。 彼らは、自分の事よりもサークル・仲間のことを考えて、行動しています。 それに変わって、自分はそんなことをできてなく、自分が悪いのに、「劣っているのか。悔しい。」と嫉妬してしまうんです。情けないです。 3年生達の活躍を心から喜べず、未だに自分の中に「褒められたい。メンツを保ちたい」という気持ちが少なからずあるようです。 そのため、「先輩、すごいです」と後輩に言われるととても嬉しいです。安心します。 でも、そんな自分をまた「自分は小さいな」と思います。 「自分はダメだったんだ。だから、これからだ。」と自覚しつつも、割り切って後輩達を尊敬するのは、恥ずかしながら、難しいです。 この苦しさを解決するため、自己啓発の本をいくつか読みました。 「己が最大の敵だ」「あきらめたらそこで終わり」といった素敵な言葉に触れても、活力に繋がりません。 しまいには、本を手当り次第に読み、焦り、弱音をはいてしまいそうです。 今覚えば、わたしは小学から中学までいじめられ、褒められるという体験をほとんどしてきませんでした。トイレで弁当を食べたり、人に慎重に合わせ、自分を守る日々でした。 だから、尊敬する先輩に「褒められた事実」に喜び、そして捉われてしまったのかもしれません。 今でも忘れられない、はじめて「自信」をもった瞬間でした。 ・・・このように自分の過去を振り返ったり、自己啓発の本に浮き沈みしたりと喘いでいるのですが、気持ちがイマイチ晴れません。 嫉妬、自信喪失・・どうすればいいでしょうか。 漠然としていますが、皆さんのアドバイスや喝を頂きたいです。 どうぞ、よろしくお願い致します。

  • 自信がありません

    仕事を続けていく自信がありません。 会社の雰囲気に全然馴染めず、上司にも気に入られていません。 私は生真面目でおとなしい性格で要領は悪いです。(見た目は明るくみられます) 決して不真面目にやっているわけでなく、遅刻・欠勤もしたことはありません。 仕事でミスが多いわけでもありません。 でも職務未経験入社のため、まだできることが少ないのは確かです。 一番辛いのは同期と比べられることです。 同期は優秀で人当りがよく気に入られています。 できる人だということは私もわかっているし嫌いとかでは全然ないです。 ただまわりの扱いが違い、かなりキツイです。 前いた班ではとても大事にしていただき頑張った分評価してくれたひともいたので異動も本当にしたくないと思っていたのですが、異動になり同期と同じところに来て扱いの差に大変落ち込んでいます。私がどんなに仕事を頑張っても同期に比べてダメと言われ続けるのかと思うと、もうここにいるのが辛くなります。お先真っ暗です。 最近辞めようという気持ちが頭をよぎりますが、一回転職しているのと未経験で正社員という立場で待遇もいいため、3年未満で辞めるのはしたくないという気持ちがあります。 でもうつ症状が出てきており、もうあと1年も働けないかもしれないと思いつつあります。 会社側も辞めてほしいのではないかとか余計なことを考えてしまいます。 こんな私はどこへ行ってもダメでしょうか?

    • rr4
    • 回答数3